第二十二章
冴島は、図書館を出てすぐの石垣に腰を下ろしていた。
私たちが追ってくることを、初めから読んでいたらしい。
私と目が合うと、予想が当たったとばかりに笑った。
「やっぱりな。絶対、来ると思った」
私は、冴島の上着のポケットへ目を向けた。
あの中には、血の匂いを放つ、禍々しい何かが入っている。
素戔嗚は、そう言っていた。
「あんたたち、本当に何なの?」
冴島は、私たちを交互に見た。
「僕、おじさんたちに怪しまれるような失敗をした覚えはないんだけど」
「君のポケットから、嫌な氣を感じるのだ。これから、何をしようとしている?」
なるべく冴島を刺激しないよう、慎重に言葉を選んだ。
「へえ。すごいね。霊能者って、そんなことまで分かるんだ」
冴島は楽しそうに笑った。
「ついてきなよ。歩きながら話そう」
そう言って石垣から腰を上げ、歩き出す。
私と素戔嗚は、その後を追った。
素戔嗚は歩きながら空を見上げ、口の中だけで何かを呟いた。
何を言ったのかは、私にも聞こえなかった。
一方、冴島は前を向いたまま、私へ語りかけてきた。
「ずるいよね。何の責任も取らず、自分だけ逃げてしまうなんてさ」
「逃げる? 誰がだ?」
「鹿島京子。子どもの頃、僕を図書館から連れ出した女だよ」
(ああ。図書館に残っていた念は、鹿島京子という女のものだったのか)
「事件の後、父親は母親を追い詰めた挙げ句、屑のように捨てた。僕は祖母の家へ預けられた。そして鹿島京子は、何も得られないまま、どこかへ消えた」
冴島は、淡々と続けた。
「本当に、何の意味もない事件だったなぁ」
「だが君は、食事を取れるようになり、幼稚園にも通えるようになったと、先ほど言っていたではないか」
図書館で鹿島京子の念へ語りかけていた時、冴島は彼女へ礼を述べていた。
それなのに今は、何の意味もない事件だったと言う。
「なぜ、意味がなかったと思うのだ?」
「僕の目的は、果たされなかったからだよ。結果も、僕が望んでいたものとは、まるで違った」
「目的?」
私は、冴島の背を見つめた。
「君は当時、五歳だったのだろう? 五歳の子どもに、どのような目的があったというのだ?」
「あんたさ。子どもだからって、何も考えていないわけじゃないよ」
冴島は、僅かに顔だけをこちらへ向けた。
「まあ、僕が子どもだったからこそ、こんな結果になってしまったんだろうけど」
冴島が果たせなかった目的とは、いったい何だったのだろう。
「僕の父親は、高圧的な人間だった」
冴島は、また前を向いた。
「自分以外の人間は愚かで、何もできない。本気で、そう思っているような人でさ。一番の標的になったのは、母親だった。家族だから、一番近くにいるだろ?」
「うん」
「暴力こそ振るわなかった。でも毎日、何度も言うんだ。『お前は本当に使えない』『俺がいなければ、お前たちは生きていけない』『お前は馬鹿だから、何もできない』って」
「酷い……」
「酷いよね」
冴島は、他人事のように笑った。
「何度も何度も、同じことを言われ続けて、母親はどんどん自分の存在する意味を見失っていった」
「誰かへ、助けを求めることはできなかったのか?」
「父親は、そんな機会を与えなかった。金の管理も、すべて父親がしていたからね」
「金まで?」
「『お前には家計を任せられない。練習しろ』と言って、母親には、ひと月分の食費として僅かな金しか渡さなかった。どう考えても、家族三人が食べていくには足りない額だ。それなのに、一円でも十円でも余らせられなければ、母親を罵った」
「まるで、暴君だな」
「そう。うちの暴君は、朝食と夕食を家で食べる。だから父親の分だけは、それなりの品数を用意しなければならない。少なければ、『やりくりが下手だ』と、また母親を責めるからね」
「では、足りない分はどうした?」
「母親が、自分の食事を減らした」
冴島は、何の感情も込めずに答えた。
「僕の食べる分は、確保しないといけないからね。母親は昼食を食べないのが当たり前だった。一日中、何も食べないことだって珍しくなかったよ。母親は、どんどん痩せていった」
「だから君は、自分のために用意された食事を残したのか」
「そう。僕が残せば、母親は食事にありつけた」
