第二十五章
第二十五章
「せくはら? それは何だ?」
私も少しでも現世について学ぼうと、初めて耳にした言葉の意味を尋ねた。
「男が女に、その……身体のこととか、そういう話をして、相手を不快にさせること……だったか? あ、今は女が男に言っても駄目なんだよな。なあ、佑」
素戔嗚が、しどろもどろになりながら説明する。
だが、疑問形ばかりで、さっぱり要領を得ない。
「簡単に言えば、相手が嫌がる性的な言動をすることだよ。男から女に限った話じゃないし、言った人に悪気がなくても、相手が傷ついたり、その場にいづらくなったりすることもある。だから、気をつけようって話」
佑の説明を聞き、素戔嗚は納得したような、していないような顔で首を傾げた。
「でもよぉ、相手が何を嫌がるかなんて、話してみなきゃ分からねぇだろ。あれも駄目、これも駄目って先に決められたら、何も話せなくならねぇか?」
「何も話すなってことじゃないよ。嫌だと言われたらやめる。分からなければ聞く。それだけじゃない?」
「何だ。そんなことか」
「そんなことができない人がいるから、名前がついてるんだよ」
「人間って、面倒くせぇな」
「でも、必要なんだと思う。昔は冗談で済まされていた言葉でも、本当はずっと嫌だったのに、言い出せなかった人がいるから」
それまで黙って話を聞いていた神田が、少し驚いたように佑を見た。
「佑、随分と難しいことを知ってるのね」
「――って、保育園の先生が言ってたような気がするぅ。僕、よく分からなかったけどぉ」
佑は慌てて語尾を伸ばし、急に五歳児らしい話し方を作った。
遅い。
あまりにも遅すぎるぞ、佑。
「なあ、佑。お前、それやめた方がいいぜ」
「な、何が?」
「もう、ばれてるって」
素戔嗚の一言で、場がしんと静まり返った。
「それじゃあ、プリンを買いに行くぞー!」
「違う! 本命は、月読さんたちの服だから!」
微妙な空気の中、素戔嗚の掛け声へ神田が訂正を加え、私たちは店へ向かうこととなった。
神田の運転する車へ乗せてもらうのは、これで二度目だ。
初めて車を見た時には、まさか、この箱の中へ人間が入るなどとは夢にも思わなかった。
だが、今はどうだ。
私はその箱の中へ入り、神田親子と素戔嗚と共に、買い物をするため店へ向かっている。
私は少しずつ、現世の人間たちの営みを知り始めているのだ。
これは、大変喜ばしいことではないか。
「おい、月読。何をにやけてんだ? 気持ち悪いぞ」
「本当に素戔嗚は口が悪い。私に対して、言うに事欠いて『気持ち悪い』とは」
「月読さんは、自分の容姿に自信があるんだね。『言うに事欠いて』なんてさ。まあ、確かにイケメンだけどね」
「佑。私は容姿について言ったわけではないが、『気持ち悪い』とは、現世では不敬な言葉ではないのか?」
「『気持ち悪い』って言葉は、確かに他人へ向けて言うと失礼だけどね。残念ながら、人にも物にも、よく使うよ」
「ほう。不敬であるにもかかわらず、よく使うのか。皆、心が広いのだな。私は言われると、すぐに腹を立てて口へ出してしまうが……」
佑は俯き、ぽそりと呟いた。
「イケメンは、さらっと受け入れるんだ……」
すると、素戔嗚が佑へ耳打ちした。
「佑。月読は、イケメンの意味が分かってねぇから。おおかた、ラーメンやそうめんの親戚だと思ってんぜ」
佑と素戔嗚が、私を挟んで肩を震わせながら笑っている。
仲よきことは、よいことである。
私は二人を見て、微笑んだ。
しばらく車を走らせると、巨大な建物が見えてきた。
「ショッピングモール、久しぶりだね。楽しみ」
佑がそう言うのを聞き、ここが「しょっぴんぐもーる」という店なのだと分かった。
「ほお。ここが、しょっぴんぐもーるか。随分と大きいなぁ」
素戔嗚が、窓越しに建物を眺めながら言った。
私も同じことを考えていた。
この中には、いったい何人ほどの人間がいるのだろう。
見当もつかない。
とにかく、巨大な建物だった。
広い屋外の駐車場へ車を停め、私たちは建物へ向かって歩き始めた。
駐車場から建物へ向かう途中に、一本の銀杏の大木が立っていた。
素戔嗚は、その前で一度足を止めた。
幹へ手を這わせ、俯き加減に何かを呟く。
その瞬間、冷たい風が、私の頬を撫でた。
「素戔嗚、どうした?」
私が声をかけると、素戔嗚は銀杏の幹から手を離した。
「何でもねぇ」
そう言うなり、先を歩いていた佑のもとへ駆け寄り、その身体へ体当たりをした。
突然どつかれた佑が怒り、二人は互いに笑いながら言い合いを始める。
そんな二人を見ていた私の身体を、薄く暗い靄が通り抜けていった。
「今のは……?」
『久しぶりかのぉ、月読』
声は、頭上から聞こえた。
見上げると、木の枝の上に、片足で立つ久延毘古の姿があった。
「え? 久延毘古?」
『ふぉほほほ。久しぶりと言うても、わしとお前は初対面じゃがのぉ』
確かに、黄泉にいる久延毘古や、現世の入り口で出会った久延毘古と姿形は同じだ。
だが、何となく雰囲気が違う。
『わしは、その参じゃ。月読、お前のことは知っておる。黄泉の異変の原因を探しに、現世へ来ているのだろう? ふ、ふふ。どうじゃ? 原因は分かりそうかね?』
「私は現世へ来て、まだ間もありません。現世の理にも馴染みがなく、まだまだ学ばなければならぬことがあります。もう少し、時間をください」
『ふふふ。好きにするがよいさ。わしは、お前のために現れたのではないからの。たまたまじゃ。わしは、この銀杏に用があって来ただけだからの』
久延毘古その参は、銀杏へ顔を向けた。
『ふふふ。よう頑張ったのぉ。今、お連れしますゆえ、もうしばらくお待ちくだされ』
そう言って、銀杏の幹を一度、優しく撫でた。
すると、銀杏の大木から安堵したような氣が漂った。
何が起きているのか分からず、私は久延毘古へ尋ねた。
「久延毘古。誰を、どこへ連れていくというのだ?」
『月読。お前は、お前が成すべきことだけを考えておればよい』
久延毘古は、枝の上から私を見下ろした。
『皆、在るべきところに、在るべき姿で、在るべきなのだ』
そう言い残し、久延毘古は私の視界から姿を消した。
私はしばらく、その場に立ったまま、銀杏の大木を眺めていた。
やがて先を歩く神田たちのもとへ追いつき、素戔嗚へ今の出来事を話した。
素戔嗚は銀杏を一度だけ振り返ると、
「そうか」
と呟いた。




