第十三章
今から三十年前。
俺――藤田寿光は、交番勤務の巡査から念願の刑事になることができ、有頂天になっていた。
学生時代、刑事になりたいと両親へ打ち明けた時には、危険な仕事だからと猛反対された。
それでも俺は諦めなかった。
刑事を目指す以上、危険なことくらい承知の上だ。そう思っていた。
今になってみれば、両親の判断は正しかったのだと思う。
俺は昔から、とにかく調子に乗りやすい性格だった。それも、かなり質が悪い。
一度調子に乗れば自分を過大評価し、相手に対して横柄な態度を取る。相手の神経を逆撫でし、逆上させてしまうまで、自分の愚かさに気づかない。
今なら分かる。
刑事になることを止めようとした両親の気持ちも。
あの時、あいつが死んだのは、俺のせいだったということも。
あの日、刑事課の仕事にも少しずつ慣れてきた俺は、ある空き巣事件の犯人を追っていた。
狙われたのは、築数十年の木造二階建て住宅だった。
傍から見れば、失礼ながら、金を持っているとは思えない老夫婦の家だ。
犯人は一階の窓ガラスを割って鍵を開け、家の中へ侵入した。そして、茶箪笥に入っていた現金十万円を盗んで逃走した。
それだけなら、犯人の特定には時間がかかっただろう。
今のように、町のいたるところへ防犯カメラが設置されている時代ではなかったからだ。
だが、この空き巣の一部始終を目撃していた人物がいた。
この家に住む、田端ミチヨだ。
普段なら田端夫妻は、毎週火曜日のその時間、二人揃って近所のスーパーへ買い物に出かけているはずだった。
その店では火曜日がシニアデーで、普段より安く買い物ができる。
しかし事件の前日、ミチヨは町内会のパークゴルフで、少々張り切りすぎたらしい。腰を痛めてしまい、起き上がるのもやっとの状態だった。
そんな身体で、スーパーを歩き回れるはずもない。
だからといって、シニアデーを諦めたくもない。
そこで仕方なく、買う物を書いた紙を夫に握らせ、一人でスーパーへ行ってもらったのだ。
ミチヨは居間のすぐ隣に布団を敷き、横になっていた。
突然、窓ガラスの割れる音が聞こえた。
驚いてゆっくり身体を起こし、四つん這いで襖へ近づく。ほんの少しだけ開けて覗くと、居間に見知らぬ男の後ろ姿があった。
ミチヨは声を上げなかった。
息を殺し、男が金を盗んで逃げるまで、その犯行をじっと見ていた。
男がミチヨに気づかなかったからよかったものの、もし家中を物色する犯人であれば、居直り強盗に発展していたかもしれない。
後になって、ミチヨは夫からひどく叱られたらしい。
夫の言うことは、まったくもって正しい。
だが当時の俺は、ミチヨが見ていてくれたおかげで犯人がすぐに分かると、内心で感謝したものだった。
男が金を持って逃げた後、ミチヨはすぐに警察へ通報した。
被害者宅へ駆けつけた警察官は、その証言を聞いて驚いた。
逃げた犯人を、ミチヨが知っていたからだ。
田端家は、家だけでなく、そこで使われている物のほとんどが年季の入ったものだった。
家電はもちろん、生活に欠かせない電気、ガス、水道の設備も、老朽化には勝てない。
数か月前には洗面台から水が漏れ、修理業者を呼んでいた。
今回家へ入った男は、その時修理に来た二人の作業員のうちの一人に間違いない。
ミチヨは、そう証言した。
警察官が、なぜそこまで断言できるのかと尋ねると、ミチヨは答えた。
犯人は、修理業者の名と印が背中に大きく書かれた作業着を着たまま、家へ入ってきたというのだ。
俺はその情報を聞いた時、真っ先に思った。
(何て間抜けな奴だ)
それと同時に、別の思いが胸の底から、むくむくと頭をもたげてきた。
こんな間抜けな犯人なら、俺一人でも捕まえられる。
俺が手柄を上げることができる。
それは正義感などではなかった。
ミチヨの証言をもとに捜査が始まった。
修理に訪れた作業員の記録から、ほどなく一人の男が浮かび上がった。
男の名は、八木忠司。
二か月前まで、その修理業者で働いていた。
仕事ぶりは至極真面目だったが、ほかの社員からは孤立していたという。
いや、ただ孤立していたという表現では、正しくないのかもしれない。
八木は、ある特定の同僚から馬鹿にされ、執拗にいじめられていた。
ほかの社員たちは、自分まで巻き込まれることを恐れ、八木から距離を置いた。
結果として、八木は職場で孤立することを余儀なくされていたのだ。
そして二か月ほど前のある日、八木は仕事の途中でどこかへ行ったきり、職場へ戻らなかった。
業者から提供された従業員の顔写真をミチヨに確認してもらうと、彼女は八木を指さした。
家へ侵入した男に間違いない、と。
だが、写真を見つめるミチヨの顔に浮かんだのは、怒りではなかった。
「お金が返ってくれば、それでいいの。この人、とても親切だったのよ。きっと、何か事情があったんだと思うの」
「事情、ですか?」
「修理に来た日もね、私と少し雑談しただけで、一緒に来た人から酷いことを言われていたの。可哀想になっちゃってね。あの人、家主がいないところで言うんだから、本当に意地が悪いわ」
ミチヨは、古い家の中を見回した。
「うちは古いから、戸を閉めていても声が全部筒抜けで、聞こえちゃうのよ。それにね、お金を持っていく時も、この人、封筒を手にして拝んでいたの」
そして、申し訳なさそうに続けた。
「警察を呼んでおいて今さらだけど、ちゃんと話を聞いてあげてほしいわ」
「そうですね。分かりました」
俺は笑顔でそう答えた。
だが、腹の底では別のことを考えていた。
(何かしらの事情があるのは、誰だって同じだ。だからといって、犯罪を犯していいわけがないだろうに)
あの時の俺は、ミチヨの言葉を、甘い老人の戯言としか思っていなかった。
被害者宅を出て署へ戻る途中、一緒に組んでいた先輩刑事が言った。
「藤田、気ぃつけろよ。こういう気の小さい奴が犯人の時は、逮捕する瞬間が一番危ねぇからな」
俺は、先輩の言葉を軽く考えていた。
捜査を進め、八木の逮捕状を取った。
その直後、八木のアパートを張り込んでいた捜査員から、本人が自宅へ戻ったとの連絡が入った。
俺たちはすぐに現場へ向かい、仲間と合流した。
配達員を装って八木の部屋の呼び鈴を押す。
「お届け物です」
中から、声が返ってきた。
「はーい。少し待ってください」
返事はあったものの、なかなか扉が開かない。
その時、建物の外を見張っていた捜査員の怒鳴り声が聞こえた。
「八木! 待て!」
八木は、部屋の窓から逃げ出していた。
ここで逃せば、次に逮捕できる機会がいつ訪れるか分からない。
八木は住宅街の入り組んだ小道を巧みに利用して逃げた。
俺たちは、必死にその背を追った。
「この野郎……大人しく捕まれってんだ。手間かけさせやがって」
だが、八木を見つけることはできなかった。
周辺を捜索し始めて三十分ほど経った頃、先輩から合流するよう指示が入り、俺は指定された場所へ向かった。
合流場所は、大河町にある氷川神社だった。
俺は、その境内を見て言葉を失った。
その日、神社では祭りが開かれていたのだ。
普段は閑散としている境内が、今は大勢の人で埋め尽くされている。
先輩の話では、八木は、この人混みの中へ紛れ込んだという。
「嘘だろ……」




