第三十ニ章
「あの、素戔嗚さん。何か喋ってもらえませんかね? まだ、心の準備が必要ですか?」
千樹警察署の面談室で、藤田は目の前の少年へ話しかけた。
ここへ来てから、もう小一時間になる。
その間、素戔嗚は一度も口を開いていない。椅子へ座って俯いたまま、床に届かない足を、ぷらぷらと揺らしている。
藤田は困っていた。
今、目の前にいる素戔嗚には、神社や先だって会った時のような威光がない。
もし藤田が大声で怒鳴りつけたら、そのまま泣き出してしまうのではないか。
そう思うほど、弱り果てて見えた。
「やっぱり、神田さんに迎えに来てもらいますか?」
「……それは駄目だと言っただろう、藤田」
河川敷から警察署へ向かう途中、素戔嗚が口にしたのは、たった一言だけだった。
――河川敷で俺がしたことは、神田と月読には知らせるな。
それだけだ。
あの状況を説明する言葉は、ほかに何一つ発していない。
「そう言われてもね。俺も仕事なもので……。初めに、あの河川敷へ連れてこられたのが神田親子だということは分かっているんです。二人から、話を聞かないわけには……」
「なあ、藤田。俺は、あの男が憎くて、あんなことをしたと思うか?」
「へ? あ、ああ。話してくれるんですか?」
藤田は慌てて、姿勢を正した。
「ええ。そりゃあ、神様であるあなたが、あそこまでしたんです。あの男が、あなたを怒らせるようなことをしたのでしょう。でも、それは、あの男を導くためであって、憎しみから与えた罰ではないと思いますよ。だって、あなたは神様なんでしょう?」
「俺が、神だからか……」
素戔嗚は揺らしていた足を止め、ぽつりと言った。
「藤田。俺は、あの男が、俺の友を傷つけたことに腹を立てた。だが、その前に月読が、神田を傷つけたあの男を、無理やり黄泉へ送ろうとした。あの黄泉の神が、現世で、怒りに任せてだ」
「はぁ……」
藤田には、素戔嗚の言っていることが、何のことやら分からなかった。
つい、生返事をしてしまう。
「人間は、この世界にいる意味を理解しているのか? しているのなら、なぜ、あんな奴らがいる? 働きもせず、人のものを奪い、それが当然だと、本気で思っているのか?」
素戔嗚は、膝の上で拳を握った。
「あんな奴らばかりじゃないことは、分かっている。分かっているが……あれは危うく、月読を転じさせるところだった。そんなことになれば、月読は黄泉へ戻れなくなる」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください、素戔嗚さん。すみません。あなたの話、八割方、意味が分からない。もう少し、俺にも分かるように話してもらえませんか」
「……めんどくせぇよ」
素戔嗚はそう言うと、再び黙り込んでしまった。
藤田は、深い溜め息を吐いた。
「俺は、どうしてこの世界に人間がいるのかなんて、考えたこともありません。ですが、今の社会はおかしなことになっていると、毎日のように思っていますよ」
素戔嗚は、俯いたまま動かない。
それでも藤田は、話を続けた。
「子どもを産み育てろというわりに、そのための環境は整わない。そもそも、皆、自分の生活だけでいっぱいいっぱいです。挙げ句、縁あって子宝に恵まれたというのに、自分の子を虐待して殺す親もいる。無事に育ったら育ったで、今度は、いつ、どこで、世の中に絶望し、自ら命を絶ってしまうか分からない」
「……八木のようにか?」
その名を聞き、藤田は悲しげに目を伏せた。
「特定の誰かの話ではありませんよ。ただ……八木も、この社会の犠牲者だったのかもしれませんね。追い詰めた俺が言うのも、おかしな話ですが」
「なぜ、人は他人を傷つけるんだ?」
「なぜって……理由なんて、あってないようなものでしょう。ただ、相手が気に入らないということもあれば、自分の強さを認めさせたい奴もいる」
藤田は、少し考えてから続けた。
「誰かが失敗して、皆が同じ意見だと分かると、匿名で、その相手が病むまで言葉の暴力を浴びせる。そうやって、ストレスを発散する者もいる。こういう人間は、別に何かを正したいわけじゃない。ただ、言いたいだけなんです。誰かを裁きたくて仕方がない。当事者でもないのにですよ。自分が矢面に立つことになるなんて、微塵も考えちゃいない」
「なぜ、関係ないのに、わざわざ首を突っ込む? それに、何の意味がある?」
「それは……素戔嗚さんには、分からないでしょうな。人は、誰かと自分を比べるんです。比べて、勝手に優劣をつけたがる。自分が高いところへ行けないのなら、その高い場所から、より多くの人間を引きずり下ろしたい。そんな衝動に駆られる時があるんですよ」
