第十二章
「月読さん、申し訳ないんですけど……。私は仕事で、佑は保育園へ行くので、その間、家を出ていてもらえませんか? その……何というか、一昨日会ったばかりの人を、家に一人で置いていくのは心配で……」
翌朝、慌ただしく出かける支度をしながら、神田が言った。
昨夜、三人で話し合った結果、二人がいない間、私はこの家で留守番をすることになっていた。
だが一晩考え、神田の気持ちは変わったらしい。
そこへ、支度を終えた佑がやってきた。
「何で? おじさんが留守番じゃ駄目なの? 昨日、話したじゃん。こんな何にも分からない人を外へ出す方が危ないよ。帰ってこられなくなっちゃうかもしれないよ」
「う、うん……でも……」
「よい、佑。神田さんの言うことはもっともだ」
私がそう言うと、佑は不満そうに頬を膨らませた。
「私が家で問題を起こさないか気になって、仕事に集中できなくなっても困る。神田さん、私は外にいればよいのだな?」
「ごめんなさいね。佑も、ごめん。昨日の夜、もう一度考えたら、やっぱり何かあったらって思っちゃって……」
神田は、申し訳なさそうに財布を開いた。
「私たちは夕方六時には帰ってくるので、その時間に合わせて戻ってきてもらえると助かります。それと、これ。お昼ご飯代です。このお金で、何かお店で買って食べてください」
そう言って、神田は一枚の紙を私へ差し出した。
昨日、二人から教わった。
これは紙幣といい、欲しいものと交換できるらしい。
お金には紙幣と硬貨があり、さらに紙幣の中にもいくつか種類があって、それぞれ価値が異なる。
「これは、紙幣の中では一番小さい価値のものだな」
昨日の学習の成果を披露するつもりで、私は得意げに言った。
だが、神田は何とも微妙な顔で笑った。
「確かに千円札ですから、正解ですけど……。あまり大きな声で言わない方がいいですよ」
「なぜだ?」
「……もういいです」
理由を尋ねてみたが、神田は答えてくれなかった。
やがて神田と佑の支度が終わり、私たちは一緒に家を出た。
別れる前に、私は自分の髪を一本抜いて、神田へ差し出した。
「私と連絡を取りたくなったら、これを燃やすとよい」
「え……これを?」
「そうだ」
神田は絶妙に嫌そうな顔をした。
それでも私の髪を器用にくるくると巻き、鞄へしまい込んだ。
私は、神田と佑を乗せた車が見えなくなるまで見送った。
夕刻までに何を見るべきか。
まだ行き先も決められぬまま、気の向く方へ歩き始めた。
道ですれ違う人々は皆、一様に氣の抜け落ちたような顔をしていた。
いったい、どこへ向かっているのだろう。
気にはなったが、話しかけることさえ躊躇われるほど、生気のない顔で足早に通り過ぎていく。
「なぜ、皆あれほど無表情なのだ? 足だけが勝手に動いているようで、些か不気味だが……。あちらには、何があるのだろうか?」
すれ違った人々の背を目で追っていると、横から声が飛んできた。
「おい、そこのお前! お前だよ! ここで何をしている!」
「えっ?」
声のした方を振り向く。
そこには石造りの鳥居があり、その向こうには岩山が祀られていた。
声の主は、その岩山の頂に、ちょこんと腰を下ろしている少年だった。
辺りを見回してみたが、私のほかには誰もいない。
どうやら少年は、私に話しかけているらしい。
「こっちへ来い、お前。俺が誰だか分からないのか?」
私は岩山の前まで歩き、少年を見上げた。
しばらく顔を観察してみたが、残念ながら、私の知っている者ではなかった。
「すまぬが、お前ほどの歳の知り合いは、佑しかおらぬ」
「ばぁか。この見た目は、仮のものだ。今は人間からも見えておらぬ」
「そうなのか?」
「お前とは、すぐに別れたからな。覚えていなくとも仕方ない。だが、お前は黄泉にいるはずだろう? なぜ現世にいる?」
「お前は誰だ? なぜ、そのことを知っている?」
少年は岩山から、ふわりと地上へ降り立った。
そして私を見上げる。
「久しぶりだな、月読。俺は素戔嗚だ」
「えっ! お前、素戔嗚なのか!?」
私は、思わず大きな声を上げた。
「随分と小さいな。なぜ、そのような姿をしている?」
