第二十八章
素戔嗚の一言で、何について話し合うのかは分かった。
だが、なぜ移住なのだ?
私は呆気に取られ、動かなくなった思考を必死に働かせていた。
「急遽ここへ集まってもらったのには、わけがある」
素戔嗚が、広間に集う神々を見渡した。
「時が差し迫っている。猶予はない。できる限り早く、各々で結論を出してほしい」
すると、長い髭を蓄えた老いた神が、ぎょろりと私を見た。
『そこに座す者は、現世の神ではございますまい。ほかの者たちも気にしておる。まずは、その者の正体を明かすべきではなかろうか』
「ああ、急ぎ呼び集めたせいで、順序を違えた。すまぬな、大山津見神」
素戔嗚は、私を指した。
「これは、黄泉の国を治める月読だ。今、黄泉には魂が溢れ、その魂が現世へ流れてこなくなっている。なぜ、そのようなことになったのかを調べるため、黄泉から出てきたそうだ」
「『これ』とは何だ」
「今は黙ってろ」
私の名が告げられると、広間がにわかに騒めいた。
神々の反応を見る限り、この神議りは、黄泉の異変と無関係ではないらしい。
次第に大きくなる騒めきを切り裂くように、澄んだ声が素戔嗚のもとへ届いた。
『素戔嗚様。先だってお伝えいただいた件について、わたくしの答えを申し上げます』
声の主は、石長比売だった。
『わたくしは、岩に宿る神です。もう幾年もの時を、あの地で過ごしてまいりました。父である大山津見神には、思うところもございましょう。ですが、わたくしは、あの地を離れませぬ』
その言葉に、大山津見神がすぐさま異を唱えた。
『しかし、石長比売よ。わしは、もう人を見放すと決めた。今の世に、守るべき人などおらぬ。天照大神が修理固成をお決めになった以上、我らはそれに従うほかあるまい』
『ええ、父上。だからこそ、わたくしは動かぬと申しているのです』
石長比売は、僅かに顔を伏せた。
『天照様が一度この国を壊すとお決めになったのなら、我らも、その御心に従うべきでしょう。土地に根づいた神々を残し、自分たちだけが逃げてよいとは、わたくしには思えませぬ』
石長比売と大山津見神の間で背を丸めていた、老婆の姿をした神が、おずおずと声を上げた。
『石長比売様は、我らのことを憂いてくださっておるのかのう。お優しい御方ゆえ、我ら土地に根づいた神々と、運命を共にしようとお考えなのですか』
運命を共にする。
それは、いったいどういう意味だ。
私は黄泉に住まう神であり、これは現世の神々の話し合いだ。軽々しく口を挟むべきではない。
そう分かっているのに、堪えることができなかった。
「素戔嗚!」
私の声に、広間が静まり返る。
「皆はいったい何を言っているのだ。移住とは何だ。運命を共にするとは、どういう意味だ。現世で何が起ころうとしている。説明しろ!」
胸の騒めきが収まらない。
何も分からぬまま、これから起こる何かに対する不安だけが、大波のように押し寄せてくる。
素戔嗚は、いつになく真剣な眼差しを私へ向けた。
「……もうすぐ、天照が、一部の土地を除いて、この国を水に沈める」
「何だと?」
「そういう計画を立てていると、龍が教えてくれた。だから国が沈む前に、八百万の神々を、沈まぬ土地へ移そうと俺が考えた」
「待て、待て。なぜ天照が、この国を沈めねばならぬのだ。龍から聞いたというのなら、お前は天照のもとへ行き、その真意を確かめたのか?」
『それについては、わたくしがお答えしましょう』
前へ出てきたのは、大国主だった。
『天照様は、邇邇芸命がこの地へ降り、御心に沿う国を造り上げていれば、沈めようなどとはお考えにならなかったでしょう』
「では、そうならなかったから沈めるというのか?」
『ええ。天照様のお考えに沿う国にならなかったため、一度すべてを壊し、初めから造り直す。そうお決めになられたと聞いております。そのため、天照様は龍に暴れるよう、お命じになったのです』
大国主は一度、素戔嗚へ目を向けた。
『父、素戔嗚は、龍を従えることのできる神。ゆえに、天照様の企てが父の耳にも届いたのでございます』
「だが、なぜ、そこまで……」
『人々は争い、土地を傷つけました。争いが終われば、今度は科学へ傾倒した。生活が便利になるほど、神々への畏れも、自然と共に生きる心も失われていった』
大国主は、集まった神々を静かに見渡した。
『今や、自らを知能ある者と信じながら、与えられた欲に従うだけの人形となった者も多い。そのような人々を、なお守りたいと望むのは、彼らと縁の深い氏神くらいのもの。ここに集う神々の多くは、すでに人を見放しております』
広間のあちらこちらから、同意を示す声が上がった。
『中には石長比売様のように、自ら動くことのできぬ土地の神々と、運命を共にしようとする御方もおられますが』
大国主の話には、どうしても拭えぬ違和感があった。
天照が、そのようなことを考えるだろうか。
