第二十章
「ねえ、僕。お腹が空いているの?」
女は、そう言って素戔嗚を見ていた。
正確には、素戔嗚の顔を見ているのではない。
素戔嗚がいる辺りへ顔を向けているだけで、その虚ろな視線は、何もない宙を捉えていた。
「僕? お母さんは?」
女が、質問を変えた。
この者は、私を、幼い子どもへ食事も与えない父親だと思っているのかもしれない。
だから素戔嗚へ、母親はいないのかと尋ねているのだろう。
素戔嗚は、決して自分と交わることのない女の視線を気にも留めず、答えた。
「大丈夫だ、女。俺は今朝、腹いっぱい飯を食った。心配をかけたな。もう大丈夫だ」
女は表情一つ変えなかった。
「僕? おばちゃんのお家、すぐそこなの。おばちゃんと一緒に、ご飯をお腹いっぱい食べよう。ね?」
「ちっ。やっぱり駄目か」
「何が駄目なのだ? この女とは、知り合いなのか?」
「ちっ。鈍くせぇな! よく見ろよ。こんなに身体の透けた生身の人間がいるわけねぇだろ!」
素戔嗚に言われ、改めて女を見た。
確かに、その身体は向こう側が見えるほど、薄く透けている。
では、目の前にいるこれは、いったい何なのだろう。
「これは、何だ?」
「この場所へ残っちまった念だ。執着、と言った方が近いかもな」
「念?」
「そう。この女の強い執着が、映像のように、ここへ残ってしまったんだ」
素戔嗚は、女の顔の前で手を振った。
やはり、何の反応もない。
「試しに答えてみたが、俺のことは見えていない。声も聞こえていないな、こりゃ」
「素戔嗚は、ここで何があったのか知っているのか?」
素戔嗚は、面倒そうな顔をした。
それでも、女の方を見ながら話し始めた。
「十数年前、誘拐事件が起きた。表向きはな」
「表向き?」
「連れ去られたのは、当時五歳の少年。犯人は、この女だ。すぐに警察へ捕まったが、事情を考慮され、執行猶予のついた判決が下された……と聞いたかな」
「他人の子を連れ去るとは、重い罪ではないか」
「だから、『表向きは』と言っただろ」
素戔嗚は女を指さした。
「その少年は、決まった曜日になると、何時間もこの図書館へ置き去りにされていたらしい」
「置き去りに?」
「ああ」
「だが、佑は保育園というところへ通っている。その子は、そのような場所へ行かなかったのか?」
「月読くん。世の中には、さまざまな事情を抱えた家庭があるのだよ」
素戔嗚が、妙に芝居がかった口調で言った。
「少年の父親は公務員。母親は専業主婦だった。普通なら幼稚園へ通わせる年頃だが、母親は周囲へ、こう説明していたそうだ」
「何と?」
「少年は他人と接すると、すぐに混乱して暴れる。だから自分が家で面倒を見ている、とな」
「だが、決まった曜日には、この図書館へ置き去りにしていたのだろう?」
「そうさ。ちなみに、ここで一人になった少年が暴れたという記録はない」
「どういうことだ?」
「まあ、待て」
素戔嗚は、話を続けた。
「ある日、この女が図書館で少年を見かけた。少年は酷く痩せていて、五歳児の平均と比べても、身長も体重も随分足りなかった」
「その子は、病だったのか?」
私の問いに、素戔嗚は首を横に振った。
病ではない。
だが、身体の成長に著しい遅れがあったということか。
それにしても、素戔嗚は、なぜそれほど詳しく知っているのだろう。
「この女は以前、小児科で看護師をしていたことがあった。それで少年の状態を不審に思い、毎週、同じ日に図書館へ置き去りにされる少年について調べ始めた」
「調べた?」
「名前と住んでいる場所は、すぐに分かった。父親と母親、そして少年の三人家族。母親は専業主婦。それなのに、毎週子どもを図書館へ置き去りにしている」
素戔嗚の声は淡々としていた。
「少年は母親から虐待を受けている。必要な養育を受けていない。痩せて身体が小さいのは、満足に食事を与えられていないからだ――そんな図式が女の頭に浮かぶまで、時間はかからなかった」
素戔嗚が、自分について話しているとも知らず、女は虚ろな目で言葉を繰り返していた。
「お母さんが来る前に戻れば、大丈夫だから」
「ハンバーグは、食べられるかな?」
「この女は、少年が母親から虐待を受けていると結論づけた。そして、食事をさせるため、こうして声をかけ、図書館から連れ出した」
「なるほど。少年へ、腹いっぱい食事をさせるために……」
私がそう呟くと、素戔嗚はこちらを一瞥した。
「ところが、その日に限って、母親はいつもより早く図書館へ戻ってきた」
「少年がいないことに気づいたのだな?」
「ああ。母親は青ざめて、『ほんの少し目を離した間に、子どもがいなくなった』と訴えた。本当は、何時間も席を外していたのにな」
