第二十三章
「鹿島京子は、母親とは違う意味で、僕の興味を引いた」
冴島は、二階の一室を見上げたまま話し続けた。
「彼女が読んでいる本は、養子縁組に関するものばかりだったからね。何か事情があるんだろうと思った」
「それで、目をつけたのか?」
「向こうも、職員から隠れるように本を読んでいる僕を見ていた。正直に言えば、使えるかもしれないと思ったよ」
「僅か五歳の子どもが、そのようなことを考えたというのか?」
「信じられない?」
冴島は、私へ顔を向けた。
「今とは使っていた言葉が違う。でも、当時考えていたことについて、嘘を言っているわけじゃない」
冴島は再び、二階へ視線を戻した。
「案の定、鹿島京子は僕へ声をかけてきた。『僕、一人なの?』ってね」
「一度目から、ついていったのか?」
「いや。三度目だ」
「なぜ三度目に?」
「さあ。頃合いだと思ったんじゃないかな」
冴島は、僅かに顔を歪めた。
「あの日に限って、母親がいつもより早く戻ってくるとは知らずにね。ちっ。本当に、間が悪い」
「では君は、何か企みを持って、鹿島京子についていったのだな?」
「そう」
冴島は、見上げていた部屋を指さした。
「鹿島京子は、ここの二階にある、あの部屋へ住んでいた。中へ入ると、食事が用意されていたよ。好きなだけ、たくさん食べてって、嬉しそうに笑っていた」
それから、楽しそうに続けた。
「自分が誘拐犯になるなんて、少しも思わずにね」
「だが、君が自分の意思でついていったのならば、誘拐とは――」
「僕は当時、五歳だよ。五歳の子どもが自分からついていったと証言しても、そんなものは何の助けにもならない」
「それでも、鹿島京子が君を無理に連れ去ったわけではないと話すことはできただろう?」
「言わなかったよ」
「なぜだ?」
「僕は、母親を守るためなら、ほかの人間がどうなろうと知ったことではなかった。鹿島京子を庇う気なんて、微塵もなかったからね」
「お前……」
素戔嗚が、唸るように言った。
その目には、はっきりと怒りが浮かんでいる。
冴島は横目で素戔嗚を見ると、穏やかに微笑んだ。
「だって僕は、大切な母親を助けるヒーローなんだもの」
「……ヒーロー?」
「そう」
冴島の笑みが、恍惚としたものへ変わった。
「母親は毎晩、眠る前に僕の頭を撫でながら言っていたんだ」
『克也は、私のヒーローなのよ』
『悪い奴から私を守ってくれる、正義のヒーロー』
「格好いいだろ?」
冴島は、自慢する子どものような顔で笑った。
「母親が苦しんでいることを知っていたのは、僕だけだった。母親を救うことができるのも、僕だけ。だって僕は、母親のヒーローだから」
しかし、その表情にも、やがて陰りが差した。
「……でも、失敗した」
「何がだ?」
「鹿島京子を選んだことが、そもそもの間違いだった。あるいは、もう少し時間があれば、うまくいっていたのかもしれない」
「時間?」
「あの図書館へ行けるのも、あと数回だけだったからね。当時の僕は、焦っていたんだろう」
「君は鹿島京子を利用して、何をしようとしていた?」
「急かすねぇ」
冴島は、楽しむように笑った。
「僕は、鹿島京子へお願いしたんだよ」
「何を?」
「あなたの子どもになりたい。でも、父親が絶対に許さない」
そこで一度、言葉を切った。
「だから、父親を殺してほしい――と」
「……!」
私は絶句した。
五歳の子どもが、実の父親を殺してほしいと、他人へ頼んだのだ。
「うまくいくと思っていたんだよね。ほら、僕は子どもだったから」
「鹿島京子は、何と?」
「断ったよ。当然だよね」
冴島は、まるで他人の話をするように答えた。
「だから僕は、別の方法を考えるしかなくなった。でも、その前に誘拐事件として大騒ぎになった。結果は最悪だった」
「それで、なぜ今になって鹿島京子へ会いに来た?」
素戔嗚が、冴島を睨みつけたまま尋ねた。
冴島は変わらず、微笑みを浮かべている。
「いよいよ、核心へ近づいてきたね。でも、その前に、事件の後で僕がどうなったのかを説明させてよ」
