8 とても恐ろしいお話です
――帝国の建国神話を記した古文書の一節に、悪魔が欲深き人間に与えたと記録されている毒草がある。
その話は、さかのぼること、500年余り前。
この地を人が治めることを嫌った悪魔が、人の悪しき欲望を増幅させ、互いに争わせて自滅させようと用いたのが、クルエドという名の毒草。
クルエドの毒を、なぜかどんな願いも叶える神薬と信じ込んだ人々は、人の姿に身をやつした悪魔のもとへ、それを求めに行った。
その結果、この地は自我を失くし、虚ろな瞳で徘徊する人々で溢れる。幽鬼のようになった彼らは、願いが叶うどころか、悪魔に魂を奪われてしまったのだ。
しかし、すべての民人の魂を食らわんとしていた悪魔の企みはくじかれる。遠い地より旅をしてきた一人の若者が、見事、悪魔をこの地から追放したのだ。
そして若者は、悪魔によってもたらされたクルエドを、人が容易に足を踏み入れることのできない険しい山の山頂に封印した。その後、若者はこの功績を称える人々に請われて、英雄としてこの地の初代皇帝となった――。
「ニリア嬢が侯爵夫人に贈ったという香薬には、クルエドが使われていたよ」
キリアン卿が口にした禁忌の毒の名に、私は息を呑みました。
オルガの店に訪ねてきたキリアン卿は、「話をするのに場所を変えよう」と言い、私たちを自分が乗ってきた馬車に案内したのです。
キリアン卿の真剣な表情に、「大事な話でしょうから、私はここで……」と一人で屋敷に帰ろうとしたら、ルシオンに心配だから自分のそばにいるようにと引き留められました。その言葉にキリアン卿も頷き、成り行きで私も馬車に乗り込んで、ルシオンと並んで座る次第となったのです。
先日の狩猟祭の夜、ハンナさんが捨てようとしていた香薬を譲り受けたルシオンは、あの後キリアン卿に託して、その成分の分析を皇宮の錬金術師や薬師に依頼していました。
「やはり……あの香薬から、ほんのわずかだけれど、クルエド特有のツンとした匂いを感じたんだ」
聞けば、南部のムーランで先ごろ起こった騒動に、このクルエドが使われていたとのことでした。キリアン卿が南部に派遣されることとなったのは、その騒動の原因を突き止めるためだったようです。
でも、このクルエドが毒になることは広く知られていますが、その実、どんな作用のある毒なのかを詳しく知る者は多くありません。
それは、クルエドが自生しているとされているのが、人が分け入ることが難しい、山奥とされているからです。しかも伝承では、その種は芽を出すまでに数年を要し、その芽が地表に姿を現すと、今度は七日ほどで急速に成長して小さな蕾をつけ、その花は咲いて数時間で萎むとされています。そのうえ萎んだ花は、種を一つ地面に落とすと、たちまち跡形もなく朽ちてしまうとも。
要するに、実際にクルエドをその目で見た者は、この数百年で数えるほどしかおらず、ハンナさんのような薬師の家系の生まれでもない限り、普通は過去の記録で知るのみなのです。もちろん私にも、建国神話に出てくる毒草くらいの知識しかありません。
「もし、ハンナさんが気づかないまま、あの香薬が天幕の中で焚かれて、侯爵夫人がそれを吸ってしまっていたら、どうなっていたのでしょう?」
ふと呟いた私に、キリアン卿が答えてくれました。
「それですぐに死に至ったりはしないが……あの毒は、死ぬより恐ろしいと言えるものだ」
思考を麻痺させ、自我を崩壊させる強い毒性を持つクルエドは、摂取した人から正常な判断力を奪ってしまうそうです。挙句、その状態で強く暗示をかけてくる人物に、事の善悪を問うことなく闇雲に従ってしまうようになるのだとか。
しかも依存性もあるため、クルエドの摂取と暗示を長期間、継続的に受けた者は、やがて暗示の主の支配に抗えなくなってしまう――つまり、洗脳されてしまうのだと。
「そんな恐ろしいものがあるなんて……」
背筋に冷や水を浴びせられたような気分がします。
「侯爵夫人は救われたな……。しかし、まさかこれが、すでに皇都にまで持ち込まれているとは思わなかったよ……」
キリアン卿とルシオンは、陛下より密命を受けていました。クルエドの供給源を明らかにし、流通を完全に断つようにと。そして南部ムーランでは、クルエドを用いていた者たちの捕縛に成功し、一連の騒動は何とか収めることができたのです。
けれど、肝心の供給源――捕縛された者たちの証言に基づいて、彼らにその毒を渡した者を突き止めようとしたものの、なぜかその者の名も姿も覚えている者が一人もいなかった、だなんて!
「最初は当然、奴らが口裏を合わせてしらを切っているだろうと思ったよ、だが、自白剤を限界まで使っても、遂に吐かせることができなかったんだ。それどころか、奴らを収監していた牢の中で深夜に火事が起こり、皆焼け死んでしまったんだ――というか、奴らの体が一瞬にして炎に包まれてしまったらしい」
火の気のないはずの牢内に、突如上がった炎。その炎は罪人の体から湧きあがったようにも見えたと、その時、現場を目撃した牢番の兵士たちが口々にそう訴えたそうです。
「本当ですか? 人間の体から、炎が出たというのですか?」
驚きのあまり尋ねた私に、今度はルシオンが答えてくれます。
「そういうことらしい。とはいえ、そんなことはあり得ないだろう? 神話の悪魔の話でもあるまいに」
「そうだ。悪魔だなんて今時、信じる奴なんていない」
キリアン卿がこくこくと首を大きく縦に振ります。これには私も同感です。
確かに、建国神話の中には、悪魔に魂を奪われた人は、その体が黒い炎に包まれて焼き尽くされると記されています。でも、それは古いお伽話です。この百年余りにおける錬金術の研究と発展のおかげで、世の中の大部分のことが説明がつくようになっています。ですから今、悪魔などという存在を信じる人は、ごくわずかしかいないでしょう。
ここで私ははっとしました。
「あの……このお話は、騎士団とは無関係の私などが聞いてはいけないものなのではないでしょうか……?」
すると、キリアン卿は意外にも、なぜか笑顔で首を振りました……少しおかしな予感がします。
「いいや、実は無関係ではなくてね……この件、ビオレッタ嬢にも少し協力してもらえないかと思っているんだ」
えっ? と目を丸くした私の隣で、ルシオンが盛大に舌打ちしました。
「副団長、それについて俺は反対しましたよね? ビオを巻き込まないでほしいと」
「うーん、だがね、ビオレッタ嬢ほど適任はいないんだから仕方ないよね? それに、腕のたつルシオン卿がぴったりと護衛につくわけだから、問題ないだろう?」
「いや、それにしても……」
私についての話らしいのですが、肝心の私にその話が全く見えません。
「あの……まずは私がどう協力すればいいのか、教えていただけませんか? 協力するかしないかは、それをお聞きした後で自分で決めたいです」
「そうだよね。じゃあ、ビオレッタ嬢がそう言ってくれていることだし……いいね、ルシオン?」
ルシオンは、苦虫を噛み潰したような表情で、上官の命令に渋々というように口を閉ざした。
そして、しばしキリアン卿の話を聞いた私は――。




