第十九章
翌日の昼間、私と素戔嗚は、佑の勧めで図書館という場所へ来ていた。
今朝、佑は言った。
「つくよみさんと、すさのおさんは、としょかんにいったらいいよ」
話し方が突然変わった我が子を見て、神田が何とも言えない顔をしていた。
その理由を知っているのは、私だけだ。
私には、佑の子どもらしい話し方には、かなり無理があるように思えた。
それでも、神田が仕事へ行き、佑が保育園にいる間、私たちは言われたとおり、図書館へ行ってみることにした。
向かう道中、私は今朝の佑について素戔嗚へ尋ねた。
「あはは、なるほど。素戔嗚の助言だったのか」
「何がだよ」
「昨晩、同じ頃に、私とは正反対の助言をしていたわけだ。私は神田さんへ、佑が大人のように話すのは母親を守ろうと強がっているからだと説明した。ところが今朝の佑は、突然あのような話し方になっていた。神田は、相当混乱していたようだ」
「何だよ。俺が悪いのかよ」
「いいえ。素戔嗚は、何も悪いことなどしていませんよ」
「じゃあ、笑うな」
「まあ、彼が秘密にしていることも、いつか神田さんの知るところとなるでしょう。それまでは、そっとしておきましょう」
「まっ、そうだろうな」
そのような話をしているうちに、私たちは図書館へ着いた。
まだ早い時間だからか、中にはあまり人がいない。
図書館での過ごし方については、昨晩、佑から一通り説明を受けている。
いざ、勝負。
私と素戔嗚は、手書きの館内案内図を頼りに、「宗教」と書かれた場所を目指した。
その途中で、素戔嗚が突然声を上げた。
「おい、月読! 見ろ! すげぇ数の本があるぞ!」
あまりの大声に、私は慌てて人差し指を口元へ当てた。
「しっ。素戔嗚、図書館では私語を慎まなくてはなりません。そういう規則です」
「ちっ。分かったよ」
素戔嗚は口を尖らせながらも、声を小さくした。
やがて宗教の棚へ辿り着き、私は一冊の本を手に取った。
『猿でも分かる日本の神話』
「素戔嗚。これは、猿のために書かれた書物なのか?」
別の棚を眺めていた素戔嗚が、面倒そうに身体を起こした。
私の持つ本を一瞥する。
「それは、誰にでも分かるくらい簡単だって意味だよ」
「なぜ猿なのだ?」
「人間が勝手に、生き物へ優劣をつけているからだ。そういう表現をする奴がいるんだよ。最近は、あまり聞かなくなったけどな」
「侮蔑的な表現ということか……」
「猿は人間の文字なんか知らねぇからな。これを見たって、自分が馬鹿にされたとは思わねぇよ。奴らにとっては、そんなこと、どうでもいいんだ」
素戔嗚は、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「まったく。人間は自分たちが生物の頂点にいると思っているのかもしれねぇが、ほかの生き物からすれば迷惑な話だ。好き放題やって、神々を怒らせることにかけては天才だからな」
「そうか。八百万の神々は、人間に怒っているのか……」
私はその本を持ち、近くにあった椅子へ腰を下ろした。
しばらくして、本を読み終えた私は、素戔嗚の姿を捜した。
素戔嗚は少し離れた場所で、写真が多く載っている本を、ぺらり、ぺらりと捲っていた。
時折、ごくりと喉を鳴らしている。
「素戔嗚。少しよいか?」
「んあ? 何だ?」
「素戔嗚は、イザナミに会うため、黄泉へ来ようとしたのか? 別れを告げるため天照に会いに行き、そこで大暴れをしたと書かれているのだが……」
「……また、その話かよ」
「猿でも分かる書物に、そう書いてあった」
「あのなぁ。佑にも言ったが、俺は天照のところへ行った。だが、大事ないから帰れと言われて、普通に帰ってきたんだ」
素戔嗚は、うんざりした顔で答えた。
「ついでに言えば、八岐大蛇の首も斬っていない。櫛名田比売と出会ったのは本当だ」
「なぜ怒っている?」
「怒ってねぇよ。それより、ほかに何が知りたいんだ? 俺は今、このうまそうな食べ物の本を読みたいんだよ」
「ああ、そうか。邪魔をしてすまなかった。その本を読み終えるまで待つので、遠慮せず読んでくれ」
「ちっ。いいよ。先に話を聞いてやるから、そんなしょぼくれるな」