「必要ねぇ。先に答えろ」
「駄目と言われても、話すけどね」
冴島はそう言うと、アパートの縁石へ腰を下ろした。
そして私たちを手招きする。
仕方なく私が隣へ座り、その隣に素戔嗚も腰を下ろした。
その時、少し離れたところへ、一羽の烏が降り立った。
烏は地面を跳ねながら、素戔嗚へ近づいてくる。
冴島は、さして気にする様子もなく、話し始めた。
「事件の後、僕は祖母へ預けられた。父親は一人で別のアパートを借りて暮らし、土日になると祖母の家へ来た」
「母親は?」
「父親と離婚して、家を追い出された。それでも僕は、いつか母親に会えると信じていたよ」
冴島の声が、僅かに低くなった。
「でも、その願いが叶うことはなかった。母親は事件の直後に死んだと、父親から聞かされた」
「亡くなったのか……」
「ああ、でも、僕は信じていない。父親の言うことだからね。母親は今も、どこかで生きている。そう信じている」
「父親は、なぜ君と一緒に住まなかったのだ?」
「祖母の家が勤務先から遠かったからじゃないかな。それとも、僕の世話をするのが面倒だったのか」
冴島は、興味がないというように肩を竦めた。
「それでも、土日になるとやってきた。そのたびに祖母から僕の様子を聞き出してね。年齢の割に出来がよいところは、自分に似たからだと言う。僕に駄目なところがあれば、『あの女に似たからだ』と責める」
「祖母は、何も言わなかったのか?」
「祖母も同じだよ。子ども一人まともに育てられない女だと、母親の悪口ばかり。僕は、それをずっと聞かされて育った」
「血の繋がった者の悪口を聞き続けるのは、辛かっただろう」
私は、冴島へ同情した。
「まあね。身内の悪口は、聞いていて気持ちのよいものじゃない」
冴島は、自分の両手へ目を落とした。
「それに、『ここは父親似』『ここは母親似』と、いつも誰かと比べられていると、自分が何者なのか分からなくなるんだ」
「自分が、何者か……」
「自分というものが、どこにも存在しないような、不思議な感覚になる」
冴島のそばまで来ていた烏が、素戔嗚の足元で一度、短く鳴いた。
素戔嗚は何も言わず、その声へ耳を傾けている。
「それで僕は、大人になるまで、父親へ従順に生きた」
冴島は話を続けた。
「行けと言われた学校へ行き、入れと言われた会社へ入った」
「父親に決められた人生を、そのまま歩んできたのか?」
「そう。僕には、それができたからね」
冴島は、嬉しそうに笑った。
「そして、つい先日、父親に命じられて入った一流企業を、退職してきた」
「なぜ、そのようなことを?」
「分からないという顔だね」
冴島は、私の顔を覗き込んだ。
「僕は、父親へ、より大きな苦痛を与える方法を、ずっと考えていたんだ」
「復讐のために、会社を辞めたのか?」
「それだけじゃない。まず、父親を早期退職させた」
「どうやって?」
「外面がどれほどよくても、中身はあのとおりだ。他人を見下し、自分の言うことを聞かない者を許せない。そんな人間にとって、今の学校教育はストレスでしかなかった」
父親は、教師だったのか。
「そこで僕は、『これからは自分が働いて、育ててもらった恩を返す』と言い続けた。父親も、少しずつその気になった。そして今年、ようやく教員を辞めた」
「だが、それだけでは、父親を絶望させることにはならぬだろう?」
「公務員だから、退職金をたくさん受け取るでしょう?」
冴島は、口元を吊り上げた。
「その金を、すべて危険な投資へ注ぎ込ませたんだ。絶対に増えるから大丈夫だと言ってね」
「まさか……」
「ずっと従順だった息子の言葉だから、父親は信じた。結果は大暴落。退職金は、ほとんど残らなかった」
「それを知った父親は、どうなった?」
「凄まじく怒ったよ。殺されるかと思うほどにね」
冴島は、楽しそうに笑った。
「それで、あの人は言ったんだ。自分が損をした分を、僕の給料から返せって」
「だから、会社を辞めたのか?」
「そう。これ以上ないほど、よい頃合いでしょう?」