「それで君は、五歳にしては身体が小さかったのだな」
冴島は、僅かに口元を上げた。
「でも、そこで別の問題が起きた。僕が三歳の頃、幼稚園へ通わせるという話が出たんだ」
「幼稚園か」
「幼稚園へ通うには、金がかかる。母親は、僕が幼稚園にいる間、パートへ出ると父親へ話した」
「父親は許さなかったのだな?」
「一蹴されたよ。『何の取り柄もないお前に、仕事などできるものか』ってね」
「なぜ、そこまでして働かせたくなかったのだ?」
「本当の理由は、別にあったんだと思う」
冴島は、声を僅かに低くした。
「母親が働いて、自分で金を稼げるようになれば、父親へ意見するかもしれない。外の世界と繋がれば、余計な知恵をつけ、言うことを聞かなくなるかもしれない。それを恐れたんだ」
自分の言うことを黙って聞いていた妻が変わることを、父親は許せなかったのだろう。
「だから僕は、幼稚園へ行くことを拒んだ」
「君が?」
「ああ。本気で、全力で暴れた。この子を幼稚園へ通わせるのは無理だと、父親が納得するまでね」
「なぜ、そのようなことを?」
「幼稚園は弁当だったからだよ。余計に金がかかる。それに、僕が幼稚園へ行ってしまったら、母親へ自分の食事を残せないだろ?」
「それで君は、幼稚園へも通わず、母親を守り続けていたのか……」
そこまで口にして、私は足を止めかけた。
「だが、待て。君がそれを考えた時には、まだ三歳だったということか?」
「そうだよ」
「いくら何でも、幼い君が、そこまで大人の事情を理解していたとは思えないのだが……」
人として生まれ、まだ三年しか経っていない。
赤子と大して変わらない子どもが、両親の関係や金の事情まで理解していたとは、どうしても信じ難かった。
「僕は、物心がつくのが早かったんだよ」
「それにしても――」
「なんてね」
冴島が、こちらを振り返った。
「僕は、少し特異な脳を持っているんだ。信じられないかもしれないけど、二歳半からの記憶が、すべて残っている」
「すべて?」
「誰が何を言ったのか。その時、どこにいて、どのような状況だったのか。一言一句、この頭の中に刻まれている。忘れたくても、決して忘れることができない」
それまで黙って後ろを歩いていた素戔嗚が、ぽつりと呟いた。
「……きついな」
その声は、冴島にも聞こえていたらしい。
冴島は振り返り、微笑んだ。
「そう。正直、めちゃくちゃきつい。分かってんじゃん、ガキのくせに」
「『ガキのくせに』は余計だ」
素戔嗚は不貞腐れた顔で言うと、一度私を見て、再び口を閉ざした。
おそらく素戔嗚は、冴島の言葉を自分自身へ重ねたのだろう。
私たち神もまた、生まれ出た時から現在まで、すべての記憶を持っている。
イザナギの禊によって生まれた瞬間。
それから出会った神々や人々。
交わした言葉の一つ一つ。
忘れたいと願っても、消えることはない。
神社で八木と過ごした日々も。
八木と交わした、最後の言葉も。
すべてが、素戔嗚の中へ刻み込まれている。
だからこそ、「きつい」という本音が、思わず零れたのだ。
冴島もまた、二歳半からの記憶すべてが、今も脳裏に焼きついている。
苦しみも、悲しみも。
では、彼の記憶の中に、喜びはあったのだろうか。
「でもね、母親も、ただ父親の言うことに従っていただけじゃなかった」
冴島は歩きながら、話を続けた。
「週に一度、二時間ほどだけ、古い友人の伝手で仕事を見つけたんだ。父親には内緒でね。昼時に混み合うラーメン屋の、皿洗いだった」
「週に一度、数時間だけ……」
「そう。あんたが考えているとおりだよ。僕は近くの図書館で、母親の仕事が終わるのを待っていた」
「それが、あの図書館だったのか」
「近所の目があるから、僕を家に置いておくわけにはいかなかった。図書館なら店から目と鼻の先だし、以前からよく通っていたから、館内の造りも知っていた」
「だから、職員の目を避けられたのだな」
「僕は、なるべく職員から見えない場所にいて、ずっと本を読んでいた。途中までは、すべてうまくいっていると思っていたんだ」
「途中までは?」
「母親が働いていることを、父親に知られた」
「誰かが話したのか?」
