6 怪しい気配が漂います
侯爵夫人の言葉で、狩猟祭を追い出されるようにして出てきたニリアは、一緒に侯爵邸に帰ろうと言ったエドガーに一人で行くところがあると告げた。
「どこに行くんだ? 行くなら僕もついていく」
あの場所へエドガーを連れていくのはまずい。
ニリアがあんなところへ出入りしているのを知られれば、厄介なことになる。
「駄目なの。私だけで行かないといけなくて……お父様から今日中に済ますように言いつけられていた用事を思い出したの。うちの家門に関わることだから、必ず私一人で行けって、お父様がね」
「そうか……男爵家に関わることなら、今はまだ僕が出て行くのはよくないか……」
「そうなの。では急ぐから、またね!」
しつこいエドガーを振り切って、ニリアは馬車に乗り込んだ。
御者に行く先を告げると、ギリッと爪を噛む。
「まったく、あの生意気な使用人のおかげで計画が台無し! せっかく大枚はたいて用意したのに、勝手に捨てるなんて、ふざけるなって!」
あの使用人の女だけじゃない。ビオレッタにも、侯爵夫人にも腹が立って仕方がない。そして夫人に逆らえない、エドガーにも。
何かに当たり散らしたい気分をぐっと堪えながら、ニリアは目的の場所に到着するのを待った。
やがて馬車は皇都のはずれの寂れたエリアに差し掛かり、まもなく御者が目的地に着いたことを知らせる。
ニリアは、頭からすっぽりと黒いベールをかぶり、馬車から降りた。辺りに立ち込めるすえた臭いに辟易しながら、鼻と口を手のひらで覆い、薄暗い路地を進む。
そして何の看板も掲げられていない建物の前で立ち止まると、その扉を乱暴に押し開けた。
「ん? またお嬢様か。今日は何の用で?」
奥のテーブルに座っていた若い男が、にやりとしながらニリアに尋ねる。
すらりと立ち上がった男の容姿は、憎らしくなるほど美しい。社交界に出てきたら、老若男女を問わず誰もが目を奪われるであろうほど。
艶やかな長い黒髪を背中で束ねた男は、その赤い瞳と相まって禍々しいほどの妖艶さだ。人ではないと言われたほうが頷ける。
「ちょっと! あの香薬、使用人にすぐに見破られたんだけど! 法外な代金を取ったくせに、どうしてくれるのよ。私の払った金貨を返すか、別のものを用意してよ」
「ふうん……それは災難だったなあ」
ニリアの浴びせた罵声に動じることなく、男は冷たい目で薄く笑う。
「それは私のせいではないよな? お前が間抜けな手を使ったからだろ?」
「そんなことはないわよ。私はあんたが言う通りにしただけなんだから。あんたのせい!」
「でも、失敗したんだろ? 自分の失敗を他人のせいにするのはどうかと思うがね。いや……お前のそういう救いようのないところがほんと、私には理想的だがね」
「何、訳の分からないことを言ってんのよ! 聞いたことだけに答えてよ」
「あー、こっちの話だ。お前は知らなくていい」
くくくっ、と小馬鹿にするように含み笑いされて、ニリアの頭の血がのぼる。ニリアは近くにあった花瓶を掴むと、思い切り男に向かって投げつけた。
だが男はひょいと、容易く避ける。花瓶は壁に当たって砕け散り、割れた破片が男の頬をかすった。男の頬に一筋、うっすらと赤い血の筋が走る。
「おっと……乱暴はやめてくれませんかね? 実は私もそんなに忍耐強くないんだよな」
「はあ? あんたが悪いからでしょ?」
頬に滲んだ血を男は指で拭うと、その血の付いた指をぺろりと舐める。すると、男の頬の傷が見る間に塞がっていく。
同時に、床に散らばっていた花瓶の欠片が一斉に、するりと宙に浮かんだ。それはたちまち元の形を成すと、近くのテーブルの上に鎮座した。
その様子に、ニリアが咄嗟に後退る。それを見て、男はまた歪んだ笑みを浮かべた。
「用がないなら、帰れ。だがそろそろ、ご愛用のアレがなくなる頃じゃないのか?」
◆◆◆
すっかり日が落ちて、空には満天の星が輝いています。
私たちが野外パーティーの会場に着いた時には、篝火が照らす中、すでに祭壇の前に数人の神官が並び、獲物を神に捧げる儀式が始まっていました。神聖な儀式の神々しさに、息を呑んで見守らずにはいられません。
中でも特に、神官たちと並んで祈りを捧げるクリスティア皇女殿下の凛としたお姿には、畏敬の念さえ感じます。
