第三十章
月読さんたちを氷川神社の前で降ろし、私と佑は自宅へ向かっていた。
「佑、今日の夕飯、何にしようか」
「お母さん、それより僕、お腹空いた。お昼ご飯、まだ食べてないよ」
「あ、そっか。ごめん、忘れてた。先に軽く何か食べよう。焼きそばとかでいい?」
「僕、ハンバーガー食べたぁいな」
佑が、わざとらしく甘えた声を出す。
私は思わず笑ってしまった。
「あはは、何その言い方。まあ、たまにはいいか。分かった、ハンバーガーを食べよう」
「やったー! 久しぶりのハンバーガー!」
こうして私たちは、近くのハンバーガーチェーン店へ向かうことにした。
店へ着くと、昼時をとうに過ぎているにもかかわらず、店内は混み合っていた。休日ということもあり、どの家庭も食事の時間が少しずれているのだろう。
私は佑を席へ座らせ、一人でレジの列に並んだ。
ハンバーガーのセットを二つ注文し、受け取ったトレーを持って、佑の待つ席へ戻る。
「お待たせ。さあ、食べよう」
「いただきます」
私はコーヒーを飲みながら、佑がハンバーガーを頬張る姿を眺めていた。
この子の前世が何者であろうと、私には関係ない。
今は、私の大切な息子だ。
少しくらい変わっていたっていい。その方がきっと、人生は楽しい。
「何? さっきから、じっと見て。恥ずかしいじゃん」
私の視線に気づいた佑が、照れくさそうに言った。
私は目を細める。
「佑、顎にケチャップがついてる」
「えっ、どこ?」
佑は慌てて、顎を手でごしごしと擦った。
その姿がおかしくて、私はまた笑った。
何でもない、こういう時間に幸せを感じる。
私たちは遅い昼食を終え、車を停めた駐車場へ向かった。
車の鍵を開け、後部座席の扉を開いた、その時だった。
「みーつけた」
聞き覚えのある声が、背後からした。
背筋が凍りつき、身体が動かなくなる。
振り返るより早く、男が佑を掴んだ。
「佑!」
男は佑を後部座席へ押し込み、自分もその隣へ乗り込んだ。小型のナイフを佑の頬へ突きつけ、私を睨む。
「おばさん。早く乗って、車を出せ。言うことを聞かねぇと、こいつを殺すぞ」
佑が、必死に男の腕から逃れようともがく。
男は、その左頬へナイフの先端を強く押し当てた。
薄く裂けた皮膚から、赤い血が滲んだ。
「暴れんなよ。次は、どこに刺さるか分からねぇぞ」
「やめて! 分かりました。言うとおりにしますから!」
私は震える足で運転席へ乗り込み、車を発進させた。
男に指示されるまま、車を走らせる。
「何が目的なんですか? お金なら払います。いくら用意すればいいんですか?」
「金? もちろん払ってもらうさ。慰謝料としてな」
男は、嘲るように笑った。
「でも、それだけじゃ俺の気が収まらねぇ。相方は腕の骨が折れて、今も入院中。俺も、この手に穴を開けられて、うまく動かねぇ。お前らのせいで、こっちは酷い目に遭ったんだよ」
「あんたたちが、自分で蒔いた種だろ。他人のせいにするな」
「何だと、ガキ! 殺すぞ!」
「っ……!」
男が、ナイフを握る手へ力を込めた。
バックミラー越しに、刃先が先ほどより深く、佑の頬へ食い込むのが見えた。
「やめてください!」
自分でも驚くほど、大きな声が出た。
「いくらでも払います。その子には、手を出さないで!」
「大人しくしてりゃ、何もしねぇよ。今はな」
私は男の指示に従い、車を走らせ続けた。
何度か角を曲がるうちに、あることに気づいた。
先ほどから、黒いバンがずっと後ろをついてきている。
男の仲間だ。
そう思った途端、恐怖で全身が震え始めた。
何とか、警察へ知らせられないだろうか。
スマートフォンを操作する隙はない。信号で止まっても、バックミラー越しに男がこちらを監視している。
焦りで頭が回らず、何もできないまま、私たちは土手沿いへ辿り着いた。
「ここで止めろ。降りろ」
黒いバンも、少し離れた場所へ停まった。
男は嫌がる佑を抱え、他人からは見えないよう、その腰の辺りへナイフを突きつけている。
辺りには工場が立ち並んでいたが、休日のためか、人影はない。
助けを求めることもできなかった。
私たちは男の命令に従い、土手を上って、川岸まで歩かされた。
もう少し早い時間なら、散歩をする人もいたかもしれない。
だが、辺りはすでに薄暗くなり始めていた。伸び放題の草木が、私たちの姿を外から完全に覆い隠している。
川岸へ着くと、黒いバンに乗っていたらしい数人の男たちが、にやにやと笑いながら待っていた。
「おばさんとガキは、ここに座れ。今から面白いものを見せてやるから」
男は私たちを地面へ座らせると、右手に巻かれた包帯を解き始めた。