「……直接会ったことも、話したこともない相手をか? 藤田も、そうなのか?」
「俺は、いわゆるSNSってものをやっていないんでね。でも、むかつく上司を引きずり下ろしたいと思うことくらいは、ありますよ」
藤田は、苦笑した。
「まあ、それは置いておいて。ニュースでも、SNSがきっかけで事件に巻き込まれる事例が、よく報じられています。現代社会では人間関係が希薄になった分、人は誰かとの繋がりを求めているのかもしれません。ただ、その思いを悪用する人間がいるのも確かです」
「そのSNSというものが、悪いわけじゃないだろう。結局、使っている人間に、相手を見抜く力がないだけじゃねぇのか?」
藤田は、素戔嗚の顔を見て笑った。
「ははは。それを言われたら、身も蓋もない。でも、そうですね。実際、それを使っているのは人間ですからね。動物の世界にはありませんもんね。SNSを使った犯罪なんて」
しばらく、二人の間に沈黙が流れた。
藤田は、素戔嗚が話をしてくれるようになったことには安堵していた。
だが、肝心の河川敷での出来事については、まだ何一つ聞き出せていない。
「でもね、素戔嗚さん。今回の件は、SNSと関係ないんで。そろそろ河川敷で何があったのか、話していただいてもいいですかね?」
「この世界はな、人の正と負の感情が均衡を保つことで、存在できているんだ」
藤田は、天井を見上げた。
また、話をすり替えられたと思ったのだ。
――勘弁してくれ。
心の中で、そう呟く。
「昨今、その均衡が、著しく負へ傾いている」
「へ、へぇ……。負へ傾くと、どうなるんですか?」
「過去にも一度、急激に負へ傾いた時代があった」
「その時は、どうなったんです?」
「多くの人間が、怒りや憎しみに呑まれた。国も人も、互いに奪い合い、殺し合った」
「……戦争ですか?」
「さあな。人間が何と呼んでいるかなど、俺は知らねぇ」
「素戔嗚さん……まるで、また戦争でも起きるような口ぶりですね。この国で……」
「……戦争?」
素戔嗚は藤田を見て、僅かに笑った。
「この国の人間は、戦えないだろう。それに、戦ってどうにかなる相手じゃねぇ」
そう言って、素戔嗚は椅子から立ち上がった。
「ま、藤田。河川敷での件は、適当に話を作っておいてくれよ。俺が主犯の男を焼いた。仲間の男たちの目を奪った。烏に、金を下ろしに行った男を襲わせた。やったのは、それだけだ。理由は、あの男が佑を傷つけたことに腹が立ったからだ」
「へ? 適当にって……」
「俺は帰る。佑と、ゲームがしたくなった」
「いやいやいや、ちょっと待ってくださいよ。何ですか、それ。もう少し、ちゃんと話してください」
「じゃあ聞くが、俺は、人間の決まりで何か罪を犯したか?」
「え……罪……。暴行罪とか、傷害罪とか……」
「俺があの男に触ったのは、気を失っていたのを起こすために、二、三度、頬を叩いた時だけだ。あとは、指一本触れていない。それでも暴行か?」
「え……いや……」
素戔嗚の言うことが本当ならば、事情を聴く側から見た彼は、現場にいただけの少年でしかない。
この小さな少年が、大の男たちから視力を奪い、主犯の男に全身火傷を負わせた。
そんな話を、誰が信じるというのか。
本人が、自分の仕業だと語ったところで、それを裏づける証拠は何一つない。
呪いで人を殺したと主張しても、実際に呪いが原因だと証明できなければ、立件できない。それと同じだ。
人間の法で、素戔嗚を裁くことなどできない。
藤田は、以前聞いた言葉を思い出していた。
――触れてはならぬ者。
「俺を捕らえて、牢へ繋ぐか? 藤田がそうしたいなら、入ってやってもいいが……」
「ふっ。あなたを留置場に? やめてくださいよ。何の証拠もないのに、こんな小さな少年を留置場へぶち込んだら、俺の頭が疑われちまう。それに、神様をそんなところへ閉じ込めたら、祟られそうだ」
「祟らねぇよ。これでも、少しやり過ぎたとは思ってる」
素戔嗚は、目を伏せた。
「ああ、目を取った奴らだが、あれは戻らねぇ。自分たちで選んだ裁きだ。火傷の方は……あいつの心次第だがな」
「戻らない……」
藤田は、顔を曇らせた。
「分かりました。あとのことは、俺が何とかします。でも、素戔嗚さん……お願いですから、これっきりにしてください」
「ああ。あと三週間もすれば、俺は人間の前から消えているだろうさ。お前に絶対迷惑をかけないと、約束はできないけどな」
「何ですか、それ……」
藤田は頭を抱えかけたが、ふと思い直し、顔を上げた。
「あ、最後にひとつだけ、聞いても?」
素戔嗚が頷く。
「人間の世界では、殺したいと思うだけなら、罪には問われません。神様の世界では、人を殺したいと思うことは、罪になりますか?」