「なぜ、そこまで……」
「仕事を辞め、蓄えを失えば、父親は必ず僕の金へ頼る。そうなるように仕向けたんだ」
「そして、頼らせた後で、梯子を外した」
「そう。ただ、それだけだよ」
冴島の笑みが、さらに深くなった。
「無一文で、仕事もない。僕を頼ることもできない。昔の母親と同じ立場に立たせたかった。あの人を絶望させたかった」
「面倒くせぇ」
素戔嗚が、呆れたように言った。
「随分と回りくどいやり方をするんだな。それで? 父親は絶望したのか?」
「ふふっ。絶望……したのかなぁ?」
「俺が聞いているんだが?」
「顔を見る暇がなくてね」
冴島は、上着のポケットへ入れていた手へ視線を落とした。
「僕が会社を辞めたと報告したら、あの人は無表情のまま台所へ行った。そして果物ナイフを持って戻ってきた」
「まさか、君を刺そうとしたのか?」
「そう」
「それで、どうなった?」
「刺されたら痛いでしょう? 僕だって抵抗するよね」
冴島の声は、どこまでも軽かった。
「僕を刺そうとする父親と、刺されまいとする僕。もみ合っているうちに、ナイフが父親の腹へ刺さった」
「……!」
「ナイフを抜いたら、信じられないほどの血が出てきた。太い血管か、内臓でも傷ついたんだろうね。父親は、その場へ倒れた」
その光景を思い出しているはずなのに、冴島の表情は変わらない。
「倒れた父親を中心に、床へ血溜まりが広がっていった」
「父親を、殺したのか?」
「死んじゃったんだよ」
冴島は、不満そうに頬を膨らませた。
「僕の復讐は、これからだったのに。不完全燃焼だよ。思っていたのと違う」
その姿は、まだ遊べると思っていた玩具が突然壊れ、動かなくなった時の子どものようだった。
父親を失ったことが惜しいのではない。
ただ、もう少し遊びたかった。
そう言っているように見えた。
「それでね。僕は、もう一人、復讐してもよい大人がいたことを思い出した」
「もう一人?」
「鹿島京子。僕のお願いを聞いてくれなかった人」
「君は、鹿島京子を殺すために、ここへ来たというのか?」
「違うよ」
冴島は、声を上げて笑った。
「死んだら、楽になってしまうでしょう? それでは復讐にならない。この世で生き続ける方が、断然きつい」
それから、二階の部屋を見上げた。
「だから、鹿島京子は殺さない。でも、僕がヒーローになり損ねたのは、あの女のせいだ。その責任を取ってもらおうと思い、この家へ来た」
「だが、鹿島京子はいなかった」
「別の人が住んでいたよ。それで図書館へ行った。懐かしさが半分。鹿島京子について、何か分かるかもしれないという期待が半分」
「そこで、私たちに会ったのか」
「そう。しかも鹿島京子は、もう死んでいるらしいという、おまけの情報まで手に入った」
冴島は、屈託のない笑顔を浮かべた。
「また、あの女は逃げた。そう思うと、正直、腸が煮えくり返るほど腹が立ったよ。でも、うまく隠せていたでしょう?」
私を見て、楽しそうに続ける。
「そのガキは、最初から僕を警戒していた。でも、お父さんの方は、僕をただの被害者だと信じてくれたものね」
目の前の冴島の中には、何人もの別人が存在しているのではないか。
そんな錯覚を覚えた。
爽やかな青年。
荒々しい気性の青年。
幼子のように残酷な青年。
それらすべてが、一人の冴島克也の中から、代わる代わる顔を出している。
そして、まだ私の知らない冴島もいるのではないか。
ふと、そう思った。
その瞬間、私の目の前を小さな影が横切った。
素戔嗚が立ち上がり、冴島の前へ立ったのだ。
真っ直ぐに、その顔を見下ろしている。
先ほどまで素戔嗚の足元にいた烏の姿は、もうなかった。
いつの間にか、どこかへ飛び去ったらしい。
「ふふっ。本当に、この糞ガキ」
冴島は、素戔嗚を見上げた。
「僕、見下ろされるのが嫌いなんだよね。わざわざ目の前へ立たなくても、声は聞こえているよ。何? 何か言いたいことでもあるの?」
「……ない」
「だったら、どけよ」
