第一七章
「それで? この子は、いったいどこの子なんですか? 月読さん!」
夕方、神田の家へ戻ると、玄関を開けた神田が、呆れたような、怒ったような顔で問い詰めてきた。
私の隣には、態度の大きな少年が立っている。
結局、私はあの神社で、ずっと素戔嗚のそばにいた。
言葉は交わさなかった。
ただ、素戔嗚の陰陽の均衡が崩れぬよう、静かに氣を張り続けていた。
ようやく素戔嗚が口を開いた頃には、空が橙色に染まっていた。
「迷惑をかけたな。もう大丈夫だ」
素戔嗚はそう言った。
だが私は、今の素戔嗚を独りにしてはいけないように思った。
それで、半ば強引に連れてきてしまったのだ。
神田の剣幕に問い詰められる私を見て、素戔嗚は、ふんっと鼻を鳴らした。
「おい、女! 俺は歩き疲れた。早く家へ上げて、休ませろ」
「お、おん……女!?」
神田の目が、これ以上ないほど大きく見開かれた。
身体が、わなわなと震えている。
「あ、言い忘れていた」
私は素戔嗚へ顔を向けた。
「素戔嗚。この人間を『女』と呼んではいけない。神田さんと呼ぶのだ」
「何で、この女を『神田さん』と呼んで、俺のことは『素戔嗚』なんだよ!」
「何がだ? 素戔嗚は素戔嗚でよいだろう。以前からそう呼んでいたではないか。何が気に入らないのだ?」
「気に入らねぇに決まってんだろうが! 今度から、俺のことは素戔嗚様と呼べ!」
「意味が分からぬ」
「何でだよ!」
私たちが玄関先で言い争っていると、奥から佑がやってきた。
佑は大人びた表情で一つ溜め息を吐くと、呆気に取られている神田へ言った。
「お母さん。玄関先で騒いでいると、ご近所さんに迷惑だよ。とりあえず、中で話した方がいいと思う」
「そ、そうだね。とりあえず、二人とも中へ入って……」
こうして、私たちは家の中へ入れてもらった。
見た目だけなら、大人二人と子ども二人。
だが実際には、人間の大人が一人、神が二柱、人間の子どもが一人。
それぞれ卓を囲み、向かい合って座った。
「それで?」
神田は、態度の大きな少年を見ながら、改めて私へ尋ねた。
「この子は、誰なんですか?」
「ええと……これは、こう見えて素戔嗚尊なのだ。今は……というか、随分前から、子どもの姿でいるそうだ」
「『これ』とは何だ! お前、失礼だぞ!」
素戔嗚が、ぽかぽかと私の肩を殴ってきた。
見た目は小さな子どもだが、本来の姿は大男である。
そのためだろうか。それなりに痛い。
二柱の神が小競り合いを始めたのを見て、神田は大儀そうに、深い溜め息を吐いた。
「はぁぁぁ……。月読命の次は、素戔嗚尊ですか。明日は、天照大神が少女の姿でやってくるんですか?」
「天照が?」
「来ません! 例え話です!」
「そうか」
「うち、そんなに広くないんですよ。月読さん、道で会ったからって、誰彼構わず連れてこないでくださいよぉ……」
「誰彼構わずとは、失礼だな!」
素戔嗚が、すかさず口を挟んだ。
「久しぶりに会ったんだ。積もる話もあるだろ、普通。神田さんとやらは、随分とけちくさいなぁ。まあ、月読のことも俺のことも知っているのは、少し嬉しいけどな」
素戔嗚が、神田に酷いことを言われたとばかりに文句を並べる。
すると今度は、佑が黙っていなかった。
「素戔嗚さん。いくらあなたでも、お母さんのことをそんなふうに言うなら、追い出しますよ」
「おお? 威勢のいい小僧じゃねぇか。神に喧嘩を売ったら祟られるぞ」
素戔嗚は、佑を睨み返した。
「お前ら人間は、俺のことを傍若無人なマザコンだと思っているんだろう? 言っておくが、違うからな!」
「はっ。実際、違わないでしょう」
「何だと?」
「他人の家へ来て行儀よくするどころか、横柄な態度で家の人へ文句を言っているのですから。傍若無人は間違いありません」
佑も一歩も引かない。
「ここは、あなたの家ではありません。お母さんをけちくさいと言ったことを、謝ってください」
「何だと、小僧! お前、ちびのくせに生意気なんだよ! ませた言葉を使いやがって。インテリ気取りか? ああ?」
「素戔嗚、おやめなさい」
私は、二人の間へ割って入った。
「神田さんは、けちではありません。私にプリンを食べさせてくれました」
「プリン?」
「そのプリンというものは、それはもう甘く、口の中で蕩けて、香りがよくて……食べると幸せな気持ちになる、不思議な食べ物なのです。はぁ……思い出しただけで、うっとりしてしまう」
「はぁ? プリンだと? そんなものは知らん。今は、この小僧の態度が――」
「素戔嗚さん。僕の態度をどうこう言う前に、ご自分の態度を改めたらどうですか?」
「素戔嗚! プリンを知らぬとは! ぜひ食すべきだ!」
「いい加減にしてください!」
突然、神田の怒声が部屋中に響いた。
私たちは一斉に口を閉じた。
