第二十四章
千樹警察署へ着くと、素戔嗚は藤田を呼び出した。
しばらくして、藤田が気怠そうに階段を下りてきた。
だが、玄関に立つ素戔嗚を見るなり、足を止めて固まった。
素戔嗚が面倒そうに手招きをする。
藤田は慌てて、小走りでこちらへやってきた。
素戔嗚に代わり、私が藤田へ事の次第を説明した。
冴島が父親を刃物で傷つけ、死なせてしまったこと。
その刃物を今も持っていること。
そして、自ら警察へ出頭するため、ここまで来たこと。
説明を終えると、警察署の中は一気に慌ただしくなった。
何人もの警察官が行き交う中、冴島は藤田に連れていかれる直前、私たちを振り返った。
そして、深々と頭を下げた。
「藤田……驚いていたな」
警察署からの帰り道、私は、素戔嗚を見た瞬間に固まった藤田の顔を思い出して呟いた。
「気が小せぇんだよ、あいつは。人の顔を見て、びくびくしやがって」
「仕方がない。人ならざる者だからな、私たちは」
「それよりよ」
素戔嗚は、歩きながら首を傾げた。
「冴島の奴、何で急に穢れを祓えたんだ? あれほど、魂の奥まで侵食されていたのに」
「素戔嗚が祓ったのですよ」
「俺が?」
「彼が最も欲していたものを、君が与えたのです」
「何をだよ」
「謝罪です」
素戔嗚は、僅かに目を見開いた。
「彼の魂は、あの石のような殻の中から、必死に外へ出ようとしていた。だが、どれほど足掻いても、自力では出られなかった」
「それで?」
「そこへ君が、外側から殻へ亀裂を入れる言葉を与えた。自分の間違いを認め、彼へ謝った。だから彼の魂は、ようやく外へ出ることができたのです」
「そうか……。そうだったのか」
素戔嗚は、しばらく黙って歩いた。
「でも、もう少し早く、あいつを止められていたらな……」
「それを言っても、仕方のないことです」
「分かってるよ」
「それにしても、彼の母親について、よくあれほど詳しく分かりましたね。あの烏ですか?」
「ああ。あれが壱だ」
素戔嗚は、少し誇らしげに笑った。
「今の壱の中では、一番の働き者だ。図書館を出てすぐ、情報を集めるよう指示しておいた。壱は、一を言えば、その何倍もの仕事をしてくれる」
「なるほど。頼もしい使いですね」
「そうだろ?」
得意げにしていた素戔嗚の顔が、不意に曇った。
「ところで、冴島の奴。妙なことを言っていたな」
「イザナミのことですか?」
「ああ……」
鹿島京子が以前住んでいたアパートから、千樹警察署へ向かう途中。
冴島は唐突に、私たちの名について尋ねてきた。
「ねえ。あんた、ツクヨミっていうの?」
冴島が私を指さした。
「それで、この子がスサノオ? 本当に?」
「そうだが」
「すごい名前だね。普通、自分の子どもにはつけないよね。というか、神様の名前って、人間へつけてもいいものなの?」
「そんなことは知らん」
素戔嗚が、ぶっきらぼうに答えた。
私も、生まれた時から月読という名だった。
なぜ冴島が、そのようなことを気にするのか、よく分からなかった。
「そういえば、母さんがラーメン屋の仕事を始める前、イザナミという人に会ったと言っていた」
「イザナミ?」
「世の中には、神様の名前をつける人が結構いるんだね。祟られそうで怖いから、僕なら絶対にしないけど」
「聞き間違いだろう」
素戔嗚が、即座に否定した。
「イザナミは黄泉の国にいる。なぜ、お前の母親と会えるんだ?」
「聞き間違いじゃない。絶対にイザナミと言った」
冴島は、少しむきになって素戔嗚へ食ってかかった。
「もう忘れたの? 僕は頭もよいけど、記憶力はその何十倍も優れているんだ。忘れられない脳を持っている。母さんの言葉だって、今も全部覚えている」
「なら、何と言っていた?」
「イザナミに、こう言われたんだって」
『お前の真意が、真に子を守ることにあるのなら、この刃で手を貫こうとも、傷一つつかぬだろう』
「そう言って、イザナミは母さんの手へ刃を突き立てた」
「刃を?」
「でも、不思議なことに、ナイフは母さんの手をすり抜けた。驚くよね。どのような仕掛けだったんだろう」
冴島は、何でもないことのように話し続けた。