「これが、お前の選んだ道だと言うのなら、俺から言うことは何もない」
「はっ。だったら、見下ろすのをやめろよ。腹が立つんだよ」
冴島は、素戔嗚を睨みつけた。
「僕が選んだ道だ! 糞生意気な子どもは、黙っていろ!」
「お前は、いったい誰を救った?」
「誰って……母親だよ! それ以外はどうでもよいと、言っただろ!」
「その母親は、もうこの世にはいない」
冴島の顔から、笑みが消えた。
「冴島志穂。離婚後、旧姓の多治見志穂へ戻った」
「なぜ、母親の名を……」
「離婚した頃には体調を崩し、病院へ入院していた。しばらくして退院したが、故郷へは戻らず、誰も自分を知らない土地へ移り住んだ」
「黙れ」
「昼も夜も、働き続けた。あまりにも無理をするから、同僚が理由を尋ねたそうだ。志穂は答えた。金を貯めて、子どもを迎えに行くのだと」
「嘘だ!」
冴島が、立ち上がった。
「だが、眠る間も惜しんで働き続けた身体は、すでにぼろぼろだった。冬に流行した病を拗らせ、そのまま亡くなった」
「嘘だ!」
「俺がお前へ嘘をつく理由はない」
素戔嗚は、冴島から目を逸らさなかった。
「お前の母親は、お前へ呪いをかけた。そして、その呪いを解く前に旅立った」
「僕は、呪いなんかかけられていない! 呪いなんて!」
「言霊は、呪いになる」
「違う!」
「母親が子守歌のように、毎晩お前へ言い聞かせた言葉だ」
素戔嗚の声が、僅かに震えた。
『克也は、悪い奴から私を守るヒーロー』
「その言葉は、初めはお前の魂を柔らかく包んだ。だが、繰り返されるうちに、少しずつ硬い殻へ変わった」
「うるさい!」
「本当のお前が、二度と外へ出られぬようにな」
「うるさい! 僕には、この道しかなかったんだ!」
「お前が父親への復讐とは違う道を選んでいれば、母親の言葉から解放されたかもしれない」
「今すぐ黙れ!」
「もう、解放してやれ」
素戔嗚の声が、低く沈んだ。
「これ以上は惨すぎて、見ていられん」
「黙れと言っている!」
冴島は顔を真っ赤にし、身体を震わせながら素戔嗚を睨んでいる。
素戔嗚は、そんな冴島から目を逸らした。
悲しげな表情だった。
私は、素戔嗚の考えていることが分かった。
だからこそ、それをさせるわけにはいかなかった。
深く息を吐き、二人の間へ声を差し入れる。
「駄目ですよ」
素戔嗚が、私を見た。
「あなたは、冴島さんに刺されようとしているのでしょう?」
「月読、てめぇ……」
「冴島さん。彼はわざとあなたを怒らせ、ポケットに入っているもので、自分を刺させようとしています」
冴島が、自分のポケットへ目を落とした。
「彼の挑発に乗ってはいけません」
素戔嗚が、恨みがましい目で私を睨んでいる。
私には、そのような威嚇が通じないと分かっているはずなのに、そうせずにはいられないらしい。
私は、その怒りへ微笑みを返した。
「冴島さんが人から追い詰められ、道を狭められたことと、冴島さん自身が選んだ行いの責任は、別のものです」
私は冴島を見た。
「鹿島京子を利用しようとしたこと。父親へ復讐するため、その財産を失わせたこと。会社を辞めたこと。そして、父親へ刃を向けたこと」
冴島の表情が、僅かに歪んだ。
「どれほど選択肢が少なかったとしても、最後にその道を選んだのは、あなたです。だが同じように、ここから先の道を選ぶことも、あなたにしかできない」
「僕に、選べる道なんて……」
「今も、ある」
私は、もう一度素戔嗚へ向き直った。
「ですから素戔嗚。我々が、彼の生を勝手に終わらせてはなりません。冴島さんがこれから何を選ぶのか。それは、冴島さん自身のものです」
素戔嗚は、じっと私の話を聞いていた。
現世の神である素戔嗚は、人間の営みを近くで見続けてきた。
私には分からない思いも、あるのだろう。
だが、今、素戔嗚がしようとしていることを、見過ごすことはできない。
そのようなことをしても、冴島は救われない。
私たちは目を合わせたまま、互いの思いをぶつけ合った。
やがて、素戔嗚が先に目を逸らした。
私の思いが、伝わったらしい。
