第一八章
「ねえ、素戔嗚さんって、あの素戔嗚尊なの?」
「ああ? 『あの素戔嗚尊』って、何だよ?」
月読さんとお母さんが話し合えるように、僕は素戔嗚尊を名乗る少年を、ゲームに誘って隣の部屋へ連れてきた。
見た目は七歳くらい。
口が悪く、態度も大きい。
夕方、電話を受けてから、お母さんの様子がおかしかった。
こっそりスマートフォンの履歴を見たら、千樹警察署から着信があった。
おそらく、先日の傷害事件に関係する話だろう。
不安そうなお母さんの顔が、頭から離れない。
「おい! 『あの素戔嗚尊』って何だよ? ぼうっとしてねぇで答えろ!」
「あ、ああ。ごめん」
僕は気を取り直し、素戔嗚さんを見た。
「素戔嗚さんって、生まれてすぐ海原を治めるよう命じられたのに、何もせず、お母さんのところへ行きたいと泣き続けた、あの素戔嗚尊?」
「お、おい?」
「それから、お母さんに会いに黄泉へ行くと、天照大神へ挨拶するため高天原へ向かい、そこで大暴れしたという、あの素戔嗚尊?」
「何だと?」
「そのせいで天照大神が天岩戸に引き籠もり、世界が闇と混沌に包まれた。その原因を作った――」
「待て、待て、待て! 誰が、どこで暴れたって?」
「素戔嗚尊が、高天原で……」
「してねぇし! 誰が言ってんだよ、そんなこと!」
素戔嗚さんは、本気で腹を立てているようだった。
「確かに俺は高天原へ行った。だが、暴れてなんかいねぇ。挨拶を済ませて、普通に帰ったぜ」
僕から見て、素戔嗚さんは口こそ悪いが、嘘を言うような性格には見えない。
僕の中で彼は、やんちゃな末っ子のような性格に分類されていた。
こういう者は確かに悪さもする。
しかし、やっていないことまでやったと言われれば、本気で腹を立てる。
今の素戔嗚さんは、まさにその状態に見えた。
「僕の通っている保育園に、妖怪や神話が好きな先生がいるんです。時々、いろいろな話を聞かせてくれます」
僕は、テレビゲームの準備をしながら説明した。
「この国では、『古事記』や『日本書紀』という書物に、神様たちの話が残されているんです。ほかにも、偽書とされている書物や、各地に伝わる口伝もあるそうですよ」
「だったら、それは俺じゃねぇ。どこかの誰かが作った話だろ。俺、高天原で暴れてねぇもん」
「まあ、神話ですからね。でも、口が悪いところなんかは、僕の抱いていた印象と同じですよ。子どもの姿をしているとは思いませんでしたけど」
「お前、一言余計なんだよ」
「ちなみに神話では、高天原で暴れた罰として、この国の……どこかは忘れましたが、とにかく地上へ追放されたことになっています」
「随分、適当だな」
「そこで素戔嗚尊は、それはそれは美しい櫛名田比売に出会うんです」
保育園の先生から聞いたのは、八岐大蛇という怪物を素戔嗚尊が退治する話だった。
僕は、高天原から追放された後の物語を続けた。
そして本人に、昔話にはどれほど作り話が混ざっているのか尋ねようと、その顔を見た。
一瞬、目が合った。
素戔嗚さんは、どこか物悲しそうな顔で僕を見ていた。
「どうかしましたか? 僕、何か変なことを言いました?」
「……いや。少し、櫛名田比売のことを思い出した」
素戔嗚さんは、遠くを見るように目を細めた。
「あれは、いい女だった。俺の生涯で最大の功績は、あの女と出会えたことだな」
「櫛名田比売と出会ったのは、本当なんですね」
「ああ」
「では、八岐大蛇は? 本当にいたんですか? 大きかったんですか? 酒を飲ませて、酔ったところで八つの首を斬り落としたというのは?」
僕は、思わず身を乗り出していた。
子どもの姿をした素戔嗚さんが、僅かに身を引く。
「待て、待て。お前、何なんだ? すぐ興奮するなぁ。情緒不安定か?」
「あ……すみません。でも、こんな話、なかなか聞けないじゃないですか。それも、本人から直接」
「本人って。俺は人じゃねぇけどな」
素戔嗚さんは、呆れたように頭を掻いた。
「とりあえず、高天原へ行ったのは本当だが、暴れてはいない。櫛名田比売と出会ったのも本当。ちなみに、俺の一目惚れだ」
「八岐大蛇は?」
「八岐大蛇という怪物は……ああ、あれかな。水神との一件か?」
「水神?」
「そう、水神。佑、お前、神道って知ってるか?」
「知っていますよ。日本人ですから」
「そうか。なら、話は早い」
素戔嗚さんは、ゲームの機械を物珍しそうに触りながら話し始めた。
「土、水、石、木、火。自然界に存在する、あらゆるものに神が宿る。いや、それ自体が神であるという考え方だ」
「はい」