「それは、おかしいではないか」
「何がだ?」
「図書館には、あのように職員がいる。母親が何時間もいなかったことなど、すぐに分かるだろう?」
「分かっていた職員も、いたのかもしれないな」
「ならば、なぜ?」
「関わり合いになりたくなくて、見て見ぬふりをしたのか。それとも、その職員自身は、少年が一人でいるところを見ていなかったのか」
「何だ、それは。訳が分からぬ」
「そうだ。訳が分からん」
素戔嗚は、小さく息を吐いた。
「だが、間の悪いことは続く。騒ぎが大きくなり、警察までやってきて、図書館中が混乱しているところへ、この女と少年が手を繋いで戻ってきた」
「食事を終えて、約束どおり戻ってきたのか」
「そうだ。だが、その場で女は逮捕された」
「なぜだ? 他人の子に食事をさせることも、罪なのか?」
「違う。他人の子を、親に何も告げず連れ出したことが罪なんだ」
「だが……」
「その後、女は裁判にかけられた。同じ頃、少年の母親がついていた嘘も、次々と明らかになった。そして世間の同情は、この女へ集まった」
「なぜ?」
「少年の母親が虐待をしていたせいで、この女は犯罪者になってしまった――そう考えた者が多かったからだ。ちなみに少年は、その後、父方の祖母へ引き取られたらしい」
素戔嗚は、目の前に残る女の姿へ視線を向けた。
その顔には、どこか悲しげなものが浮かんでいた。
「少年の母親は、心の病を抱えていたのではないかと言われた。少年を病気に仕立てることで、母親である自分へ同情が集まる。子育てが大変であればあるほど、周囲は自分を労り、認めてくれる。それを求めたのではないかとな」
「そのために、少年へ食事を与えなかったのか?」
「そう語られている。母親は自分が嘘をついているという自覚すらないまま、少年の養育を怠り、誘拐されたと騒ぎ立てた――とな」
「それを見かねたこの女は、少年を救おうとして、犯罪者になってしまったわけだな」
「さあな」
素戔嗚が、冷たく答えた。
「確かに、少年の母親は虐待していたのかもしれない。だが、それと、この女が純粋な正義感だけで行動したかどうかは、別の話だ」
「どういうことだ? この女は、少年を助けるために連れ出したのだろう?」
「そう言っているのは、本人だけだ」
「ならば、そうなのではないか?」
「月読……」
素戔嗚は、呆れたように私を見た。
「仮に、何の混じり気もなく少年を救いたかっただけだとしよう。では、なぜこの女は、十数年が過ぎた今も、自分の念をここへ置き去りにしている?」
私は、はっとした。
少年は、すでに母親のもとを離れて暮らしている。
この女が心配する必要は、もうなくなったはずだ。
それなのに今も、こうして少年へ声をかけ続けている。
もしかして、この女はすでに――。
「生きているぞ。この女は」
素戔嗚が、私の考えへ答えた。
あまりにも正確に言い当てられ、思わず素っ頓狂な声が出た。
「へっ?」
「お前、今、この女は罪を犯したことを苦にして死んだと思っただろ? 外れだ。この女は生きている」
「では、これは魂ではないのか?」
「ああ。本人は今も、どこかで生きて、苦しみ続けている」
「苦しみ続けている?」
「この女は、少年と出会う少し前に、自分の子を失っていた」
素戔嗚の声が、僅かに低くなった。
「生まれてくるはずだった子は、母親の腹の中で流れてしまった。しかも、その時の後遺症で、もう二度と子を持つことはできないと、医者から告げられていた」
「……そんな」
「まあな。こんな苦しい現実が死ぬまで続くと思えば、念の一つや二つ、飛ばしてしまっても仕方がない――そう思わなくもない」
素戔嗚は、女の透けた姿を見上げた。
「だが、念を飛ばしたままでは、魂の一部が欠けたままになる。身体だけが先へ進んでも、心はずっと、ここへ置き去りだ。本人はそのことに気づかず、同じ現実を繰り返し続ける」
「人は、自分で気づかぬまま、念を飛ばすのか?」
「ああ。そんなつもりがなくても飛ばしてしまう。厄介だよなぁ」
素戔嗚は、もう一度女へ話しかけた。
「おい、女。もう、その子は腹いっぱい飯を食っているぞ」
「僕? おばちゃんと一緒に、ご飯を食べよう。ね?」
「さっきの俺の言葉を聞く耳があれば、まだ対処のしようもある。だが、俺では、やはり駄目らしい」
素戔嗚は戯けた表情を作ると、両手を上げて降参の姿勢を取った。
その時、薄手の上着を羽織った男が、一人こちらへ近づいてきた。
身なりは清潔で、爽やかな印象の男だった。
『図書館では、静かにしなければならない』
