青春リストその5『ゼロ距離の共同作業』
本格的な授業が始まった、一時間目の数学。
私は教科書を開きながら、隣の席の湊くんをこっそり窺った。
湊くんは、手元に教科書がないまま、じっと前を見つめている。
どうやら彼の手元には、まだ教材が届いていないらしい。
(――今だわ!)
私は心の中で、春休みに書き上げた『青春リスト』のページを捲った。
『青春リスト・その5:教科書を持っていない男の子に、机を寄せて一緒に見せてあげる』
王道。あまりにも王道。
けれど、ここでガタガタと音を立てて机を動かすのは、授業の邪魔になるし、淑女として美しくない。
私は椅子に座ったまま、右手の指先だけで自分の机の端をしっかりとホールドした。
(お父様との『お遊戯(※指懸垂での断崖登攀訓練)』を思い出して……静かに、スマートに!)
スゥッ。
私は自分の机をわずか数ミリだけ浮かせ、一切の摩擦音を立てることなく、湊くんの机に向けて滑らせた。
――トンッ。
二つの机の境目が、寸分の狂いもなく密着する。
「湊くん。よければ、一緒に見ましょう?」
私は教典の通り、少しだけ身を乗り出して、彼と肩が触れそうな距離まで近づいた。
湊くんは、信じられないものを見たような顔で固まっている。
(ふふっ、急に距離が近くなって驚いちゃったかしら? シャイな湊くん、とっても可愛い!)
……冗談だろ。
俺は、隣に座る不動千鶴の指先に視線を釘付けにしていた。
俺の分の教科書は、部下が手配をミスったのか、まだ届いていない。丸腰でこの場をやり過ごすつもりだったが、隣の化け物が動き出した。
彼女は片手の指先だけで、十数キロはある自分の机を――中身の教材もろとも――文字通り「浮かせた」。
床との摩擦音はゼロ。空気の振動すら感じさせない、完璧な重心制御。
そして次の瞬間、俺の右腕は彼女の体温が伝わるほどの至近距離に『封じられて』いた。
(……この女、片手の指の力だけで、制圧距離に踏み込んできやがった!)
俺は湊会の若頭として、数々の武闘派と対峙してきた。だが、これほどまでの「暴力的なまでの静寂」は初めてだ。
彼女が教科書を覗き込むフリをして身を寄せてくるたび、俺の生存本能が「死ぬぞ」と脳内で警報を鳴らし続けている。
(隙がない……。どこから見ても恋する乙女の構えだが、体幹は微塵も揺れていない。俺がわずかでも不審な動きを見せれば、この近さだ。コンマ一秒で俺の頸動脈を掻き切れる)
冷や汗が止まらない。
ふと視界の端で、教壇に立つ数学教師と目が合った。
先生はチョークを握ったまま、震える指で俺を見て、静かに首を振った。
『湊くん、余計な刺激はしないでくれ……クラス全員の命がかかっているんだ』
という、必死の懇願だった。
クラスメイトたちも、全員が示し合わせたように左側(千鶴の逆方向)を向き、石のように硬直している。
「湊くん? ここ、大事な公式ですよ」
千鶴の指先が、教科書の文字をなぞる。
その細く美しい指先が、俺の袖にわずかに触れた。
「……っ!」
全身に電流が走るような緊張。
対する彼女は、凪いだ海のような、ゾッとするほど穏やかな微笑を浮かべている。
(『逃げ場はない』。そう言いたいのか、不動千鶴……!)
俺は若頭としてのプライドを必死に繋ぎ止めながら、震える声で答えるのが精一杯だった。
「……ああ。そうだな。よく、見えるよ」
この一時間目が終わるまでに、俺の精神が保つかどうか。
俺は、少女漫画のようなキラキラした瞳で見つめてくる「死神」の隣で、ただひたすらに終業のチャイムを待ち続けた。




