第十五章
あの日の少年が、三十年経った今、まったく変わらぬ姿で俺の目の前に立っている。
その隣には、先日、猿田彦と一緒に警察署へ連れてこられた月読までいるではないか。
三十年前のあの日。
八木が倒れ、現場が騒然とする中で、少年は忽然と姿を消した。
現場にいた人間全員から話を聞いたが、結局、少年がどこの誰だったのかは分からないままだった。
八木が少年の首へカッターナイフを突き立てたことは、大勢の人間が目撃している。
だが、首から血を噴いて死んだのは、八木本人だった。
あの不可解な事件は、結局、被疑者の自殺ということで片をつけるしかなかった。
後の捜査で、田端家から盗まれた十万円は、全額、八木の母親が入院していた病院へ支払われていたことが分かった。
八木の母親は前年から入院しており、盗まれた金は、その入院費用として使われていたのだ。
「あの時……あんたは、八木に何と言ったんだ?」
三十年間、ずっと心に引っかかっていた疑問を口にした。
八木がカッターナイフを振り上げる直前。
俺たちには聞こえなかったが、確かにこの少年は、八木へ何かを言っていた。
「八木? ……ああ、あの男か。俺は、本当のことを告げただけだが?」
「だから! 何と言ったんだ! あんたが何かを言った直後に、八木はあんたを殺そうとしたじゃないか!」
少年は面倒そうに溜め息を吐いた。
「……俺は神だ。お前がその刃物で俺を傷つければ、同じ傷がお前の身に返る。この地は俺の神体であり、お前の血で穢せば祟られるぞ――そう告げた」
少年の目が、真っ直ぐに俺を捉える。
「これで満足か?」
「っ……八木は、あんたの言うことを信じたんだな?」
ひゅっと息を呑んだ。
自分の鼓動が、耳のすぐそばで鳴っているように感じた。
俺が知りたかったのは、八木が本当に子どもを殺そうとしたのか、それとも、自分が死ぬと知って刃を振るったのかということだった。
俺が不用意に声をかけたせいで、気の小さな八木は自暴自棄になったのか。
あれは殺人ではなく、自殺だったのか。
目の前の少年なら、その答えを知っている。
そう思うと、鼓動はさらに速くなった。
「……知らん」
「なっ……?」
「知らんと言った」
「だ、だけど、あんたは八木に話したんだろう? あんたへ負わせた傷は、八木自身に返ると……」
「だから、奴が俺の言葉を信じたかどうかなど、俺は知らん」
少年の声には、僅かな苛立ちが混じった。
「だいたい、それを知ったところで何になる? 事実は一つだ。俺が警告した後、八木という男は、子どもの姿をした俺の首へ刃を突き立てた。その結果、奴は死んだ。それだけであろう?」
やはり、俺のせいなのか。
三十年経った今、あの時の少年が目の前に現れたというのに、何も変わらないのか。
いや、そんなはずはない。
八木は、少年の言葉を信じたのだ。
そうに違いない。
「八木という男は、仕事も真面目で、気が弱くて……母親の入院費を払うために、あの家へ盗みに入ったんだ。八木は初犯で、本当はあんなことができるような奴じゃなかった」
言葉が勝手に口から溢れ出した。
「他人の家へ盗みに入ったことを後悔して、自分を許せなくて……それで、あんたの言葉を信じて……」
「お前が、そう思いたいだけであろう?」
「……っ!」
胸の奥を、鋭い刃で貫かれたようだった。
俺が、そう思いたいだけ。
八木があの時、何を考えていたのかなど、本人にしか分からない。
もう三十年も前のことだ。
俺は、自分の失敗を認めたくなかっただけなのだ。
あの日、先輩の指示を無視して八木へ声をかけた。
そのせいで、何の関係もない子どもが人質に取られるという最悪の事態を招いた。
そして八木が死んだことで、追い詰めたのは自分だと、取り返しのつかないことをしたのだと思い知らされた。
それでも心の奥底では、認めることができなかった。
八木は、俺に追い詰められたのではない。
窃盗という罪に耐えられなくなり、自ら死を選んだのだ。
そう思いたかった。
「俺が……やはり、俺のせいなのか……?」
「藤田……大丈夫か? 氣が枯れかけている」
俺たちのやり取りをそばで聞いていた月読が、心配そうに声をかけてきた。
「素戔嗚。何があったのか、私には分からぬが、その辺りでやめてやれ」
大丈夫なわけがない。
三十年間だ。
三十年間、俺は八木の死を引きずって生きてきた。
ようやく、あの時の人ならざる者と再会し、真実を知ることができると思ったのに。
「……八木は、本当はいい奴で……それなのに、俺のせいで……。俺は、あの日から何をしていても、あいつの顔が浮かんできて……」
「戯けが!」
少年の怒声が、境内に響き渡った。
小さな身体から発せられたとは思えぬほど、威厳に満ちた声だった。
空気が震え、俺の心までもが、身体ごと揺さぶられる。
「先ほどから、お前は何を言っている!」
素戔嗚は俺を睨みつけた。
「お前の人生は、お前のものだ。うまくいこうが、いくまいが、お前が背負うものだ。他人のせいにして、何になる!」
「違う。俺のせいで、八木が……」
「八木が刃を振るうと決めたのは、八木自身だ! その結果、奴は死んだ。お前の行いに何の責任もないとは言わん。だが、奴が下した選択まで、お前のものにするな!」
俺は、何も言い返せなかった。
