第二十七章
私は助手席へ乗り込むと、後ろを振り返り、素戔嗚へ小声で告げた。
「あの銀杏の神が、いなくなっていたぞ」
「知ってる」
素戔嗚はそう答えたきり、何も話そうとしなかった。
木から神がいなくなれば、あの大木は内側から枯れ、やがて僅かな風にも耐えられず、倒れてしまうかもしれない。
この世界に存在する木や川、岩などには、長い時を経ることで精霊が宿り、その周囲を浄化するものがある。人は太古の昔から、それらを神として祀り、神々もまた、人を守ってきた。
その神が、たとえ一柱とはいえ、忽然と消えてしまうなど、私には考えられなかった。
久延毘古の仕業なのだろうか。
店へ入る前、久延毘古その参は、銀杏へ何と言っていた?
確か――今、お連れします、と。
「素戔嗚。久延毘古が、あの銀杏を連れていったのだ。私たちが店へ入る前、どこかへ連れていくと話していた。だが、いったいどこへ……」
「月読さぁ、そんなことを知って、どうすんの?」
素戔嗚は、面倒そうに窓の外へ顔を向けた。
「あれが行くと決めたんだ。久延毘古は、その手助けをしただけだよ。あんまり口を出すもんじゃねぇ」
そう言われ、私は口を噤むしかなかった。
気まずい沈黙が流れる。
それを察したのか、佑が小さな包みを差し出してきた。
「月読さん、飴でも舐める?」
「ああ。ありがとう」
佑からもらった飴を一粒、口へ入れる。
甘味が舌の上に広がる中、私は考えた。
私の知らぬところで、何かが起きている。
それは私に――黄泉に関わることではないのか。
久延毘古その参は、私には関係ないと言った。だが、その言葉を素直に受け入れようとすると、なぜか胸の内が騒ぐのだ。
「だが、素戔嗚。お前は、あの中村という女性に約束していたではないか。銀杏へ礼を伝えると」
「……だから?」
「銀杏の神がいなくなった今、どうやって伝えるのだ。お前は約束を反故にするつもりか? それとも、銀杏の神がどこへ行ったのか知っているのか?」
「へぇ……」
素戔嗚は僅かに目を見開き、私を見た。
「やっぱり月読も、少なからず現世の影響を受けてんだな。お前が、そこまで食い下がるなんて珍しい。いつもなら、何でも黙って受け入れるくせに」
「約束を守れるのかと聞いている」
「心配すんな。銀杏には、いつか伝わる」
「いつか?」
「ああ。それが、縁ってもんだろ」
「約束は、守られるのだな?」
「ああ。守るよ」
それ以上尋ねても、素戔嗚は答えないだろう。
再び車内に静寂が戻った。
しばらくして、運転していた神田が口を開いた。
「あの、月読さんと素戔嗚さんって、兄弟なんですよね?」
「ああ、そうだ」
「それなのに、どうして、そんなに性格というか、物腰というか……何もかも違うんですか?」
「当たり前だろ。別々の御霊なんだから。兄弟だろうが何だろうが、性格なんぞ違うに決まってる」
素戔嗚が吐き捨てるように答える。
神田は僅かに眉を寄せた。
「今みたいなところです。こっちが何か言ったら、素戔嗚さんは、言葉をバッと投げ返してくるでしょう? 月読さんは逆に、話を必要以上に難しくするというか……言い方は悪いですけど、回りくどいんです」
「えっ。私は、回りくどいのですか?」
「はい。かなり」
「そんな……私は、神田さんにも分かるよう、丁寧に説明しているつもりなのだが……」
知らなかった。
私は物事を伝える際、随分と持って回った言い方をしていたらしい。
少なからず衝撃を受ける私を見て、素戔嗚が口を開いた。
「神田は、陰陽って知ってるか?」
「ええ、まあ。言葉くらいなら。それが、二人の性格に関係あるんですか?」
「ある。天照は陽、月読は陰。そして俺は、その両方を持っている」
「陽とか陰って、人間でいう性格の表裏みたいなものですか?」
「近いところもあるが、陰が裏とか、悪い方って意味じゃねぇぞ」
素戔嗚は指を一本立てた。
