第三十四章
見送る神田と佑の姿が見えなくなるまで、二柱は黙って歩いた。
先に口を開いたのは、月読だった。
「素戔嗚。お前は一度、天照に会いに行ったな」
「ああ」
「どうやって行った?」
素戔嗚は、足を止めた。
月読も立ち止まり、その顔を見る。
「……お前、どうやって行くつもりだったんだ?」
「だから、今、お前に聞いている」
「会いに行くと決めただけで、行き方は考えてなかったのかよ」
「お前が知っていると思った」
素戔嗚はしばらく月読を見つめ、それから額へ手を当てた。
「お前なぁ……」
「知らないのか?」
「知ってるよ。だが、あいつを呼んだ方が早い」
素戔嗚は道の先へ目を向け、声を張った。
「猿田彦!」
しばらく待ったが、何も起こらなかった。
やがて、道の曲がり角から、大柄な男がひょいと顔を出した。
「おお、二人揃ってどうした? 俺に何か用?」
「高天原へ行く。案内しろ」
「高天原? 天照大神に会いに行くってこと?」
「ああ。話がある」
月読が答えると、猿田彦は二柱の顔を交互に見た。
「へぇ……今から?」
「ああ」
「そっか。高天原か……」
猿田彦は顎へ手を当て、少し考えるような顔をした。
だが、その口元は、すぐに緩んだ。
「……うずめちゃん、いたりしないかな」
「おい。俺たちの用を忘れるなよ」
「分かってるって。道案内だろ? 俺に任せろよ」
猿田彦は笑い、二柱の前へ出た。
「じゃあ、ついてきて。途中で違う道へ入るなよ」
その足取りは、妙に軽かった。
素戔嗚は月読へ顔を寄せ、小声で言った。
「……あいつ、天宇受売に会うことしか考えてねぇぞ」
「道を案内してくれればよい」
「お前も、大概だな」
猿田彦は二柱のやり取りなど気にも留めず、鼻歌交じりに歩いていく。
その背を追ううちに、月読は、周囲の景色が変わっていることに気づいた。
家々の間を歩いていたはずなのに、いつの間にか、人の姿が消えている。
車の音も、どこかの家から聞こえていた物音も、次第に遠ざかっていった。
猿田彦が一歩進むたび、道の先へ薄くかかる霞が、左右に分かれていく。
月読が振り返ると、歩いてきた道は、すでに白く霞んでいた。
「こっちだよ」
猿田彦の声に、月読は向き直った。
霞の向こうから、鈴の音が聞こえる。
澄んだ音が、鳴っては途切れ、また鳴った。
猿田彦の鼻歌が、ぴたりと止まった。
その先に、一柱の女神がいた。
袖を広げ、足を踏み替え、くるりと身を翻す。
手にした鈴が、その動きに合わせて鳴った。
「……うずめちゃん」
猿田彦の口から、掠れた声が漏れた。
女神を見つめたまま、その場に立ち尽くしている。
月読は、かつて海に浮かぶ二つの岩の前で聞いた話を思い出した。
――きっと、また逢えると思ってるんだけど……見つからないんだよね。
今、その女神が目の前にいた。
「何用か」
天宇受売は、踊りをやめなかった。
だが、その目は、猿田彦の後ろにいる二柱を真っ直ぐに捉えている。
「ここから先へ、何をしに来た」
舞う袖が、行く手を遮る。
素戔嗚は、眉をひそめた。
「天照に会いに来た。それだけだ」
「通してよいとは、聞いておらぬ」
天宇受売は身を翻し、再び道の中央へ立った。
その顔に、笑みはない。
月読が、前へ出た。
「天照大神に会わせろ」
静かな声だった。
だが、鈴の音の中でも、その一言は明瞭に響いた。
天宇受売の足が、一瞬止まる。
月読は女神を見据えたまま、言葉を続けた。
「私は月読。黄泉の国を統べる者だ。天照に話がある」
天宇受売は、唇を引き結んだ。
張り詰めた空気の中、猿田彦が、ようやく動いた。
前へ出ようとしては足を止め、女神の顔を覗こうとしては、舞う袖に遮られる。
とうとう我慢しきれなくなったのか、大きく両腕を広げた。
「うずめちゃーん!」
天宇受売へ駆け寄る。
女神は、ひらりと身をかわした。
「寄るな」
「やっと会えた! 俺、ずっと探してたんだよ!」
猿田彦は向き直り、また近づく。
天宇受売は、くるりと回り、その手を避けた。袖が猿田彦の顔を掠め、鈴がひときわ高く鳴る。
「ああ、相変わらずだなぁ。ちょっとくらい、話してくれてもいいじゃん」
「今は、お前の相手をしている場合ではない!」
「じゃあ、あとならいい?」
「そういう意味ではない!」
女神は、舞うように猿田彦をかわし続けた。
猿田彦は、そのたびに向きを変え、嬉しそうについていく。
かわされることさえ、今は喜ばしいようだった。
素戔嗚は、呆れた顔で、その騒ぎを見ていた。
「……何をしに来たんだ、あいつ」
「案内はしてくれた」
「そういう話じゃねぇよ」
その時、微かな風が、月読の髪を揺らした。
目を向けると、天宇受売の背後を覆っていた霞が、音もなく分かれ始めている。
猿田彦が女神を追い、道の脇へ寄る。
開いた道の向こうには、明るい空と、遠く連なる建物の屋根が見えた。
天宇受売も、それに気づいた。
鈴を持つ手を止め、道の奥を見つめる。
その隙に、猿田彦が、また近づいた。
「ねえ、うずめちゃん。俺のこと、覚えてる?」
「お前は、少し黙っておれ!」
女神が猿田彦を睨んだ時には、月読は、すでに歩き出していた。
「行くぞ、素戔嗚」
「ああ」
二柱は、脇へ寄った天宇受売と猿田彦の間を通り抜けた。
天宇受売は、月読の背へ手を伸ばしかけた。
だが、道の奥へ、もう一度目を向ける。
そして、その手を静かに下ろした。
素戔嗚は、それを横目で見たが、足を止めなかった。
「猿田彦。案内、礼を言う」
月読が振り返って告げると、猿田彦は片手を上げた。
「おう! あとは、そのまま真っ直ぐ行けばいいから!」
すぐに、天宇受売へ向き直る。
「それでさ、うずめちゃん。聞いてほしいことが――」
「近づくなと言っておろう!」
鈴の音と猿田彦の声を背に、月読と素戔嗚は、霞の向こうへ踏み入った。
足元の道は、高天原の奥へと続いていた。




