第十四章
氷川神社には、出入り口が二か所ある。
捜査員は二手に分かれ、その両方で待機していた。
だが境内には人が多く、八木を見つけ出すことすら困難な状況だった。
先輩刑事が、俺たちへ指示を出した。
「アパートの外にいたお前たちは、八木に顔を見られている可能性がある。外で待機して、八木が出てきたところを取り押さえろ。正面にいた俺と藤田は、まだ顔を見られていない。祭りの客を装って中へ入る」
先輩は、俺の顔を真っ直ぐに見た。
「いいか、藤田。中で八木を見つけても、すぐに声をかけるな。絶対だ。人が多すぎる」
俺は頷き、人混みの中へ入っていった。
八木を捜しながら、俺は思っていた。
人が多かろうが、八木は所詮、ただのこそ泥ではないか。
何を、そんなに神経質になる必要がある。
さっさと見つけて取り押さえてしまえば、事件は解決する。
盗まれた金は、もう戻ってこないかもしれない。
それでも、犯人は逮捕できる。
そして俺は、手柄が欲しかった。
「絶対に、俺が捕まえてやる……」
人混みの中を進む。
すれ違う人々は、屋台で買った食べ物を頬張り、楽しそうに笑っていた。
普段は神社へ参拝などしない者たちも、祭りの日ばかりは仲間と集まり、声を上げて楽しんでいる。
その中で、視界の端に、一際暗い表情をした男の顔が映った。
周囲をきょろきょろと見回し、何かを警戒している。
(間違いない。八木だ!)
俺は先輩へ知らせることもなく、八木へ近づいた。
手の届く距離まで迫ると、何も言わず、その腕を掴んだ。
驚いた八木が、激しく暴れる。
掴んでいた腕を振りほどかれた。
俺は、もう一度取り押さえようと飛びかかった。
「八木! 大人しくしろ! もう逃げられないぞ!」
俺の声で、周囲にいた人々が振り返った。
八木は暴れながら俺の腕をすり抜け、境内に祀られている岩山へ向かって走った。
その途中で、近くにいた少年の腕を掴む。
小さな身体を無理やり抱え込むと、ポケットからカッターナイフを取り出し、その刃を少年の首へ突きつけた。
「来るな! 来たら刺す!」
「きゃあ!」
近くにいた浴衣姿の女たちが、悲鳴を上げた。
無理もない。
少年を人質に取り、その首へ刃物を突きつける男を目の前で見たのだ。
悲鳴を聞いた参拝者たちが一斉にこちらを向き、境内は瞬く間に騒然となった。
逃げようとする者。
何が起きたのか確かめようと、こちらへ集まってくる者。
泣き出す子ども。
あちこちから上がる悲鳴と怒号。
いつの間にか俺のそばまで来ていた先輩刑事が、八木から目を離さぬまま、低い声で言った。
「なぜ、指示に従わなかった」
その顔には、抑えきれない憤りが滲んでいた。
この時になって、俺はようやく、自分の犯した過ちに気がついた。
だが、もう遅い。
最悪の事態を招いてからの気づきなど、何の意味もない。
先輩は八木を刺激しないよう、ゆっくりと、穏やかな声で話しかけた。
「八木さん。まずは、落ち着きましょう。大丈夫ですから」
「来るな!」
「近づきません。ここから話します」
先輩は、両手を八木から見える位置に出した。
「あの家の方が、あなたに感謝していました。自分のような年寄りと話をしてくれて、嬉しかったと。とても親切な人だったと、おっしゃっていましたよ」
八木の顔が、僅かに揺れた。
しかし、周囲の騒ぎは収まらない。
境内では、逃げる者と野次馬とが入り乱れ、時折上がる悲鳴が八木の神経を逆撫でしていた。
先輩は周囲にいた捜査員へ怒鳴った。
「手の空いている奴は、避難誘導しろ! 野次馬を近づけるな!」
俺は、その間も八木から目を離せなかった。
人質になった少年は、泣きも喚きもしていなかった。
八木に抱えられ、首へ刃物を当てられているというのに、表情一つ変えず、ただそこに立っている。
恐怖のあまり、身動きが取れないのだろう。
だが、それでいい。
泣き叫んで八木を刺激するより、ずっといい。
「八木さん。あなたの話を聞かせてください」
先輩は、変わらぬ調子で説得を続けた。
「あなたのように真面目で、親切な方が、なぜこのようなことをしてしまったのか。よほどの事情があったのでしょう? すべて聞きます。ですから、刃物を下ろして、その子を離してください」
だが俺は、少年を解放しようとしない八木に苛立っていた。
「八木! そのカッターナイフを下ろせ! 子どもを解放しろ! 罪を重ねてどうする!」
「藤田、黙れ」
先輩に制止されても、俺は引かなかった。
俺はまだ、挽回できると思っていたのだ。
ここで八木を屈服させ、少年を助けることができれば、自分の失態を帳消しにできる。
「子どもを離せ! 八木!」
「うるさい! お前らに、何が分かる!」
八木が叫んだ。
先輩は俺を片手で制しながら、八木へ呼びかけ続けた。
「ええ。分かりません。だからこそ、あなたの話が聞きたいんです。何があったのか、全部聞きます。ですから――」
その時だった。
少年が、八木を見上げた。
口が動き、一言、二言、何かを告げた。
周囲の騒音に掻き消され、その声は俺たちのところまで届かなかった。
少年が何を言ったのかは分からない。
だが、その直後。
八木の顔が大きく歪んだ。
カッターナイフを握った手を振り上げ、その刃を少年の首を目がけて一気に突き立てた。
辺りに、無数の悲鳴が響いた。
俺は、自分の目を疑った。
刃を突き立てられたはずの少年は、倒れなかった。
その首には、傷一つない。
代わりに、八木の首から大量の血が噴き出した。
鮮血が、少年の顔と身体を赤く染める。
八木は自分の首を押さえ、その場へ崩れ落ちた。
俺たちはすぐに駆け寄った。
先輩が少年を八木から引き離し、俺は倒れた八木の首元を、両手で強く押さえた。
だが、いくら圧迫しても出血は止まらない。
指の間から、温かい血が次々と溢れ出してくる。
「八木! おい、八木!」
何度呼びかけても、返事はなかった。
八木は、そのまま息を引き取った。
俺は血に濡れた両手で八木の首を押さえたまま、少年を振り返った。
少年は泣いていなかった。
八木の返り血を顔に浴びながら、何の感情も見せず、その亡骸を見下ろしている。
そして、一言。
「愚か者め」
少年は、確かにそう言った。
俺は、間違いなくその声を聞いたのだ。