「……なぜ?」
冴島は、心底不思議そうに素戔嗚を見た。
「なぜ、わざと僕を怒らせて、刺されようとしたの? 意味が分からない」
「……」
「もう十分、悪いことをした。そんなことをしなくても、僕は地獄へ行くよ」
「俺は……」
素戔嗚は、まだ冴島と目を合わせられずにいた。
「お前を、楽にしてやりたかった。ただ、それだけだ」
「楽に?」
「だが、月読に止められて気づいた。誰かのためにしたことが、必ずしも、そいつのためになるとは限らねぇ」
素戔嗚は、自嘲するように笑った。
「俺はただ、これ以上、悲しいものを見たくなかっただけだ。お前のためではなく、俺自身のためだった」
そこで初めて、冴島へ顔を向けた。
「俺が間違っていた。すまない」
その謝罪を聞いた途端、冴島の目に、小さな光が浮かんだ。
一粒の涙が頬を伝う。
「あ……あれ?」
さらに一粒。
また一粒。
冴島の目から、次々と涙が零れ落ちていく。
指で涙を掬い取り、不思議そうに眺めた。
「僕……初めて泣いた」
冴島は、濡れた指先を見つめた。
「何、これ。勝手に流れてくる……」
もしやと思い、私は右目を覆った。
左目だけで、冴島の魂を見る。
ただの石の塊に見えていた球体の表面に、小さな亀裂が走っていた。
亀裂は少しずつ広がり、硬い石が、ぱらり、ぱらりと剥がれ落ちていく。
その隙間から、眩い光が漏れ出していた。
魂そのものが穢れへ変わっていたのではない。
あまりにも隙間なく、硬い穢れに覆われていたのだ。
「あ……僕……父さんを……」
「冴島さん」
私は、静かに問いかけた。
「あなたは、父親をそのポケットにある刃物で傷つけ、死なせてしまった。これから、どうしますか?」
冴島は、首を横に振った。
「事故なんかじゃない」
「え?」
「僕は、僕から母さんを奪った父親を憎んでいた」
涙で声を詰まらせながらも、冴島は続けた。
「母さんが、僕と暮らすために頑張っていたことなんて、何も知らなかった。調べようともしなかった。ただ、父さんが嫌いで……」
両手で顔を覆った。
「そうか。僕は、父さんに謝ってほしかったんだ」
「謝って?」
「母さんや僕へ、辛い思いをさせて悪かったって……。ただ、一度、謝ってほしかった。それだけだったのに……」
冴島の肩が、大きく震えた。
「それなのに、僕は……父さんを……」
穢れが剥がれ始めた魂が、今、浄化の涙を流している。
私が会いたかった、本当の冴島克也が、そこにいた。
彼は初めて、自らの行いを自分の目で振り返っている。
本当はどうしたかったのか。
本当は何になりたかったのか。
今の彼なら、いつか、その答えを見つけられるかもしれない。
「警察へ行くなら、付き添うぜ」
素戔嗚が、明後日の方向を見ながら、ぶっきらぼうに言った。
冴島は、涙でくしゃくしゃになった顔を上げた。
そして、ふっと笑う。
「僕、もう逃げないよ?」
「そうかよ」
「でも、どうしても僕ともう少し話がしたいっていうなら、付き添わせてあげてもいいけど」
「しょうがねぇな」
素戔嗚は、冴島へ手を差し出した。
「もう少しの間、お前の愚痴を聞いてやる。全部、吐き出してしまえよ」
冴島は、差し出された手を握った。
涙と鼻水で濡れた手だった。
素戔嗚の力を借り、勢いよく立ち上がる。
「では、行こうか」
「お前! 鼻水をつけやがったな! 汚ねぇなぁ!」
「あはは。ばれた? 生意気なガキに、少しだけ意地悪をしてみました」
「今すぐ拭け!」
「嫌だね」
やいの、やいのと言い争いながら、二人は警察署へ向かって歩き始めた。
その背中を眺めていると、二人の間に生まれた絆のようなものへ、僅かな嫉妬を覚えた。
やはり、現世に生きる人間とは、現世の神の方が繋がりやすいということなのだろうか。
だが、それでよい。
人間が八百万の神々へ目を向けるように。
八百万の神々もまた、人間へ目を向けてくれる。
そして冴島のように、生きることそのものが地獄だと思う人間が、一人でも減ってくれることを、私は願った。