その場にいた三人が、揃って「しまった」という顔をする。
「佑!」
「はい!」
神田に名を呼ばれ、佑が背筋を伸ばして返事をした。
「素戔嗚さんに謝りなさい」
「でも――」
「どれほど相手の態度が悪くても、あなたが言ってよい言葉ではありません。佑も、素戔嗚さんへ失礼なことを言いました。謝りなさい」
佑は、まだ何か言いたそうだった。
それでも、納得のいかない顔で頭を下げた。
「……ごめんなさい」
その様子を見ながら、素戔嗚がにやにやと笑っている。
神田は、今度はぴしゃりとその名を呼んだ。
「素戔嗚さん!」
「っ! お、おう」
神田は、素戔嗚をじろりと睨みつけた。
「あなたが本当に素戔嗚尊であるなら、佑よりもずっと長く生きていて、経験も豊富なのですよね?」
「まあ……そうだな」
「それを踏まえて言わせていただきますが、あなたの振る舞いは、とても褒められたものではありません」
神田は、一気にまくし立てた。
「人の家へ来て、世話になる者としての挨拶一つできないのですか? 佑に対しても、売り言葉に買い言葉で喧嘩を売るなんて、大人の――まして神のすることですか!?」
言い終えた神田は、肩で大きく息をしている。
その気迫に押された素戔嗚は、身体を縮めた。
「す、すまなかった……」
「それから、月読さん!」
「はい。私もですか?」
「そうです。あなたもです!」
神田の矛先が、今度は私へ向いた。
「昔馴染みの方と再会して、積もる話があるのは分かります。でも、それならそれで、私に一言あって然るべきではありませんか? いきなり連れてくるのは非常識です!」
「なんと……それは、すまなかった」
「それから、三人の話の中で、月読さんだけ論点がずれています。分からないことへ、無理やり首を突っ込まないでください!」
「……すまなかった」
私が俯くと、佑と素戔嗚が顔を見合わせた。
二人の肩が、小刻みに震えている。
笑っているのか。
どうやら、二人も神田と同じことを思っていたらしい。
「素戔嗚。なぜ笑っているのでしょうか」
「くくくっ。だってなぁ? 小僧」
「ふふふ。はい、おじさん。月読さんの、しょんぼりした顔が面白いですね」
「なぁ? すっかり尻に敷かれて――って、おい! 小僧、こんなぴちぴちの美少年を捕まえて、おじさんはねぇだろ!」
「あなたも、僕を小僧と呼ぶのはやめてください。佑です。名前があるのだから、名前で呼んでください」
佑は、素戔嗚を真っ直ぐに見た。
「そうすれば、美少年かどうかはともかく、僕もあなたを素戔嗚さんと呼びますから」
素戔嗚は、ばつの悪そうな顔で、佑へ身体ごと向き直った。
佑も、真面目な顔で向かい合う。
「佑、悪かった」
素戔嗚が、頭を下げた。
「もう何十年も、人間と気軽に話していなくてな。その……照れくさいというか、少しばかり横柄な態度を取ってしまった。見た目は同じくらいの歳だし、仲よくやろうや」
「ふふ。神様でも、照れることがあるんですね」
佑が笑った。
「いいですよ。僕も、お兄ちゃんができたみたいで嬉しいです」
「おっ、いい奴だな、佑! よし、向こうで俺と遊んでくれ。最近の遊びってやつを教えろ」
「いいよ。お母さん、隣の部屋でゲームをしてもいい? 一時間だけ。ね?」
素戔嗚と佑は、驚くほどの速さで仲直りした。
あまりの展開についていけない神田は、流されるように頷いた。
「う、うん。一時間だけね」
二人は隣の部屋へ向かいかけたが、戸を閉める前に、こちらを振り返った。
「二人とも、僕たちが遊んでいる間に仲直りしてね」
「俺たちが遊んでいる間に、大人同士、きっちり話し合えよ」
素戔嗚はそう言うと、少しだけ真面目な顔になった。
「月読。俺に気を使ってくれるのはありがてぇが、あまり人へ迷惑をかけたくはねぇんだ。だから俺だけ、元の社へ戻ってもいいんだぜ」
言い終えると、二人は隣の部屋へ入り、戸を閉めた。
卓を挟んで向かい合った私は、神田へ何と言えばよいのか分からず、会話の糸口を探していた。
しばらく沈黙が続いた後、神田が顔を少し近づけ、小声で言った。
「あの、月読さん。佑から、何か聞いていませんか?」
「何か、とは?」
「何だか、熱を出した日から口調が変わったんです。まるで大人みたいに難しい言葉を使ったり……。あの子の中に、知らない大人がいるみたいで……」
以前の佑がどのように振る舞っていたのか、私には分からない。
だが、母親である神田がそう言うのなら、明らかな違和感があるのだろう。
それもそのはずだ。
佑は、熱を出した日に前世の記憶を取り戻したと言っていた。
そして神田は、前世では自分の姉だったのだと。
だが佑は、そのことを神田には知られたくないとも言っていた。
「ああ、確かに、あまり子どもらしい話し方ではないかもしれぬが……」
