第三十三章
「大丈夫。ほら、何ともないでしょう?」
神田は袖をまくり、佑に腕を見せた。
佑は、その腕を確かめるように見つめ、それから母親の顔を見上げた。
「……怖かったね」
「うん。怖かったね」
神田は手にしていた消毒液を置き、佑を抱き寄せた。頬の傷へ触れないよう、そっと頭を撫でる。
佑もまた、母親の背中へ腕を回した。
月読は、少し離れたところに座り、その姿を見ていた。
河川敷で、神田は自分の身を顧みず、佑を守ろうとしていた。あれほど恐ろしい目に遭ったというのに、帰ってきてからも、まず子の傷を気にかけている。
傷つけられれば、氣は損なわれる。
恐れ、怒り、悲しみに囚われれば、やがて氣は枯れていく。そして、弱った心身の隙へ、穢れがまとわりつく。
それでも神田は、佑を抱く手を緩めなかった。
佑もまた、自分の傷より、母親の身体を心配している。
月読は、ゆっくりと目を伏せた。
現世へ来てから、幾人もの人間に会った。
神田と佑。
中村。
藤田。
誰もが、思いどおりに生きているわけではない。
疲れもする。腹も立てる。時には弱音を吐き、迷いながら、それでも日々を送っている。
懸命に子を守る母がいた。
疲れた自分自身を労り、また明日を生きようとする者がいた。
他人を守るため、力を尽くす者がいた。
この世には、これほどまでに穢れが蔓延している。
それでも、氣を枯らしきることなく、生きようとする人間たちがいる。
あの男たちの姿も、月読の脳裏から消えてはいなかった。
神田と佑を傷つけた男。
金を得るために集まり、ただ見ていただけだと言い張った者たち。
思い出せば、今も怒りが湧いた。
だが、彼らのために、目の前の親子まで失わせてよいのか。
月読は顔を上げた。
神田が佑の髪を撫でながら、何かを囁いている。佑は小さく頷き、母親へ身体を預けていた。
――私は、彼らを守りたい。
その時、玄関の扉が開いた。
「帰ったぞ」
素戔嗚の声に、佑が顔を上げた。
「素戔嗚さん!」
「おう。どうだ、頬は」
「これくらい、大丈夫だよ」
「そうか。だが、あんまり触るなよ」
素戔嗚は佑の顔を覗き込み、傷のない方の頬を、指で軽くつついた。
佑が、少し笑った。
神田は佑を抱く腕をほどき、素戔嗚へ頭を下げた。
「ありがとうございました。私たちのために……」
「礼はいい。お前らが無事なら、それでいい」
素戔嗚はそう言って、月読へ目を向けた。
月読もまた、素戔嗚を見ていた。
「素戔嗚。少し、話がある」
「ああ」
月読が立ち上がると、素戔嗚も、その後に続いた。
二柱は玄関から外へ出ると、神田たちへ声が届かぬよう、共用廊下の端まで歩いた。
月読は一度、神田の部屋を振り返った。
閉ざされた扉の向こうには、寄り添う母子がいる。
「天照に会いに行こうと思う」
声を落として告げると、素戔嗚は腕を組んだ。
「……今からか」
「ああ」
「会って、どうする」
「この世のことを話したい」
月読は、素戔嗚を見た。
「私は、この世を沈ませたくない」
素戔嗚は、何も答えなかった。
「人間の中に、あのような者がいることは知った。私も、怒りに任せ、あの男を黄泉へ送ろうとした。だが、それだけではなかった」
月読は、もう一度、閉ざされた扉へ目を向けた。
「ここへ来て、懸命に生きる人間たちに会った。神田と佑、中村、藤田……。穢れの蔓延する世の中で、皆、自らの氣を枯らしきることなく、傷ついた心を労り、子を守り、他人のために力を尽くしている」
月読は一度、言葉を切った。
「私は、彼らを守りたい」
素戔嗚は、月読の横顔を見ていた。
やがて、自分も神田の部屋へ目を向ける。
「……俺は、まだ、この世の人間を好きにはなれねぇ」
「お前に、そうなれと言っているのではない」
「分かってる」
素戔嗚は短く息を吐き、組んでいた腕をほどいた。
「俺も行く。ここまで付き合ったんだ。今さら降りられるかよ」
「一緒に来てくれるか」
「お前だけを行かせて、また面倒なことになられても困るしな」
月読は、小さく頷いた。
二柱が部屋へ戻ると、佑が顔を上げた。
「お話、終わった?」
「ああ」
月読は、神田と佑の前へ立った。
「これから、天照に会いに行く」
「天照大神に……?」
神田が聞き返すと、月読は頷いた。
「少し、話をしにな」
「俺も行く」
素戔嗚が付け加えた。
佑は、二柱を交互に見た。
「……今から?」
「ああ」
素戔嗚の返事を聞き、佑はゆっくりと立ち上がった。
神田も、行く理由や帰る時刻を尋ねることなく、その隣に立った。
玄関で月読が履物を整えている間に、素戔嗚が扉を開け、外へ出た。
その後を追おうとした月読の袖を、佑の指が掴んだ。
月読は足を止め、振り返った。
佑は俯いていた。
何かを言おうとして唇を動かしたが、声にはならない。
月読は屈み、その顔を覗き込んだ。
「佑」
佑が顔を上げた。
月読は、傷のない方の頬へ、そっと手を添えた。
「母を頼む」
佑は月読を見つめたまま、一度だけ頷いた。
袖を掴んでいた指が、ゆっくりと離れる。
月読が立ち上がると、神田が玄関の脇へ身を寄せた。
二人の目が合った。
神田は何も言わず、頭を下げた。
月読もまた、静かに頭を下げた。
外では、素戔嗚が待っていた。
月読が隣へ並ぶと、素戔嗚は神田と佑を振り返った。
何かを言いかけて、やめる。
その代わりに、片手を上げた。
佑も、小さく手を上げた。
二柱は歩き出した。
神田と佑は玄関を出て、その背中を見送った。
いつもの「いってらっしゃい」は、どちらの口からも出てこなかった。
佑が、神田の手を握った。
神田は、その小さな手を握り返した。
歩いていく二柱を見つめながら、母子は同じことを思っていた。
もう二度と、月読にも、素戔嗚にも会えないのではないか。
だが二人とも、それを口にすることはなかった。