「陽は、日、動、外、昼、南。人間の感覚なら、明るくて活発な印象だな。反対に陰は、月、静、内、夜、北。暗い印象を持たれがちだが、どっちが善で、どっちが悪って話じゃねぇ。どちらも、この世に必要な氣だ」
「だから月読さんは物静かで、あまり怒らないんですね。声を荒らげたり、すぐ行動に出たりもしない」
神田は、納得した様子で頷いた。
だが、素戔嗚はすぐに否定した。
「そうとも限らねぇよ。『陰極まれば陽に転ずる』って言葉、聞いたことあるだろ?」
「ああ、それなら」
「月読は現世へ来て、人間の感情に触れてる。本人も気づいてねぇだろうが、何かしら影響を受けてんだよ。だから、さっきみたいに俺へ食い下がることもある」
素戔嗚は、探るように私を見た。
私が銀杏の件を未だに納得していないことなど、とうに見抜いているらしい。
「でも、素戔嗚さんが乱暴な口を利くのは、陰陽の両方を持っているからなんですか?」
「何だろうな。神田の言い方には、そこはかとない悪意を感じるぞ。佑、お前の母ちゃんが、俺に酷いことを言う」
「僕に振らないでよ。でも残念ながら、口が悪いのは本当だと思う」
助けを求めた素戔嗚は、佑にまであっさり切り捨てられ、口を尖らせた。
「ちっ……分かったよ。そんな顔で見るな、月読。しょうがねぇなぁ」
素戔嗚は頭を掻き、運転席へ向かって身を乗り出した。
「神田。悪いが、俺たちを大河町の氷川神社まで連れていってくれ。夜までには帰る」
「えっ、今から氷川神社? 別にいいですけど……」
神田は戸惑いながらも、車を氷川神社へ向けて走らせた。
やがて神社へ到着すると、私と素戔嗚だけが車を降りた。神田と佑は、そのまま家へ帰っていった。
「それで?」
車が見えなくなるなり、素戔嗚が尋ねてきた。
「何が聞きたい?」
「全部だ」
私が答えると、素戔嗚は心底面倒そうな顔をした。
「だろうと思ったよ。ついてこい」
素戔嗚は御神体である岩山の裏へ回り、私を手招きした。
言われるまま近づくと、岩肌には、見覚えのない古びた木の扉がついていた。
「このようなものが、先ほどまであったか?」
「人間には見えねぇよ。いいから入れ」
素戔嗚が扉を開く。
ぎい、と古びた音を立てて開いた扉の向こうには、三十畳はあろうかという、広い畳敷きの部屋が広がっていた。
「ここは……?」
「俺んち」
「ここが?」
「そう。もうすぐ来るから、そこら辺に座っとけ」
「来るとは、誰が?」
「大国主。あと、何柱か来るんじゃねぇかな」
素戔嗚は部屋の中央まで進むと、どかりと腰を下ろした。
私も戸惑いながら、その向かいへ座り、率直に尋ねた。
「ここで、何をするのだ?」
素戔嗚は、待っていましたとばかりに胸を張った。
「題して――緊急神議り!」
「緊急……何ですって?」
「緊急、か・む・は・か・り。耳が悪いのか、お前」
「神議り……出雲で行われる、あの?」
「そう。毎年恒例の話し合いだ。今回は急ぎだから、時期も場所も違うけどな。壱を使いに出した。もうじき、八百万の神がここへ集まる」
「八百万の神々が……」
「議題も、いつもとは違う。何せ、緊急だからな」
「その議題とは、何だ?」
私が尋ねた時、木の扉の向こうから声が聞こえた。
『ごめんくださいまし』
「おお、石長比売か。入れ、入れ」
『失礼いたします』
扉が音もなく開き、一柱の女神が姿を現した。
その背後にも、いくつもの神影が連なっている。
石長比売が入ってきたのを皮切りに、神々が次々と部屋へ入ってきた。
山の神。
川の神。
木々の神。
土地を守る神――。
気がつけば、三十畳はあろうかという広間が、八百万の神々で埋め尽くされていた。
騒めきが広がる中、素戔嗚が立ち上がった。
「静まれ!」
その一言で、広間が静まり返る。
素戔嗚は集まった神々を見渡すと、声高らかに宣言した。
「これより――八百万の神移住計画会議を始める!」
八百万の神、移住計画会議。
私はまず、自分の耳を疑った。