「母親も、週に一度とはいえ、外で働いて金を得ることで、自信のようなものを取り戻していったんだと思う」
冴島は、当時の母親を思い浮かべるように、目を細めた。
「まず、父親と目を合わせて話すようになった。隠そうとはしていたけど、仕事の前の日には明らかに機嫌がよかった。少しずつ、態度へ表れるようになったんだ」
「父親は、それに気づいた」
「気づかないような男じゃない」
やがて冴島は、一軒のアパートの前で足を止めた。
かなり古い建物だった。
壁の塗料はところどころ剥がれ、その下から黒ずんだ地肌が覗いている。
並んだ郵便受けのほとんどが錆びつき、まともに開くのかさえ怪しい。
冴島は、二階にある一室の扉を見上げた。
「最初から、ばれていたんだ」
「最初から?」
「父親の方が、ずっと狡猾だった」
冴島の目は、二階の部屋から動かない。
「母親が古い友人だと思っていた女は、パート先を紹介したことを、自分の夫へ話した。もちろん、ほかの人には言わないよう口止めしたうえでね」
「その夫が、冴島の父親へ話したのか?」
「その人は、父親が勤める小学校へ出入りする業者で働いていた。悪気はなかったのかもしれない。話の流れで、つい口を滑らせたのだろうね」
「それで父親は、早い段階から母親の秘密を知っていた」
「そういうこと」
「だが、なぜ、すぐ母親へ言わなかったのだ?」
冴島の口元から、笑みが消えた。
「そこが、あの男の一番最低なところだよ」
「どういうことだ?」
「母親が仕事へ慣れ、自信をつけ、働くことを楽しいと思い始める。その時まで、父親は待ったんだ」
「待った?」
「一番高いところまで登らせてから、地獄へ突き落とす。その方が、深く傷つけられるからね。あの男の考えそうなことだよ」
冴島は、二階の部屋を見上げたまま、話し続けた。
「いつものように母親が仕事を終え、図書館から僕を連れて家へ戻ると、父親がいた。もともと嘘をつくのが苦手な母親は、酷く動揺していたよ」
「そして、父親は仕事のことを問い詰めた」
「そう。父親の制裁が始まった」
冴島の目は二階の一室へ向けられている。
だが、彼が見ているのは、今そこにある扉ではないのだろう。
目の前には、当時の光景が、一つ残らず蘇っている。
「父親は母親へ、『ラーメン屋での皿洗いは楽しいか』と聞いた。母親は、楽しいと答えた」
「うん」
「すると父親は、それまでに受け取った給与明細を、すべて持ってこさせた」
冴島は、僅かに息を吐いた。
「週に一度、二時間程度。ひと月働いても、一万円にも満たない給与明細だ。それを見た父親は、鼻で笑って言った」
冴島の声が変わった。
父親の口調を、一言一句そのまま再現しているのだ。
『お前が楽しい、やり甲斐があると思って働いても、所詮はこの程度だ。いいか。お前は、この程度の人間なんだ』
『これっぽっちの金で、何ができる? この程度で、よく働いているなんて言えたものだ』
『俺がいなければ、お前は生きていけない。そのことを、いい加減、自覚しろ』
語り終えた冴島は、しばらく黙った。
「母親は、みるみる青くなっていった。背中が、どんどん小さくなっていったよ」
「……それで?」
「最後に父親は、ラーメン屋を今月で辞めるよう命じた」
「すぐに辞めさせなかったのか?」
「『いてもいなくても変わらないようなパートでも、突然来なくなるのは非常識だ』ってね。自分は常識のある人間だとでも言いたかったんだろう」
「母親は、従ったのか?」
「すっかり怯えていたからね。黙って頷いていたよ」
私は、二階の部屋を見上げた。
「世間で語られている話とは、これほど違うものなのか」
「世間というか、人は自分が信じたいものを信じるんだよ。そして、他人の人生を面白おかしく作り変えて語る。自分の人生さえ、ままならないくせにね」
冴島は、上着のポケットへ入れた手を、さらに深く押し込んだ。
「それで、僕はその時に思ったんだ」
「何を?」
「この父親が存在するかぎり、母親は幸せになれない」
「まさか――!」
最悪の結末を想像し、私は思わず叫んだ。
冴島は一度だけこちらへ目を向けた。
そして、すぐにまた、二階の一室を見上げた。
「そう」
その口元へ、薄い笑みが浮かぶ。
「それで僕が目をつけたのが、鹿島京子だった」




