表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

5/14

青春リストその5『ゼロ距離の共同作業』

本格的な授業が始まった、一時間目の数学。


 私は教科書を開きながら、隣の席の湊くんをこっそり窺った。


 湊くんは、手元に教科書がないまま、じっと前を見つめている。


 どうやら彼の手元には、まだ教材が届いていないらしい。

(――今だわ!)

 私は心の中で、春休みに書き上げた『青春リスト』のページを捲った。


『青春リスト・その5:教科書を持っていない男の子に、机を寄せて一緒に見せてあげる』


 王道。あまりにも王道。


 けれど、ここでガタガタと音を立てて机を動かすのは、授業の邪魔になるし、淑女として美しくない。

 私は椅子に座ったまま、右手の指先だけで自分の机の端をしっかりとホールドした。


(お父様との『お遊戯(※指懸垂での断崖登攀訓練)』を思い出して……静かに、スマートに!)


 スゥッ。

 私は自分の机をわずか数ミリだけ浮かせ、一切の摩擦音を立てることなく、湊くんの机に向けて滑らせた。


 ――トンッ。

 二つの机の境目が、寸分の狂いもなく密着する。


「湊くん。よければ、一緒に見ましょう?」

 私は教典マンガの通り、少しだけ身を乗り出して、彼と肩が触れそうな距離まで近づいた。


 湊くんは、信じられないものを見たような顔で固まっている。

(ふふっ、急に距離が近くなって驚いちゃったかしら? シャイな湊くん、とっても可愛い!)




 ……冗談だろ。

 俺は、隣に座る不動千鶴の指先に視線を釘付けにしていた。


 俺の分の教科書は、部下が手配をミスったのか、まだ届いていない。丸腰でこの場をやり過ごすつもりだったが、隣の化け物が動き出した。


 彼女は片手の指先だけで、十数キロはある自分の机を――中身の教材もろとも――文字通り「浮かせた」。


 床との摩擦音はゼロ。空気の振動すら感じさせない、完璧な重心制御。


 そして次の瞬間、俺の右腕は彼女の体温が伝わるほどの至近距離に『封じられて』いた。


(……この女、片手の指の力だけで、制圧距離ゼロレンジに踏み込んできやがった!)

 俺は湊会の若頭として、数々の武闘派と対峙してきた。だが、これほどまでの「暴力的なまでの静寂」は初めてだ。


 彼女が教科書を覗き込むフリをして身を寄せてくるたび、俺の生存本能が「死ぬぞ」と脳内で警報を鳴らし続けている。


(隙がない……。どこから見ても恋する乙女の構えだが、体幹は微塵も揺れていない。俺がわずかでも不審な動きを見せれば、この近さだ。コンマ一秒で俺の頸動脈を掻き切れる)


 冷や汗が止まらない。

 ふと視界の端で、教壇に立つ数学教師と目が合った。


 先生はチョークを握ったまま、震える指で俺を見て、静かに首を振った。


『湊くん、余計な刺激はしないでくれ……クラス全員の命がかかっているんだ』

 という、必死の懇願アイコンタクトだった。


 クラスメイトたちも、全員が示し合わせたように左側(千鶴の逆方向)を向き、石のように硬直している。

「湊くん? ここ、大事な公式ですよ」

 千鶴の指先が、教科書の文字をなぞる。


 その細く美しい指先が、俺の袖にわずかに触れた。

「……っ!」

 全身に電流が走るような緊張。


 対する彼女は、凪いだ海のような、ゾッとするほど穏やかな微笑を浮かべている。

(『逃げ場はない』。そう言いたいのか、不動千鶴……!)


 俺は若頭としてのプライドを必死に繋ぎ止めながら、震える声で答えるのが精一杯だった。


「……ああ。そうだな。よく、見えるよ」

 この一時間目が終わるまでに、俺の精神が保つかどうか。


 俺は、少女漫画のようなキラキラした瞳で見つめてくる「死神」の隣で、ただひたすらに終業のチャイムを待ち続けた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