「言っただろう? この姿は仮だと。この方が楽なんだよ。小回りが利くし、本来の姿では、壊さなくてよいものまで壊してしまうからな。それに、万が一、俺の姿が見える人間に出会っても、これなら隠れやすい」
「なぜ隠れるのだ?」
「面倒だからだよ」
「なぜ面倒なのだ?」
「いろいろと言ってくる奴がいるの!」
「なぜ、いろいろと言ってくるのだ?」
「知らねぇよ! 何だよ、お前! 何故何故マンかよ!」
「何故何故マンとは何だ?」
「うるせぇぇえ! 俺にばかり質問するな! 俺の質問には答えてねぇくせに!」
素戔嗚が、小さな身体で大きく吠えた。
そこで私は、まだ彼の質問に答えていなかったことに気づいた。
「そうだったな。すまぬ。こちらへ来てから分からぬことばかりで、つい」
「それで? なぜ、お前が現世にいる?」
「今、黄泉が異常な事態に陥っているのだ。魂が一向に減らぬ。このままでは、いずれ黄泉が魂で溢れてしまう。その原因が現世にあるのではないかと思い、確かめに来たのだが……」
「ほう。なるほどな……そういうことか」
素戔嗚は、何やら一人で納得したように頷いた。
「ははは。お前といい、天照といい。今、現世へ来るのが流行っているのか?」
「どういうことだ?」
不意に天照の名が出たことに驚き、素戔嗚へ聞き返す。
だが素戔嗚は、いかにも面倒そうな顔をした。
「知らね。俺が現世を大国主へ託した後のことだもんよ。隠居した俺のところには、八百万の神々の噂話くらいしか流れてこねぇ」
「現世を統べるようにと、イザナギから言われたのではなかったか?」
「俺が言われたのは、海原を治めろってことだ。まあ、ちょっとしたことがあって、降り立ったのがこの地だった。それだけだ」
「だが、イザナギの命だぞ。お前――」
「いいの、いいの。それより、人が来た。黙っていた方がいいぞ」
「なぜだ?」
「俺は人間には見えていない。お前は今、岩山に向かって一人で話し続ける不審者にしか見えん」
私は慌てて口を閉じた。
素戔嗚の視線を追う。
鳥居をくぐり、境内を真っ直ぐ歩いてくる男がいた。
背中を丸め、生気のない顔をしている。
背広はくたびれ、皺だらけだった。
参拝者なのだろうが、仕事へ向かう前にしては、あまりにも氣枯れている。
素戔嗚は男から目を離さぬまま、低い声で言った。
「あれは、線路沿いにある千樹警察署の刑事だ。確か、名前は藤田といったかな」
「千樹警察署……藤田……?」
素戔嗚の口から出た言葉の中に、私の知っている場所の名があった。
つい先日、私が連れていかれた、あの大きな城だ。
だが、この男の姿に見覚えはない。
男は賽銭箱へ賽銭を投げ入れ、手を合わせた。
拝み終えると、岩山の方へ顔を向ける。
男と目が合った。
その顔が、驚愕に歪んだ。
『なぜ、ここに』
声にはならなかったが、その口は確かに、そう動いた。
どうやら、この男は私を知っているらしい。
男はすぐに表情を取り繕うと、辺りを警戒しながら、ゆっくりと近づいてきた。
「先日は……どうも」
そう言うと、男は何かを探すように、きょろきょろと辺りを見回した。
「今日は、あの……猿田彦さん、でしたかね。彼はいないんですか?」
「ああ! 千樹警察署の藤田!」
ようやく、私は男の容姿と名を一致させた。
「あの山下という男が、名を口にしていた。そうか! 猿田彦と話をした藤田とは、お前のことか。猿田彦から聞いたぞ。左手は大事ないか?」
私が突然大声を出したせいか、藤田はびくりと身体を強張らせ、左手を庇うように押さえた。
この怯えよう。
猿田彦は、よほどの恐怖を与えたらしい。
その時、藤田が「ひっ」と短い悲鳴を上げた。
何事かと思い、声をかけようとしたのと同時に、隣で素戔嗚が言った。
「久しぶりだなぁ、お前。月読と猿田彦を知っているのか?」
藤田の目は、人間には見えないはずの素戔嗚を、はっきりと捉えていた。
「素戔嗚。お前は、人間には見えないのではなかったか?」
「いいんだよ。今、見えるようにした」
素戔嗚は、悪戯っぽく笑った。
「俺たちは知り合いだからな。もっとも、あちらにとっては、トラウマだろうけどな」