「しょぼくれてなど……」
「いいから、早く話せ」
「では、遠慮なく」
私は、先ほど読んだ本を開いた。
「まず、素戔嗚と天照についての記載は、そこそこある。だが、私については、ほとんど何も書かれていない」
「それが不満なのか?」
「まあ、それはよいのだ」
「よくねぇ顔してるけどな」
「それよりも、ここに記された天照の行いが、ところどころおかしい」
「どこが?」
「なぜ天照が、現世を手に入れようとするのだ? その頃にはすでに、素戔嗚の子孫である大国主が、国を治めていたのであろう?」
「ああ」
「私の知る天照は、そのようなことを考える神ではない。それに、素戔嗚の大暴れに嫌気が差して、岩戸へ隠れたという話も……。おかしなことばかり書かれている」
「欲しくなったんだろ」
「天照が、現世を?」
「天照大神様だぞ。ここでは最高神なんて呼ばれているらしいしな。その最高神様が、現世を欲しがった」
素戔嗚は、手にしていた本を閉じた。
「それで、高天原の連中が異を唱えた。俺はそんなこととは知らず、のこのこと高天原まで、天照を助けに行ったわけだ」
「どういうことだ? もう少し詳しく話してくれ」
「あの日はよ、特にやることもなく――いや、違う。目の前にある島国を見ながら、考え事をしていたんだ」
「暇だったのだな」
「忙しかった! ただ、少し考え事をしていただけだ!」
「うん」
「そこへ壱が、血相を変えて飛んできた。『高天原で異変が起きている。天照大神に危険が迫っている』ってな」
「壱とは誰だ?」
「烏だよ」
「烏?」
「俺へ、この世界で起きているさまざまなことを報告する使いだ。俺は千里眼を持っているわけじゃねぇ。広い範囲の情報を集めるには、使いが必要だろ?」
「なるほど」
「壱というのは愛称だ。全国津々浦々、どこにでもいる烏たちが、見たことや聞いたことを、逐一報告してくれる。俺はその話を聞いて、必要があれば分御霊を飛ばすんだ」
「それは便利だな」
「そうだろう?」
素戔嗚は、少し得意そうに胸を張った。
「それで昔、壱が、高天原で大変なことが起きていると仲間から聞き、俺へ知らせに来たんだ。天照大神に何かあれば、この世は混沌へ堕ちると、うるさくてよ。姉ちゃんが危ねぇというなら助けに行くかと、高天原へ向かった」
「その時、天照には会ったのか?」
「……ん?」
素戔嗚は、首を傾げた。
「どうだったかな。話はしたが……会ったか?」
「覚えていないのか?」
「うーん。姿を直接見たかと言われると、覚えてねぇな」
「だが、話はしたのだな?」
「ああ。『大事ないから帰れ』ってさ。久しぶりに会う弟へ、随分冷たい言い方をするものだと思ったから、それは間違いねぇ」
「……そうか」
「まあ今になって考えれば、天照が高天原の反乱を鎮めた後だったんだろうよ」
素戔嗚は、自嘲するように笑った。
「俺は、自分の子孫が治める国を奪おうとしている者を、助けに行ったわけだ。そして、何も知らずに追い返された。間抜けな話だろ?」
「どうにも納得がいかぬ」
「何がだよ」
「だが、ひとまず整理しよう。素戔嗚は天照に危険が迫っていると聞き、高天原へ向かった。しかし、天照から大事ないと言われ、追い返された」
「ああ」
「そして現世へ戻り、水神とは戦わずに話し合い、櫛名田比売と出会った」
「そう。俺は水神と話し合った。戦ってはいない。櫛名田比売とは、そこで出会い、結ばれた」
「なるほど……。神話とは、事実と虚偽が入り混じった書物ということか」
「人間が語り継いでいるものだからな」
「そうであるならば、この天孫降臨も、虚偽の方だな。うん。なかなか理解が難しい」
「それなんだがよ」
素戔嗚が、気まずそうに頭を掻いた。
「残念ながら、天照の孫である邇邇芸命が、この国へ来たのは事実だ」
「天孫降臨は、本当にあったということか?」
「ああ。『この国を寄越せ』とな」
「大国主は?」
「大国主が退いたと、壱から聞いた」
「素戔嗚。お前は、口を出さなかったのか?」
「……俺は、その時、喪に服していたからな」
素戔嗚の声が、僅かに沈んだ。