「お前は自分を責めているような顔をして、心の奥では、自分の人生を八木のせいにしているではないか!」
「俺が……八木のせいにしている?」
「そうだ! 自分は八木の死を背負っている。だから苦しむのも仕方がない。前へ進めないのも仕方がない。先ほどから、そう言っているではないか!」
「素戔嗚、少し落ち着け。興奮すると障りが出るぞ」
月読が、素戔嗚を窘めた。
「ちっ。だってよぉ、こいつが、ぐちぐちぐちぐち……」
「それはそれ、これはこれです。素戔嗚は興奮すると陰陽の均衡が保たれません。災いを起こすつもりですか?」
「俺はな、自分が悪い、自分が悪いと言いながら、結局は他人のせいにして、自分自身から目を逸らす奴が嫌いなんだよ」
「あなたの好き嫌いは、ひとまず置いておきましょう。そもそも、人とはそういうものなのでしょう?」
「そんな奴ばかりじゃねぇよ。自分の未熟さを理解して、周りに感謝しながら生きている奴だっている」
「では、藤田にだってできるでしょう。少し、時間が必要なのではありませんか?」
「知らねぇよ。そいつの人生は、そいつのものだ。過去を引きずり続けるか、吹っ切って自分の人生に集中するか。それを決めるのも、そいつだろ」
「まったく……素戔嗚は口が悪い」
「うるせぇ。お前、黄泉から来た客のくせに、態度がでかいんだよ」
「ほう。今度は、矛先を私に変えましたか。ふふ」
「うるせぇ!」
素戔嗚が口を尖らせ、月読へ抗議している。
俺は二人のやり取りを眺めているうちに、思わず噴き出してしまった。
今、神を名乗る者が、俺の目の前に二人いる。
神話の中で読む神々の争いといえば、天地が揺れ、世界中を巻き込むほどの大災害が起きる。それくらい、とにかく規模がでかい。
だが、目の前にいる神は、一人が少年。
もう一人は、長い髪にスウェットの上下。
どう見ても、やんちゃ坊主を叱る若いヤンキーの父親だ。
そんな二人が、俺を立ち直らせるために言い争っている。
(俺は、俺のために生きていけばいい)
不意に、そう思えた。
見た目だけでいえば、この中で一番年上なのは俺だ。
その爺が、一番心が幼いのでは格好がつかない。
これからでいい。
三十年間、俺は自分の過ちや未熟さと向き合わず、誰かのせいにして生きてきた。
だが、それも俺自身が選んだ人生だ。
もう、誰かのせいにはしない。
俺は刑事になりたくて、刑事になった。
俺は、俺なりの正義で人を守りたい。
今も、そう思っている。
目から温かいものが溢れてくるのが分かった。
俺は泣いていることを悟られぬよう俯き、両手で顔を覆った。
だが、肩が勝手に震えてしまう。
「何だ? お前、どうした?」
素戔嗚が気づき、声をかけてきた。
声を出せば、泣いていることがばれてしまう。
いい年をした爺が、小僧とヤンキー父ちゃんの前で泣くなど、あまりにも格好が悪い。
俺は顔を隠したまま、首を横に振ることしかできなかった。
「氣が、ハレたのでしょう」
月読が言った。
その言葉に、また胸が熱くなった。
俺は俺でいい。
いい年をして泣いたって、別にいいではないか。
垂れてきた鼻水を、ずずずっと大袈裟に啜り、俺は顔を上げた。
「人間ってのは、歳を取ると涙もろくなるんだよ。骨も脆くなるけどな……ははは」
二人が黙って俺を見ている。
「まあ、何だ。俺、頑張るわ。残りの人生、そんなに長くねぇかもしれないけど。俺なりに……な」
「おお。いいんじゃねぇの。なあ、月読?」
素戔嗚が月読を見る。
月読は、その綺麗な顔に柔らかな笑みを浮かべ、静かに頷いた。
「何と言うか……感謝する。今日、ここへ来てよかった。ありがとう」
俺は二人へ頭を下げた。
それから御神体の岩山へ向き直り、手を合わせて、もう一度深く頭を下げた。
今日は非番だ。
少し散歩をしてから帰ろう。
家の掃除でもしようか。
そんなことを考えながら、境内を歩き始めた。
だが、鳥居へ辿り着く前に、ふと思い立って二人のもとへ駆け戻った。
名刺を一枚取り出し、月読へ差し出す。
「あの……俺、一応刑事なんで。月読さん、もし何かあったら、そこに書いてある番号へ連絡してください。すぐに駆けつけますから。まあ、神様のあんたには必要ないかもしれないけど」
「ああ、ありがとう」
月読は名刺を受け取り、珍しそうに眺めた。
「私は今、先日あの男たちと揉めていた女……ああ、神田さんの家で世話になっている」
「そうなんですか」
「あの時、私と話をした男……山下といったか? 山下にも、そう伝えておいてほしい。私の連絡先を気にしていたからな」
俺は笑って、「分かりました」と答え、もう一度頭を下げた。
すると、横から素戔嗚が不満そうに口を挟んだ。
「おい! 俺には、その紙をくれないのか? 月読だけか?」
「ははは。あんたには、本当に必要ないでしょうよ。どうしても欲しいっていうなら渡しますけど……」
「いらねぇよ!」
素戔嗚はすっかり拗ねて、そっぽを向いてしまった。
俺は笑いを堪えながら、そんな素戔嗚にも深々と頭を下げた。
今度こそ踵を返し、神社の鳥居まで歩く。
そこで立ち止まり、大きく息を吸い込んだ。
「よし!」
声に出してみると、胸の中に残っていた重いものが、少しだけ軽くなった気がした。
俺は晴れやかな気持ちで、再び自分の人生を歩き始めた。