佑の言葉が頭をよぎった。
しまった。
話し声が大きすぎたのかもしれない。
「すみません。静かにします」
私が先回りして謝ると、男は驚いた顔をした。
だが、すぐに、くしゃりとした笑みを浮かべた。
「あ、違います。こちらこそ、急にごめんなさい。近くにいたので、お話が聞こえてしまって……」
「そうでしたか」
「あの……ここに、その……女性がいるんですか?」
男は、申し訳なさそうに尋ねた。
素戔嗚は飄々とした顔で、男の立っている場所を指さした。
「今、お前が立っているところに、ちょうど重なるように立っている。白髪の女がな。今もしつこく、飯に誘ってくるぞ」
「うわお!」
男は声を上げ、ぴょんと横へ飛び退いた。
なんとも滑稽な動きである。
「ああ、ははは。すみません。僕には見えなかったので……」
男は照れたように笑った。
しかし、すぐに表情を曇らせた。
「そうか……。ということは、彼女はもう……」
その言葉の終わりに、舌打ちのような音が混じった。
「あ! あの……彼女は、どちらを向いていますか?」
「俺を見下ろしているような形だが。なぜ、そのようなことを聞く?」
「あ、そうなんですね。あの、本当に申し訳ないんですが、僕と場所を代わってもらえますか?」
「場所を?」
「彼女に伝えたいことがあるんです。一応、面と向かって話した方がいいかなと思って……」
私の予想に反し、素戔嗚はあっさりと承諾した。
「いいぜ」
素戔嗚が立ち上がる。
男は、先ほどまで素戔嗚が座っていた場所へ腰を下ろし、顔を上げた。
「この辺りですか?」
男が確認すると、素戔嗚は何も言わずに頷いた。
男は目を閉じ、静かに長く息を吐いた。
そして再び目を開くと、そこにいるはずの女へ語りかけた。
「あの……ご無沙汰しています。僕です」
女は、変わらず虚ろな目で、何もない宙を見つめている。
「まさか、幽霊のようなものになっているとは思いませんでした。あなたのことを調べても、消息不明になっていて。結局、何も分からないままでした」
男は一度、言葉を詰まらせた。
「僕は、やっと大人になりました」
男の声が、僅かに震えた。
「あの日、あなたに出会って、僕の人生は一変しました。母は心を病み、病院へ入りました。父は、母を捨てました。僕は祖母の家へ引き取られ、毎日、食事をするようになりました。幼稚園にも通わせてもらいました」
女の輪郭が、僅かに薄くなった。
「それから……あの時、あなたの子どもになると言えなくて、ごめんなさい」
私は、素戔嗚を見た。
素戔嗚は、何も言わずに男を見つめている。
「でも、あなたも、僕のお願いを聞いてくれなかった。だから、おあいこですよね」
男は、寂しそうに笑った。
「できれば、僕の人生を変えてくれたあなたに、生きているうちに会いたかった」
それまで何の表情も浮かべなかった女の目が、男を捉えた。
初めて、視線が合った。
「本当に……悔しいです。それから、あと、何だったかな……」
「おい。もう消えたぞ」
「えっ? いつから?」
「『生きているうちに会いたかった』と言った辺りから、消えていった」
女は消える直前、礼を述べる男を、虚ろではない、はっきりとした眼差しで見つめていた。
そして、笑った。
もともと透けていた身体が、さらに薄くなる。
最後にちらりと私たちの方を見ると、その姿は完全に消えた。
「ああ、そうか。また……」
男はゆっくりと立ち上がり、近くの椅子へ腰を下ろした。
「あ、申し遅れました」
少し落ち着いてから、男は私たちへ頭を下げた。
「僕は、冴島克也といいます。あの誘拐事件の時、連れ去られた子どもです。あの……あなた方は?」
「俺たちは、ただ、この図書館へ調べ物をしに来ただけだ。名乗るほどの者ではない」
確かに、そのとおりではある。
だが、なぜだろう。
素戔嗚は、この男を警戒しているように見えた。
「……そうですか」
冴島は、女が立っていた場所へ目をやった。
「彼女は、食事へ誘う以外に、何か言っていましたか? 消えたということは、成仏したのかな……」
「あ、あの!」
私は、彼女は死んでいないと伝えようとした。
だが、その先の言葉を、素戔嗚が遮った。
「飯を食いに行こうと、それだけだ。安心したか、小僧」
「ははは。小僧は酷いな。僕はこれでも、君より随分年上だよ」
冴島は、力なく笑った。
「まあ、いいか。僕は、これで失礼します」
椅子から立ち上がると、片手を上着のポケットへ入れたまま、立ち去ろうとする。
その背中へ、素戔嗚が声をかけた。
「おい、お前」
冴島が足を止めた。
「そのポケットに、何を入れている?」