「それに、国は大国主が治め、うまくいっていた。その大国主自身が国を譲ることを認めたのであれば、俺が口を出すことではない」
「天照は、イザナギの命に背いたというのか?」
「さあな。俺が天照と直接話をしたのは、先ほど話した時だけだ。大国主も邇邇芸命とは話したが、天照本人には会っていない」
「そうなのか……」
イザナギの禊によって生まれた天照大神が、イザナギの命に背く。
そのようなことが、本当にあるのだろうか。
私が黄泉へ向かうことになった時、天照は私へ告げた。
『先に黄泉を治めるイザナミへ、礼を尽くしなさい』
その天照が、すでに平穏に治められている現世を欲しがるだろうか。
先にその地を治めていた神々を、蔑ろにすることを許すだろうか。
どうにも信じ難い。
だが、私も素戔嗚と同じく、天照について詳しく知っているわけではない。
私の知らない一面があったのだとすれば、あり得る話なのだろうか。
「まあ、何だ」
考え込む私へ、素戔嗚が言った。
「天照が何を思っていようが、邇邇芸命がどれほど気に入らない奴だろうが、奴が降臨し、大国主が国を譲った。それが実際に起きたことだ」
「うん」
「お前がここで、ぐじぐじ考えて何になる。お前は現世へ、何をしに来たんだ? 神話の勉強をするためじゃないだろ?」
「それは、そうなのだが……。気になるではないか」
私は本の頁を捲った。
「つまり現在、この国を治める神は、邇邇芸命なのか?」
「いや。それが、そういうわけでもねぇ」
「違うのか?」
「邇邇芸命は、この地へ来て早々に、やらかしたんだよ」
素戔嗚は、呆れたように話し始めた。
「木花之佐久夜毘売に一目惚れし、妻に欲しいと言った。そこまでは、まだよかった。木花之佐久夜毘売の父である大山津見神は喜び、姉の石長比売と共に、二人を嫁がせた」
「なぜ二人を?」
「大山津見神は山の神だ。あの二人は、二人で一つ。父親にとっては、それが自然な嫁入りだったんだよ」
「だが、邇邇芸命が、やらかした」
「そう。奴は石長比売だけを送り返した」
素戔嗚は、深い溜め息を吐いた。
「大山津見神は静かに怒り、邇邇芸命から先の命へ、短命の定めを与えたとさ」
「それは……」
「しかも、そんな悶着があったにもかかわらず、木花之佐久夜毘売に子ができたと知るや、邇邇芸命は『これほど早く子ができるはずがない。現世の神と通じていたのではないか』と姫を疑った」
「あり得ないな」
「だろ?」
それが事実であるならば、やはり天照が関与しているとは思えなかった。
黄泉へ向かう私に、「先にその地を治めるイザナミへ礼を尽くせ」と告げた天照が、自分の孫による八百万の神々への不敬を、許すだろうか。
「やはり、何かがおかしい……」
「大山津見神からすれば、一応、身内だからな。ほかの神々へさらなる不敬を働く前に、邇邇芸命の首根っこを掴んだようなものだろうよ」
「邇邇芸命と共に降りてきた神々は、何も言わなかったのか?」
「本来なら、そいつらが諫めるべきだった。何も言えなかったのか、言わなかったのか。よほど甘やかされてきたんだろうよ」
「それも、壱から聞いたのか? すごいな、素戔嗚の使いは」
「そうだろう? へへへ」
素戔嗚は嬉しそうに笑った。
『猿でも分かる日本の神話』は、事実がかなり誇張され、意図的な虚偽まで織り交ぜられた御伽話のように思えた。
しかし、この本を読んだことで、現世の人々が神々をどのような存在だと考えているのかは分かった。
それにしても、天照の動向が気になる。
私は再び、本へ目を落とした。
隣では素戔嗚が、食べ物の写真が載った本をぺらぺらと捲っている。
「これ、うまそうだなぁ」
「うん」
「誰か、供えてくれねぇかなぁ」
「うん……」
その時だった。
「ねえ、僕。お腹が空いているの?」
不意に聞こえた声に、私は顔を上げた。
目の前に、一人の女が立っていた。
白い髪をしていたため、一瞬、老婆かと思った。
だが、よく見ると、神田より一回りほど年上に見える程度で、老婆と呼ぶほどの年齢ではない。
酷く痩せた女だった。
その女は、素戔嗚へ向かって話しかけていた。




