第一六章
「氣が満たされたようで、よかった」
遠ざかっていく藤田の背を見送りながら、私は言った。
「ふん! あんな無礼な奴、知るか!」
素戔嗚は不貞腐れたまま、機嫌悪そうに言い放った。
「素戔嗚は、そう言いながらも、藤田のことが心配だったのだろう?」
「はっ! あんな奴のことなど知らん。今日会うまで、忘れておったわ!」
「そうか。だが、それでもお前は、藤田の穢れを祓ってやった」
私がそう言うと、素戔嗚はふっと笑った。
そして岩山の裾へ腰を下ろした。
ごつごつとした小さな岩が積み重なる中、その一つへ手を伸ばす。岩肌をゆっくりと撫でながら、素戔嗚は言った。
「俺が気にかけていたのは、死んだ八木の方だよ」
「八木を?」
「あいつ……ここで命を絶ちやがった」
「ああ……そうか。そうだったのか」
素戔嗚は岩を撫でながら、ぽつり、ぽつりと話し始めた。
「八木はさ、俺の遊び相手だったんだ。七つくらいまでなら、俺の姿が見える子どもは結構いる。八木も、その一人でさ」
「そうなのか」
「でも八木は、七つを過ぎても俺の姿が見えていたんだよね。たまにいるんだ。ごく、たまにな」
「お前の友だったのか」
「ははっ。友達なんかじゃねぇよ。俺に友達はいねぇ。俺は独りだ」
素戔嗚は、岩へ視線を落とした。
「だから、いつも一人だった八木とは、馬が合ったのかもしれねぇな」
「なぜ八木は、いつも一人だったのだ?」
「知らねぇよ。あいつは何も言わなかったし、俺も聞かなかったからな。それがよかったんだよ、俺は。あいつがどう思っていたかは、知らねぇけど」
「うん」
そのような関係も、あるのかもしれない。
八木がここへ来た時だけ、何も聞かず、一緒に遊ぶ。
ただ、同じ場所にいる。
素戔嗚には、それが心地よかったのだろう。
八木は、どう思っていたのだろうか。
「あいつが十になる頃、ぱたりと来なくなった。他所の町へでも行ったんだろうと思っていた。初めて会ってから三年も経っていたからな。八木はどんどん背が伸びていくのに、俺は出会った頃のままの姿だった。気味悪がられたのかとも思ったよ」
「寂しかったのか? 八木が来なくなって」
「お前、ぶん殴るぞ」
素戔嗚が、私を睨んだ。
「そんなことには慣れっこだ。何年、神をやっていると思っている。俺は、それくらいで傷ついたりしねぇから」
「そうか」
「あいつが十でここへ来なくなって、それから十年ほど経った頃、突然また現れた。身体はもう、すっかり大人になっていたよ。物を修理する会社へ就職できたって、あの時は笑いながら話してくれたな」
素戔嗚は、懐かしそうに岩を見つめた。
きっと今、笑って報告に来た八木の姿を思い浮かべているのだろう。
素戔嗚の口元にも、僅かな笑みが浮かんでいた。
「うん」
「はぁ……それで、次に会ったのが、あの日だった」
口元の笑みが消えた。
「無精髭を生やして、痩せこけていてさ。最初は、誰なのか分からなかった。あの時には、もう藤田やほかの刑事たちから追われていた。先に俺を見つけたのは、八木の方だった」
「そうなのか」
「そりゃそうさ。俺は背格好も、顔も、着ているものも、あの頃と何一つ変わっていなかったんだからな」
「それで素戔嗚は、人質……いや、神質になったのだね」
「あいつは俺の腕を掴み、この神体を背にして立った。目の前には、藤田と、もう一人か二人、刑事がいたかな」
素戔嗚の手が、岩肌を何度も往復する。
「それから、あいつは俺に言ったんだ」
「何と?」
「『ごめん。最後に君に会いたかった。こうするしか、もう手段がないんだ』とな」
私は何も言えなかった。
「あの時、奴の息から、ほんの僅かだが邪の匂いがした」
「罪を犯した意識から生まれたものだろうか……。私にも、分からないが」
「さあな。それから奴は、俺に尋ねた。『君の力は、今も変わらないのか』ってな。だから俺は、変わらないと答えた」
「力というのは、誰かがお前に危害を加えれば、その者が同じ傷を負うという力か?」
「ああ。昔、あいつがまだ子どもだった頃に、話したことがあったんだ。どれだけ腹を立てても、俺を殴れば、その痛みはお前自身へ返る。だから、俺には危害を加えるなってな。子どもは癇癪を起こすと、訳も分からず暴れることがあるだろ?」
「すまぬ。現世の子どもは佑しか知らない。子どもがそういうものなのか、私にはまだ分からないな」
「ははっ……」
素戔嗚は小さく笑った。
だが、その目は今にも泣き出しそうだった。
「そうしたら、あいつ、何と言ったと思う?」
私は首を横に振った。
『ごめんね。もう、楽になりたい』
「あいつ、俺にそう言いやがった」
素戔嗚の手が、岩の上で止まった。
「『ごめんね』って、何だよ。『楽になりたい』って……。ずっと会いにも来なかったくせに、やっと来たと思ったら、氣枯れ果ててよ。そんなんだから、邪につけ込まれるんだ」
「うん……」
「だから俺は、言ったんだ」
「何と?」
「この俺が、祓ってやると」
素戔嗚は、岩を掴むように指へ力を込めた。
「お前が何をしたかは知らない。だが、お前についている邪を祓うことはできる。だから、やり直せばいい。この俺が、人間ごときに……そこまで言ってやったんだ」
「素戔嗚は、八木に逝ってほしくなかったのだな」
素戔嗚は岩を見つめたまま、黙り込んだ。
静かな時が流れる。
私も何も言わず、次の言葉を待った。
「……でも、あいつは頷かなかった」
長い沈黙の末、素戔嗚が口を開いた。
「代わりに、もう一度、同じ言葉を俺へ聞かせた。そして、奴は死んだ」
岩肌を撫でながら、素戔嗚が小さく呟いた。
「馬鹿な奴だ」
素戔嗚は、八木という友を目の前で失ったのだ。
その心の痛みは、私には察することしかできない。
「八木の人生は、八木のものだ」
素戔嗚は、静かに言った。
「あいつが優しかろうが、真面目だろうが、根暗だろうが、それは他人が勝手に決めたことだ。あいつ自身の言葉でないのなら、他人が語ることじゃない」
「そうだな」
「たとえ藤田が、八木を死なせたのは自分だと思っていても。そんな自分を許したいと思っていたとしても。藤田の都合のよいように、八木の人生を語っていいわけがない」
「そうだな」
「最後の会話は、俺のものだ」
「……そうだな」
今は、何も言うべきではない。
どのような言葉をかけても、素戔嗚の心へ踏み込むことになってしまう。
私はただ、岩肌を撫で続ける素戔嗚の隣で、音もなく時が流れていくのを感じていた。