「水には、水を司る神がいる。それが水神だ。確かに、櫛名田比売と出会った頃、水神は酷く荒れていた」
「どのように?」
「土地を水で満たし、人も家も畑も、人間が手を加えたものは、気に入らなければすべて流してしまった」
「流す……洪水?」
「まあ、そのようなものだ。水神は、俺たちのような人の姿をしていない。そうだな……大きな蛇のような姿だった」
「では、やはり八岐大蛇はいたんですね!」
「だから、落ち着けって」
素戔嗚さんは、僕の額を指で軽く押し戻した。
「水神は、話の分かる奴だった。俺が水神と人間たちの間へ入り、話をまとめたんだ。話し合いだ、話し合い。首なんか斬っちゃいねぇよ」
「なぁんだ……」
少しがっかりした。
しかし、すぐに別の疑問が浮かぶ。
「あれ? でも、八岐大蛇を倒した後、その尾から剣が出てきたと伝わっていますよ。その剣は、三種の神器の一つになったはずです。では、剣はどこから?」
「剣? 草薙剣のことか?」
「そうです」
「あれは、水神から譲り受けたものだ。草薙剣のことまで伝わっているのか?」
「はい。素戔嗚尊と八岐大蛇の話は、まるで英雄伝のように語られています」
「英雄伝ねぇ……」
「でも、実際はもっと平和的だったんですね。それにしても、なぜ水神様は、それほど怒っていたんでしょう?」
素戔嗚さんは、水神と直接話をした。
それなら、怒りの理由も知っているはずだ。
「知ってるよ」
「教えてください」
「嫌だね。自分たちで少しは考えろ」
「そんな……」
「俺は優しいから、ヒントだけはやる」
素戔嗚さんは、にやりと笑った。
「いいか。あるべきものは、あるべきところになければならぬ」
「あるべきものは、あるべきところに……」
どういう意味だろう。
僕は、その言葉を頭の中で何度も繰り返した。
川の流れか。
山や森か。
それとも、人間が何かを、本来とは違う場所へ動かしたということだろうか。
僕が考え込んでいると、素戔嗚さんが「それよりも」と言った。
「それより、佑。お前はいくつだ?」
「え? 五歳ですよ」
「五歳……。それにしちゃ、ちと口が達者すぎるな」
素戔嗚さんは、目を細めて僕を見る。
「何だ、お前。前世持ちか?」
僕は、どきりとした。
素戔嗚さんは、僕が前世の記憶を持っていることに気づいたらしい。
月読さんには、すでに話してある。
素戔嗚さんに知られるだけなら、問題はない。
だが、お母さんに知られることだけは避けたかった。
「月読さんから、聞いていないんですか?」
「月読は何も。ただ、世話になっている親子がいるとしか聞いてねぇ。そうか。月読は知っているんだな」
「はい。といっても、月読さんに会うまでは、前世のことを忘れていました」
「ふうん」
「素戔嗚さん。お願いです。お母さんには、このことを内緒にしてください」
「母ちゃんに知られたくねぇのか?」
「はい」
素戔嗚さんが、僕の顔をじっと見つめる。
何を考えているのか分からず、不安になった。
しばらく、沈黙が続く。
「よし。分かった」
やがて素戔嗚さんは、明るい声で言った。
「内緒にしておいてやる。でもよ。お前、その話し方、もう少し子どもらしくできねぇの?」
「そんなに変ですか?」
「『そんなに変ですか?』じゃねぇよ。前世を思い出したからって、五歳までの自分を忘れたわけじゃねぇだろ? それまで自分がどんな話し方をしていたか、よく思い出してみな」
「分かりました……」
素戔嗚さんが、こちらをじっと見ている。
「あ……分かった。頑張る」
「そうそう。今の方が、まだ五歳っぽい」
僕は早速、以前の自分がどのような話し方をしていたのか思い出そうと、頭をフル回転させた。
その間に、ゲームの準備が終わった。
僕が操作を教えると、素戔嗚さんはすぐに夢中になった。
「くそ! やられた!」
「そこに置いたら、もう消せないよ」
「分かってる! というか、落ちてくるのが速すぎんだよ!」
「最初は、もっとゆっくりだったよ」
「難しいんだよ、これ!」
文句を言い続けているが、随分と楽しそうだった。
その横顔を見ながら、僕はふと口にした。
「素戔嗚さん」
「何だよ。今、忙しい」
「僕と、友達になってもらえませんか?」
素戔嗚さんは、テレビ画面から目を離さなかった。
それでも、すぐに答えてくれた。
「お前が俺を友達だと思ったのなら、もう友達だ」
そして、慌ただしく操作しながら叫ぶ。
「だから、ゲームが初めての俺に、少しくらい花を持たせろよ! 佑!」
「分かった。頑張る」
そう答えて、僕は全力でテトリスに集中した。
素戔嗚さんが全敗したことは、言うまでもない。