すべて解けた包帯が、足元へ落ちる。
男は掌を私たちへ向け、傷を見せつけた。
傷口は塞がるどころか膿み、周囲の皮膚は赤黒く変色していた。
「俺さぁ、糖尿なんだわ。怪我しちゃ駄目な身体なの。それなのに、こんな傷を負ってさ。たぶん、この手、腐るんだわ」
「腐る……?」
「そう。俺、片手なくなっちゃうの。すげぇムカつく。おばさん、これ、どうしてくれんの?」
「と、とにかく病院へ行ってください。今なら、まだ間に合うかもしれません」
何が正しい答えなのか、分からなかった。
ただ、口から出たのは、そんな言葉だった。
男は腹を抱えて笑う。
「あははは! じゃあ、これが終わったら病院へ行くわ」
何が終わるのか。
これから何が始まるのか。
分からないことが、何より恐ろしかった。
夕刻を告げるように、一羽、また一羽と、烏が舞い降りてきた。
私たちと男たちの周囲で地面を啄み、時折、こちらをじっと見つめている。
一羽の烏が、地面へ放り出された私の鞄を啄み始めた。
中に、食べ物など入っていないのに。
「それじゃあ、これから、季節外れの花火大会を開催しまーす!」
「花火大会……?」
「そう! 今からルールを説明します!」
男は私の鞄を奪い、中身を地面へぶちまけた。
驚いた烏が一度飛び退き、すぐ近くへ舞い降りる。
男は財布を拾い上げると、中から銀行のキャッシュカードを抜き取り、仲間の一人へ渡した。
「まず、おばさんには、カードの暗証番号を言ってもらいまーす。はい、いくつ?」
私は、迷わず暗証番号を伝えた。
「ちっ、つまんねぇな。すぐ答えたら、ルール説明にならねぇじゃん。少しでも言い淀んだら、花火大会を始められたのによ」
男は、不満そうに舌打ちをした。
「まあ、いいや。これから、こいつが、よーいドンでATMへ行きます。走るかどうかは、こいつ次第。一分経つごとに、この花火へ一本ずつ点火しまーす」
男は、火をつけると筒から火花が噴き出す花火を、私と佑の間へ置いた。
「おばさんとガキは、特等席で見物な」
ほかの男たちが、私と佑の両手を後ろへ回し、結束バンドで縛り上げる。
「それでは、季節外れの花火大会、開催! よーい、ドン!」
男の掛け声とともに、私のキャッシュカードを持った仲間が歩き始めた。
急ぐ気など、微塵もない。
男が草を掻き分けて遠ざかる。その周囲で、烏がふわり、ふわりと飛び上がっては、また地上へ降り立った。
「景気づけに、一本目、着火ー!」
「待って! まだ一分経ってない!」
「はぁ? そんなの関係ねぇし」
男が花火へライターを近づけた。
その瞬間、辺りに集まっていた烏が、一斉に鳴き始めた。
あまりの声に、男の仲間が辺りを見回す。
「おい……何か、烏、多くねぇか? 俺、鳥が苦手なんだけど。この数、ちょっと怖くね?」
「何びびってんだよ。鳥でも獣でも、動物は火が怖いんだ。花火をつけりゃ、一瞬で逃げてく。見てろよ」
男は、花火へ火をつけた。
しゅう、という音とともに、筒の先から火花が噴き出す。
私は反射的に、佑へ覆い被さった。
火花が、背中や腕に当たる。
髪へ落ちた火花が、焦げた嫌な臭いを放つ。
「お母さん、やめて! お母さんが燃えちゃう!」
身体の下で、佑が叫ぶ。
「大丈夫。花火くらいで、お母さんは燃えたりしないから」
この花火は、数十秒で消える。
その間だけ、我慢すればいい。
絶対に、佑へ火花を当ててはいけない。
熱さに耐えていると、視界の端を、黒い影が横切った。
一羽の烏が花火の脇へ降り立ち、足先で筒を倒した。
倒れた花火は向きを変え、男たちの方へ火花を噴き出す。
「うわっ、危ねぇじゃねぇか! 烏のくせに、人間様とやろうってのか!」
男は烏を追い払おうと、手持ち花火へ火をつけ、振り回し始めた。
鳥が苦手だと言っていた仲間まで、震える手で、別の花火へ火をつけようとしている。
数羽の烏が、男たちの頭上を飛び回り、翻弄していた。
花火を倒した烏だけは、その場から動かなかった。
よく見ると、嘴に小さな白い紙を咥えている。
あれは――。
朝、月読さんから渡された髪を包んだ紙だ。
足元へ転がった鞄から、拾い出したのだ。
花火は火花を噴き終えると、筒そのものが赤く燃え始めた。
烏は燃える筒の上へ、白い紙を落とした。
紙が燃え、その中に包まれていた、黒く長い髪へ火が移る。
次の瞬間――。
ドンッ、と大きな音が響き、地面が揺れた。
集まっていた烏が、一斉に飛び上がる。
十羽や二十羽ではない。
数百羽もの烏が、夕暮れの空を一瞬で黒く染め上げた。
「な、何だ……何が起きてる!?」
男たちは、異様な光景に目を奪われていた。
その間に、いつの間にか、一人の男が立っていた。
彼らが最も恐れているはずの者が、すぐそばに現れたことにも気づかずに。
「月読さん!」
私は、思わず叫んだ。
「助けに来てくれたんですか?」
「神田さん? 佑?」
月読さんは、困惑した様子で辺りを見回した。
「私は魂呼びを受け、ここへ……それより、いったい何があったのですか? 二人とも――」
私たちの姿を見た瞬間、月読さんの表情が変わった。
「佑、怪我をしているではないですか。神田さんも、髪が……」
「話している暇はありません! 佑を、早く安全なところへ!」
私たちの声を聞き、空を見上げていた男が振り返った。
月読さんの姿を認めた途端、男は、ひっと息を呑んだ。
月読さんは何も言わず、男をじっと見つめた。
その顔から、ゆっくりと表情が消えていく。
「あなたが、神田さんと佑を、このような目に遭わせたのですか?」
声は、いつもの月読さんと同じだった。
静かで、穏やかで、よく通る声。
だからこそ、恐ろしかった。
「私は、あなたの話を、黄泉で聞かなければなりませんか?」
「ち、違う。悪いのは俺じゃない。元はといえば、そいつらのせいで……」
男の声が上ずる。
「違う。仕事がないせいだ。金がないせいで、給料が安くて……親が、会社が、国が悪いんだ。俺は……」
「あなたが、どのような境遇に生まれたのか。何を奪われ、誰に傷つけられたのか。それは、あなたが選んだことではないのでしょう」
月読さんが、男へ向かって一歩踏み出した。
「ですが、神田さんと佑を攫い、傷つけ、命を脅かしたのは、あなた自身が選んだことです」
また一歩、近づく。
「あなたは、自らが選んだことの責任を取らなければならない」
声の調子は変わらない。
それなのに、一つ一つの言葉に、凄まじい怒りが込められている。
全身に鳥肌が立った。
男にも、その怒りが伝わっているのだろう。
月読さんから逃れようと後ずさるが、腰が抜けたのか、地面へ座り込んだまま動けない。
「ま、待ってくれ。すまなかった。もう二度としない。だから……助けて……」
今にも気を失いそうな声で、男は命乞いをした。
だが、月読さんは答えない。
一歩、また一歩と、距離を詰めていく。
やがて男の目の前まで辿り着くと、静かに屈んだ。
男の衣服からナイフを抜き取り、その手へ握らせる。
男は震えながら、ナイフを落とそうとした。
だが月読さんは、男の手ごとナイフを両手で掴み、それを許さなかった。
「二度目など、ありませんよ」
「や、やめろ……」
「大丈夫です。あなたは、自らが他者へ与えようとしたものを、受け取るだけです」
月読さんは男の手を引き寄せ、その切っ先を、自らの首筋へ向けた。
「何の矛盾もありません」
切っ先が、月読さんの首へ触れる。
月読さんの肌には、何の傷もつかない。
代わりに、男の首筋から、赤い血が一筋流れた。
「月読さん!」
私は叫んだ。
「駄目! 佑の前で、そんなことしないで!」
月読さんの動きが、一瞬止まった。
だが、男の手を離そうとはしない。
「駄目だから! それは、神様のすることじゃない!」
私は後ろ手に縛られたまま、必死で身体を起こした。
「特に、月読さんは駄目! そんなの、あなたらしくない!」
月読さんが、僅かにこちらを見た。
「月読さんは優しくて、いつも魂の話を聞いて、全部受け止めてくれる神様でしょう! 怒りに任せて命を奪うなんて、全然、あなたらしくない!」
「しかし、この者は……」
「私も佑も無事です! 生きてます! だから、そんなことしちゃ駄目!」
その時、男は恐怖に耐えきれなくなったのか、口から泡を吹き、気を失った。
「おい、月読! 正気に戻れ!」
聞き慣れた怒鳴り声がした。
いつの間に駆けつけたのか、素戔嗚さんが、息を切らしながら立っていた。
神様なのに、走ってきたらしい。
「佑の母ちゃんが泣いてるぞ! 佑だって、頬から血を流してる! 先に二人を介抱してやれ!」
素戔嗚さんは、月読さんへ手を差し出した。
「そいつの手を離せ。な? 白目を剥いて気ぃ失ってる奴は、俺に任せろ」
素戔嗚さんに言われるまで、自分が泣いていることに気づかなかった。
それほど必死だった。
月読さんを、人殺しの神にしたくなかった。
ただ、それだけだった。
月読さんは、ようやく男の手を離した。
そして、私と佑を振り返った。
その顔は、今にも泣き出しそうだった。
「月読さん」
私は涙を拭うこともできないまま、笑った。
「うちに帰りましょう」
月読さんは、しばらく私を見つめた。
やがて、幼子のように小さく頷いた。
「……はい」