私の知る天照とは、あまりにもかけ離れている。
「この中に、天照から直接、その真意を聞いた者はいないのか?」
神々の声が止んだ。
「私は、天照がそのようなことを考えるとは、どうしても思えない。誰か一柱でもよい。直接、天照と言葉を交わした者はいないのか?」
誰も答えなかった。
大国主も、大山津見神も、石長比売も。
素戔嗚さえも、目を伏せている。
もしや、私は謀られているのではないか。
そんな疑念が脳裏をよぎった時だった。
『クックックッ……』
広間の隅から、低い笑い声が聞こえた。
神々が一斉に振り返る。
そこには、久延毘古が座っていた。
あれは、久延毘古その四なのだろうか。
「何がおかしい、久延毘古。お前は、天照から直接話を聞いたのか?」
『月読命。わたくしは、以前、あなたに申し上げましたね』
久延毘古は、大きな一つ目で私を見据えた。
『在るべきところで、成すべきことをなさい、と』
「それが何だ」
『ここは、あなたの在るべき場所ではないでしょう。ゆえに、口を挟むべきでもない』
「私は黄泉で、魂たちの氣を満たしていればよい。そう言っているのか?」
『そのとおり』
「今、黄泉は、生まれ変わりを望まぬ魂で埋め尽くされている!」
自分でも驚くほど、大きな声が出た。
「魂が生まれ変わりを拒む理由は、この現世にある。私は、それを知るために来たのだ!」
『知って、どうなさる』
「生まれ変わりたいと思える現世へ、変えていかなければならない」
『誰が?』
「誰が、とは……」
『誰が、この現世を変えるというのです』
答えようとして、言葉を失った。
誰が現世を変えるのか。
少なくとも、それは、黄泉を治める私ではない。
私には、私の在るべき場所がある。
久延毘古は、私が何も言えないのを見て笑った。
『それが、答えでしょう』
どこに隠し持っていたのか、久延毘古は徳利を取り出し、そのまま酒を口へ流し込んだ。
『この国は、一度沈みます。そして真っさらになったなら、また初めから、国生みから始めればよい』
「国生みから……」
『一時、黄泉は行き場を失った魂で埋め尽くされるでしょう。あなたはそれを、ただ受け入れるのです。それこそが、あなたの成すべきことなのですから』
私はただ、呆然と久延毘古を見つめていた。
「もう、決まったことなんだ」
素戔嗚が、静かに口を開いた。
「俺たちの在るべき場所は、とっくの昔に人が奪っていった。山や川、神々が住める場所は、まだ幾らか残っている。だが、そこから数歩出れば、もう、昼も夜もなく人が荒らした土地だ。そんな場所に、神は住めねぇ」
誰かに語るというより、自分自身へ言い聞かせているようだった。
「俺たちは、天照にも、人にも見放された。なら、我が身可愛さに沈まぬ土地へ逃げて、何が悪い」
素戔嗚の声には、怒りよりも深い悲しみが滲んでいた。
「最初に俺たちを裏切ったのは、人間だ」
『父は、皆の考えを尊重するつもりです』
大国主が、再び神々へ呼びかけた。
『石長比売様が留まるとお決めになったのなら、それでよし。大山津見神が移住を選ぶのなら、それもまたよし。ですが、もう猶予はございません。皆、それぞれの御心に従い、自由にお決めください』
すでに何柱かの神が、移住を望むと名乗り出ていた。
『移住を選んだ神には、我らが手を貸します。望む者は、今ここで名乗り出てください』
素戔嗚は、次々と上がる手を、悲しげに見つめている。
「素戔嗚」
私が呼びかけると、素戔嗚は目だけをこちらへ向けた。
「お前は、本当に納得しているのか?」
「……何が言いたい」
「これでよいと思っているのか。今を必死に生きている人間は、どうなる。手を差し伸べることも、守る術を探すこともせず、見捨てるのか」
「月読……」
「神田さんや佑も、沈めるというのか」
「うるせぇよ!」
素戔嗚が立ち上がり、怒鳴った。
「俺だって考えてる! 俺にだって、どうすればいいか分からねぇんだよ!」
その声に呼応するように、広間の空気が震えた。
「だが、確かに水神が、土神が、火の神が、穢されて怒り狂っている! 神の水も、神の土も、神の火も、俺たちを殺すことができるんだ!」
素戔嗚は、両の拳を固く握り締めた。
「もう、俺たちは、逃げるしかねぇんだよ……」
神が、逃げる。
我が身可愛さに、土地も、動物も、人間も置き去りにして逃げる。
なぜだ。
なぜ私は、これほどまでに腹を立てている。
私は黄泉の神だ。
現世がどうなろうと、ただ黄泉へ流れ込む魂を受け入れればよい。
それが、私の成すべきことだと、久延毘古は言った。
それなのに。
「天照に会いに行く」
言葉が、無意識に口から零れた。
自分で発したはずなのに、私は自分の耳を疑った。
広間にいた神々が、一斉に私を見る。
だが同時に、胸の奥で騒めいていた何かが、すとんと収まった。
そうだ。
私は、そうすべきなのだ。
「私が天照に会い、その真意を確かめる」