私より二つ年上の殿下は、幼少時よりとても聡明なことで知られ、帝国民の信頼と尊敬を集めています。常に皇族としての矜持とお役目を忘れず、厳しくご自身を律している方だと、殿下も列席された貴族会議から戻るたびにお父様は感嘆の言葉を漏らしていました。
先に着いていたキリアン卿が私たちに気づき、手招きしてくれます。
「ルシオン、遅かったじゃないか」
「いえ……実はお見せしたいものがありまして」
ルシオンがさっきハンナさんから譲り受けた小箱をキリアン卿に手渡しました。
「これは?」
「例のものと似ているように思うので。調べたほうがいいかと」
声を落としたルシオンに、一瞬にしてキリアン卿の表情が曇ります。
「なるほど……わかった。では、私はこれの分析を頼んでくる」
無言で頷いたルシオンと私に向かって、キリアン卿はまた笑顔を見せました。
「では、君たちはどうぞ楽しんで」
小箱を手にしたキリアン卿が去ると間もなく、神官による儀式の完了が告げられました。
堅苦しい神事の後は、一転して雰囲気が変わり、恒例の華やかなパーティーが始まります。
控えていた楽団がダンス曲を奏で始めると、待ちわびていた人々がそれぞれのパートナーと手を取り合い、次々と中央に進み出てきました。
フロレンスとナタリアも、その婚約者と共に姿を見せます。
「ビオレッタもせっかくパートナーがいるんだから、踊りましょうよ。楽しまないと」
「そうよ、ビオレッタもルシオン卿も楽しまないと」
「あ……ええと、そうよね……」
フロレンスとナタリアに背中を押されたので、ルシオンをちらりと見てみます。
「あの、ルシオン……」
ルシオンは、ひょいと私の手を取りました。洗練された騎士らしい仕草に、思わず不意を突かれてどきりとしました。
「ビオレッタ嬢、私と踊っていただけませんか?」
「あ……はい、お願いします」
ルシオンと踊っていると、自分の体が羽のように軽やかになった気がしました。それはルシオンの身のこなしが軽やかで、私をこれ以上ないほどうまくリードしてくれるからです。
いつの間にか、彼は立派な騎士になっていたのがわかりました。
子供の頃のルシオンからは想像もできませんでしたが、この数年がルシオンを変えたのでしょう。
まあ、私にもいろいろありましたから、お互い様というところですね。
日々の鍛錬で鍛えあげられた体躯は、ダンスの軸を崩すことなく私を軽々とリフトし、優雅に回転させて下ろしてくれます。
こんなに楽しいダンスを踊ったことがあったでしょうか……?
やがて曲が終わると、それが無性に残念に思えてしまいました。
「ありがとう……とても楽しかったわ」
「なら、もう一曲、踊らないか?」
また、ルシオンの悪戯っぽい笑顔。
でも、二曲以上を続けて踊るのは、夫婦か婚約者でなければならないのが暗黙のルールです。
「それは駄目でしょ? 私たち、婚約者でもないのに。おかしな噂をされたら、ルシが困るでしょう?」
「そんなこと、俺は構わないけどね……だったら、そういう関係になればいいだけだろ?」
「ふふ……それは今の私には、笑えない冗談ですね。私は婚約破棄されたばかりなんですから」
ちょうど新しい曲が奏で始められます。
「俺は……」
何かぼそっとルシオンが呟きました。でも、その言葉が聞き取れなくて、「ん? 何でしょう?」と聞き返してみます。
けれど「何でもないよ」と濁されてしまいました。
ルシオンは再び私の手を取り、曲に合わせて平然とステップを踏み始めます。
「ほら、もう曲も始まってしまったし、逃げるほうが悪目立ちするぞ」
確かにその通りです。それに、なぜか心の奥の私が言うのです。
(この手を放したくない)
そんな思いのほうが勝って、私も何食わぬ顔をして、ルシオンの流れるようなステップに合わせました。
その日の野外パーティーでは、久しぶりに心からダンスを楽しみ、心の底から笑うことができたのです。
◆◆◆
翌日。
心地いい疲れのおかげで、ぐっすりと眠っていた私は、いつもより少し遅い時間に目覚めました。
日はすでに高く昇り、レースのカーテン越しでも日差しが眩しくてたまりません。
昨日から続く気分の良さに、もう少しまどろんでいたいと思っていたのですが、ドアがノックされました。