「母さんは、その出来事を信じて、父さんと対等になることを決めた。それで、父さんに隠れて働き始めたんだ。まあ、結局は、ばれてしまったけど」
その話を聞き、私と素戔嗚は顔を見合わせた。
「あれは……誓約だよなぁ」
帰り道を歩きながら、素戔嗚が呟いた。
「冴島の母親が、イザナミに会った? いやいや。俄かには信じられねぇ」
誓約とは、神々の間で行われる占いの一つだ。
『自らの真意がこうであるならば、結果は必ずこうなる』
己の本意を宣言し、その言葉が真であることを、現れた結果によって示す。
そこで下された結果は、神々にとって絶対だった。
冴島の語ったイザナミと母親との出来事は、古くから神々が行ってきた誓約に、酷くよく似ている。
素戔嗚が信じられないのは、誓約そのものではない。
黄泉の女王であるイザナミが、黄泉を出て現世へ現れたということだ。
イザナミが私の目を盗み、現世へ来たという話など、聞いたこともない。
むしろイザナミの目を盗み、現世へやってきたのは、この私だ。
では、冴島の母親が会ったというイザナミは、いったい何者なのだろう。
そして、なぜ私たちは、イザナミが現世へ現れた可能性を、これほど認めたくないのか。
それは――。
「黄泉の女王イザナミが黄泉を出れば、世界が一変する」
素戔嗚が、低い声で呟いた。
そう。
イザナミは、最恐の女神だ。
決して、黄泉から出てはならない。
私が黄泉を治めている間も、イザナミは毎夜、骸の兵や久延毘古と酒盛りをしていた。
イザナミが黄泉から出ずる時、世に厄災がもたらされる。
そう言い伝えられているからだ。
もっとも、イザナミは黄泉へ入ってから一度も外へ出ていない――はずである。
だから、その言い伝えが本当かどうかを知る者はいない。
「今も黄泉で、久延毘古と酒盛りをしているはずだが……」
私が呟くと、素戔嗚が何やら言いにくそうに口を開いた。
「なあ。イザナミってさ。その……何だ。すげぇ姿をしているって、本当か?」
「すげぇ姿?」
「見た目だよ、見た目」
「ああ。今は傷一つない、美しい女の姿をしていますよ」
「えっ。『今は』ってことは、本当にそうだったのか?」
「何の話だ?」
「イザナギが黄泉へ迎えに行った時、数多の骸の兵より、イザナミの顔の方が恐ろしかったと聞いている。だから俺は、てっきり……」
「今も朽ち果てた姿をしていると思っていたのか?」
素戔嗚は、素直に頷いた。
「確かに、私が初めて会った時には、身体は朽ち、恐ろしい姿をしていました。おそらく、イザナギが見たものと同じ姿でしょう」
「やはり、そうなのか」
「だが、私が彼女を恐れないと分かると、すぐに姿を変えました」
「姿を変えた?」
「こちらでいうところの、変装のようなものです」
「何で、そんな姿をしていたんだよ」
「イザナミは、自分が命懸けで産んだ子を、イザナギに斬り殺されたことへ、酷く怒っていましたからね」
「イザナギに?」
「生まれ落ちた火の神によってイザナミが命を落としたからと、『お前のせいだ』と、その子を斬り殺したのです。正気の沙汰ではない」
「へぇ。イザナミは、イザナギへ怒っているのか」
「至極当然でしょう。それで、変装を解いたイザナミは、天照によく似た、美しい女でしたよ」
「くくっ。月読が、正気を語るかね」
「お前は、私を何だと思っているのです?」
素戔嗚は、にやりと笑った。
「父親の言うまま、黄泉の国を永い年月、ただ黙々と治め続ける陰気な男」
「随分な言いようですね」
「俺からすれば、お前も十分、正気の沙汰じゃねぇよ」
「ははは。酷いな」
その日の夜。
神田家のテレビでは、冴島克也が「父親を刃物で刺して殺した」と、千樹警察署へ自ら出頭したことが報じられていた。
警察官が冴島の父親の住む部屋を確認したところ、室内で男が死亡しているのが見つかったという。
父親は、神田の家から、それほど遠くない場所に住んでいたらしい。
「こんな近所で、こんな恐ろしい事件が起きるなんて……」
神田は、テレビを見つめながら身震いした。
私はその隣で、冴島の母親が出会ったという女のことを考えていた。
黄泉にいるはずの、イザナミを。