「ほかの神のことは知らねぇ。だが、俺が誰かを殺したいと思えば、確実にそいつは死ぬ。俺が、直接手を下さなくてもだ」
素戔嗚は、真っ直ぐ藤田を見た。
「思うことと、その結果が同じならば、それは罪だ」
藤田はひとつ頷き、椅子から立ち上がった。
「はい。では、もう帰っていいですよ。俺はこれから、荒唐無稽な事実を、ありがちな現実へ変える作業がありますんでね。刑事も、何やかんや事務仕事が忙しいんです」
そう言って、藤田は面談室の扉を開けた。
素戔嗚は一度頷き、部屋の外へ出ていった。
それと入れ替わるように、山下が面談室へ入ってくる。
扉が閉まると、山下は、先ほどまで素戔嗚が座っていた椅子へ腰を下ろした。
藤田は仕方なく、再び自分の椅子へ座り直す。
古びた椅子は藤田の重さを受け止め、ぎいっと小さく鳴いた。
山下は目を輝かせながら、素戔嗚が出ていった扉を見つめた。
「藤田さん! 帰しちゃっていいんすか? 彼、例の月読さんと知り合いなんでしょ? もしかして、あの子も神様系ですか?」
「おお。有名人だぞ。あの子は、素戔嗚尊だ」
藤田の口から出た神の名に、山下は目を見開いた。
誰もが知るほど、有名な名だ。
だが、月読、猿田彦とくれば、もはや神が実在すること自体には、さほど驚かない。
山下が驚いたのは、あの暴れん坊として知られる素戔嗚尊が、小さな少年の姿をしていたことだった。
藤田は、そんな山下を見て笑った。
「まあ、あと三週間もすれば、人間の前から消えるそうだ。こういう騒ぎも、それまでだろうよ」
「帰しちゃって、本当に大丈夫なんすか? 河川敷にいた男たち、眼球にも視神経にも異常がないのに、全員、何も見えないって訴えてるんですよ。あの男の子に視力を奪われたって。主犯の男は全身に火傷を負ってるし、別の男は烏に襲われて重傷。彼が、何かしたんですよね?」
「本人は、そう言っていたな」
「だったら……」
「だが、証拠がない」
藤田は、山下の言葉を遮った。
「素戔嗚が、男たちに触れたところを見た者はいない。男たちの身体から、素戔嗚に結びつく証拠も出ない。烏を操って人を襲わせ、川の水を龍に変え、傷ひとつつけずに人間の視力を奪った――そんな供述を調書へ書いて、誰が信じる?」
「でも、それが事実なんでしょう?」
「事実と、立証できることは違う」
山下は、納得できない様子で口を尖らせた。
「じゃあ、どう処理するんです?」
「通報された事実と、現場に残っている証拠を、そのまま追う。神田親子を連れ去り、金を奪おうとしたのは、あの男たちだ。カードを持ってATMへ向かった奴もいる。防犯カメラを確認すれば、そっちは裏づけられるだろう」
「男たちの失明と、主犯の火傷は?」
「原因不明だ」
「原因不明……」
「分からないものを、分かったふうに書くわけにはいかんだろう」
「藤田さん、さっき、『荒唐無稽な事実を、ありがちな現実に変える』って言ってませんでした?」
「気が変わった。俺は、見たものを書く。分からないことは、分からないと書く」
「それで、上が納得しますかね?」
「させるのも、俺の仕事だ」
山下は、しばらく藤田の顔を見つめていた。
「じゃあ、視力を失った男たちには、何て説明するんです?」
「説明も何もない。医者へ任せるしかないだろう。ただし、河川敷で何をするつもりだったのかは、きっちり話してもらう」
「……永久に、見えないんですか?」
「そうらしい」
「それ、ちょっと罰が重すぎません?」
藤田は、河川敷で聞いた男たちの言葉を思い出していた。
ただ、見ていただけ。
何もしていない。
まだ未成年だから。
金も受け取っていない。
「さあな。人間の法律なら、そう判断するかもしれん。だが、あの神が裁いたのは、手を出したかどうかじゃない」
「じゃあ、何を?」
「見えていたのに、見なかったことにした。そこじゃないか」
山下は、何も答えなかった。
藤田は椅子から立ち上がり、机の上に置かれていた書類を手に取った。
「俺は、火傷を負った男のいる病院へ行ってくる。意識が戻っていれば、話を聞く」
「助かるんですか?」
「分からん。だからこそ、今のうちに、できることをする」
面談室を出ようとする藤田の脳裏に、先ほどの素戔嗚の言葉が蘇った。
――昨今、その均衡が、著しく負へ傾いている。
――多くの人間が、怒りや憎しみに呑まれた。国も人も、互いに奪い合い、殺し合った。
藤田は、足を止めた。
「素戔嗚さん……戦争でもないなら、いったい何が起きるっていうんだ」
答える者はいない。
藤田は小さく息を吐き、再び歩き出した。
これから、荒唐無稽な事実と向き合わなければならない。
それでも、何が起きたのかを見ようとすることだけは、やめてはならないと思った。