私は必死に考えた。
「お、おそらく、先日の者たちと悶着になった時、自分が幼いから侮られていると感じたのではないか? 母親を守るために、強く振る舞おうとしているのかもしれぬ」
どうだろう。
これで納得してくれるとよいのだが、少し無理がありすぎるだろうか。
私は、神田の反応を待った。
神田は難しい顔のまま、しばらく考え込んでいた。
「……はぁ。まあ、それは後で佑に聞くとして」
完全に納得したわけではなさそうだ。
「結局、月読さんは、あの子を……あ、素戔嗚さんでしたか。彼を、なぜ連れてきたんですか?」
「ああ。素戔嗚は現世の――つまり、この世界にいる神々の一柱だ。私が現世へ来た目的を果たすには、素戔嗚の助けが必要になると思ったのだ」
「……そうですか」
神田は隣の部屋へ目をやった。
「うちは狭いですけど……佑のこともあるし、そういうことなら、しばらくいてもらってもいいですよ」
「本当か!?」
思わず、身を乗り出した。
すると、神田の表情が暗くなった。
やはり、明日には出ていった方がよいのだろうか。
神田の優しさに甘えすぎてしまった。
そう自分を叱咤していると、神田は意外なことを口にした。
「素戔嗚さんも、その……神様なんですよね?」
「ああ」
「もし誰かに襲われたとしても、襲った相手の方が傷つくんですか?」
そう尋ねる神田の口調は、どうにも歯切れが悪かった。
先ほどから何度も、佑のいる部屋の戸を気にしている。
「ああ、そうだが。なぜそのようなことを聞く? 何かあったのか?」
「実は……今日の夕方、山下さんから連絡があって……」
「山下?」
「千樹警察署の刑事さんです。月読さんも、ご存じですよね?」
「ああ! あの若い男か。猿田彦と三人で話をした。その山下から、どのような連絡が?」
「先日の件です。私、男性二人から金を要求されたことで、被害届を出したんです。恐喝になると思って……」
「うん」
「でも、二人とも金を要求したことを否定しているそうです。目撃者はいるけれど、騒ぎの最中だったから証言も食い違っていて……。動画にも、月読さんたちが映っていないでしょう?」
「そう言っていたな」
「今の段階では、あの人たちの身柄を拘束し続けるのは難しいそうです。捜査は続けるけれど、手を怪我した方の男は、もう病院を退院して帰されたと……」
「つまり、あの男は自由に動けるということか?」
「はい」
神田の手が、卓の下で強く握られた。
「山下さんも、本当は私に話すべきではないと思ったそうです。でも、その男が帰る時に、仕返しを仄めかすようなことを口にしたらしくて……。だから、しばらく気をつけてくださいって」
「仕返し?」
「私、もう買い物でも、あの場所には近づきません。でも、もし家を探し出されたらと思うと、怖くて……」
「あの男たちは、自分で我々を攻撃し、自分で傷を負ったのだろう?」
「向こうからすれば、自分があんな目に遭ったのは月読さんたちのせいで、元を辿れば、私と佑のせいだと思っているかもしれません」
神田の声が震え始めた。
「月読さんたちには歯が立たないと分かっているから、あの場にいた私と佑へ矛先を向けるかもしれない。それに、私は被害届も出したし……恨まれているかも……」
「それは逆恨みではないか。神田さんは、何も悪いことをしていない」
「分かっています。でも私、離婚して一人で佑を育てているでしょう? よくないとは分かっているのに、つい悪い方へ考えてしまう癖があるんです。心配性で……」
神田は、両手を強く握りしめた。
「何もなければ、それでいいんです。でも、怖くて」
「神田さん……」
「だから、本当にごめんなさい。利用するようで申し訳ないんですけど……月読さんたちに、一緒にいてもらえるとありがたいです」
神田の表情は、どこまでも硬かった。
本当に不安なのだと、手に取るように分かる。
私が一緒にいるだけで安心できるというのならば、断る理由などなかった。
「もちろんだ。この家に置いてもらう代わりに、私にできることなら、何でも言ってくれ」
神田は、ほっと息を吐いた。
だが、その顔に浮かんだ不安は、まだ消えていない。
ちょうどその時、佑たちが隣の部屋から出てきた。
神田の表情の変化に敏感な佑は、私の顔を見るなり言った。
「また、お母さんをいじめたの?」
素戔嗚が、すぐさま笑いながら口を挟む。
「月読が女をいじめるとか、あるわけねぇだろ」
それを聞いた神田が、ふふっと笑った。
「月読さんと素戔嗚さんには、しばらく、うちにいてもらうことにしました」
「本当?」
「皆さん、仲よくしましょう。特に素戔嗚さん。佑をいじめないでくださいよ!」
素戔嗚は、にやりと笑った。
「佑は俺の友達になった! その俺様が、佑をいじめるなどあり得ない!」




