第二十九章
神議りが終わると、集まっていた神々は散り散りになり、それぞれの住処へ帰っていった。
広間に残ったのは、素戔嗚と大国主、久延毘古、そして私だけだった。
『聞き捨てなりませんなぁ』
久延毘古が、大きな一つ目でぎろりと私を睨んだ。
『月読様。あなたは先ほど、何とおっしゃいました?』
「天照に直接、真意を確かめると言った」
私は、久延毘古の目を見返した。
「真偽も定かでない話に踊らされ、現世の神々が右往左往している。ならば、私が天照へ直接話を聞く。それだけのことだ」
『なりませんなぁ。なりませぬ』
久延毘古は、ゆっくりと首を横へ振った。
『天照様は、現世の神とも、黄泉の神とも、お会いにはなりませぬよ』
「なぜ、そのようなことが分かる?」
『わたくしが、久延毘古だからですよ』
久延毘古は飄々と答え、徳利の酒を口へ流し込んだ。
『わたくしは全知。すなわち、この世のあらゆることは、わたくしの頭の中にある。ゆえに分かるのです。天照様が、あなた様とお会いになることはございませぬ』
「それだけでは納得できぬ。同じ神より生まれ出でた、いわば姉弟だ。天照が、私に会わぬ理由がどこにある」
『クックックッ……素戔嗚様も、同じ境遇ではございませんか。それでも、追い返されましたなぁ?』
久延毘古に話を振られ、素戔嗚は苦々しい顔で頷いた。
「ああ。そうだ」
やはり、何かがおかしい。
『そういうことです、月読様。どうか、お諦めくだされ。天照様との謁見は叶いませぬぞ』
「謁見とは、随分な言いようだな」
私は立ち上がり、久延毘古を見下ろした。
「天照は王で、そのほかの神々は、すべて臣下だとでも言うつもりか。私は天照と同じところから生まれ、確かに繋がりを持つ神だ。私に会わぬはずがない」
『あなた様も、分からぬ御方ですねぇ』
久延毘古は、呆れたように溜め息を吐いた。
『もう、黄泉へお帰りになられてはいかがですか。現世は変わりませぬよ。進むべき道は、すでに決まっているのです』
「決まっているだと?」
『今さら、あなた様が現世を見て回ったところで、人も世も変わりませぬ。現世見物は、もう十分でしょう』
腹の底で、何かが煮えたぎった。
『月読様、久延毘古様。どうか、落ち着いてください』
大国主が、私たちの間へ割って入った。
『今回のことは、わたくしが国を譲った頃から、すでに薄々決まっていたことのように思われます。どうか御二方とも、矛をお納めください』
「大国主、私はただ――」
その瞬間だった。
全身の血が、突如として煮え立ったかのように熱くなった。
誰かが、私を呼んでいる。
声ではない。
肉体を持たぬ魂が、私を求めて叫んでいる。
魂呼びだ。
次の瞬間、私は文字どおり、その魂のもとへ飛ばされていた。
*
言葉の途中で忽然と姿を消した月読を見て、素戔嗚が呟いた。
「今のは……魂呼びか?」
『おお。魂呼びですなぁ』
久延毘古は、月読が消えた場所を眺めながら、愉快そうに酒を呷った。
『月読様は、どこの誰に呼ばれたのでしょうなぁ。まあ、素戔嗚様。あの御方は、なるべく早く黄泉へお帰しになることを、お勧めいたしますよ』
「何だと?」
『勝手なことをして、世を乱されてはたまりませぬからな』
素戔嗚は、僅かに眉を寄せた。
その時、木の扉の向こうから、何羽もの烏が騒がしく鳴く声が聞こえてきた。
「……すまねぇ、久延毘古殿。あの魂呼びの相手、俺の知ってる奴かもしれねぇ」
『ほう?』
「俺も行く」
素戔嗚は立ち上がると、木の扉を開け、外へ飛び出していった。
『ああ、まったく。素戔嗚様も、つくづく人がお好きですなぁ』
久延毘古は閉じた扉を眺め、ゆるりと一つ目を細めた。
『まあ、仕方のないことかもしれませぬ。何せ、奥方は人でございましたからなぁ。お気持ちが変わらなければよいのですが……』
『父に限って、心変わりなど』
大国主は、静かに言い切った。
『この国は、一度すべてを改めるべきです。大義を成すためには、多少の犠牲もやむを得ません。人にはこの際、文字どおり人柱となっていただきましょう』
『クックックッ。大国主様は、本当に人がお嫌いですなぁ』
『わたくしは、人そのものが嫌いなのではありません』
大国主の声には、明らかな苛立ちが滲んでいた。
『今そこにある命へ感謝せぬ人間が、嫌いなのです。ほかの命をいただくことで、自らが生かされている。その当たり前のことさえ、今の人々は忘れてしまった』
大国主は、誰もいなくなった広間を見渡した。
『この国は、自分たちが食べるものすら、自らの土地だけでは満足に賄えない。それでも、山のように食べ物を集め、金を持たぬ者が飢えていく一方で、食べきれぬものを山のように捨てている』
その手が、膝の上で強く握られる。
『命を粗末にしながら、自分たちの命だけは守られて当然だと思っている。わけが分からぬ。わたくしは、もう、ほとほと嫌気が差したのです』
『まこと、人間とは、わけの分からぬ生き物ですなぁ』
久延毘古は、喉の奥で笑った。
『素戔嗚様も、あなた様と同じお考えであることを祈りましょう』
大国主が、ゆっくりと久延毘古を見る。
『あの御方も、それをお望みなのですから』
素戔嗚が去った広い部屋に、久延毘古の笑い声だけが、いつまでも響いていた。




