5 空も心も晴れました
突然現れたのは、カルマン侯爵夫人。その言葉に、集まっていた人々がぱらぱらと姿を消していきます。
「あなたたち、何をしているの? エドガー、これはどういうこと? あら、ビオレッタさんもどうされたの?」
侯爵夫人に名を呼ばれ、私は立ち上がってカーテシーしました。夫人は私の隣にいるハンナさんに気づくと、その腫れた頬と血のにじんだ口元を凝視します。
「ハンナ、言いなさい、誰があなたにそんなことをしたの? 私の侍女に手を出すなんて、誰かしら?」
「奥様、それは……」
ハンナさんは侯爵夫人の登場にほっとしたのか、両目に涙をためています。そしてエドガー様の背中に隠れたニリア嬢に視線をやりました。
「母上、ニリアはその使用人が無礼を働いたから、罰したのですよ」
「エドガー、黙りなさい。いい? 私の使用人を罰することができるのは、主人である私ですのよ」
夫人の有無を言わせぬ強い口調に、エドガー様は黙り込みました。エドガー様は、夫人に弱いのです。
事の次第を察した夫人は、素知らぬ素振りを決め込んでいるニリア嬢をひと睨みすると、周囲に聞こえるほどの大きなため息をつきました。
「エドガー、今日は邸に帰りなさい。公の場でつまらない騒ぎを起こした罰です。皇都中の貴族が集まる場で、なんて浅ましいことですか。ここに留まっていては、恥の上塗りをするだけですよ」
「母上! どうして僕が……!」
「これは命令です。ここを去りなさい、今すぐにね。ああ……あなたの陰に隠れているその娘も、忘れず連れて行ってちょうだい」
夫人の物言いは静かでしたが、大貴族の女主人たる凄みを感じます。その威勢に押し出されるように、エドガー様はニリア嬢の手を引いてその場を去っていきました。
夫人はハンナさんに天幕の中に入るように言うと、私にも謝罪の言葉をくれました。
「ビオレッタさん、愚息がまた大変な失礼をしましたね。ごめんなさいね……。あなた、それを着ているということは、今日は狩りに参加するのでしょう? でしたら早くお行きなさい。ほら、ちょうど――」
「ビオ!」
ルシオンが息を切らせてやって来ました。肩で息をしながら、確認するように私を見ます。
「すまない……君を一人にして。何があった?」
「いいえ、大したことではなかったですから。それよりお仕事の話は済んだの?」
「うん。それより、本当に大丈夫なのか?」
「ええ。早く森に行きましょう。今日は私、あなたのパートナーなんですから」
しきりに私を心配するルシオンに、夫人がくすりとしながら天幕の中に消えていくのが見えました。
◆◆◆
「で、何かあった?」
参加者が集まる森の入り口まで歩きながら、ルシオンは先ほどの件を聞きたがります。そんな彼に、隠しておくのも変だと思い、私が見たことを説明しました。
「あそこにいた侍女が、ニリア嬢が侯爵夫人に贈った香薬を勝手に捨てたと?」
「そうみたい」
「うーん、それなら、せっかく用意したものを勝手に捨てられて、ニリア嬢が怒るのも無理はない気がするけど?」
「本当ならですけど……でも、ハンナさん、気になることを口にしていたの。『奥様のお身体に触るものだから、捨てた』って」
「ふうん……確かにそれは気になるよな。夫人にとって毒になるもの、ってことだよな」
ルシオンが少し考え込むように首を傾げます。
「ハンナさんは、薬草栽培で有名なコルベット領にご実家があるの。だから、薬草にとても詳しくて、侯爵夫人のためによく香薬を調合して焚いていました。そのハンナさんが捨てたと言うんですから、本当によくないものだったんじゃないかと」
「香薬……か」
話しているうちに、人馬が集う一角が見えてきました。皆、そこで狩りの開始の合図を待っているのです。
ルシオンの姿を目ざとく見つけたロンウィ侯爵家の従者が、二頭の馬を引いてきてくれました。
私も彼もそれぞれ馬にまたがると、さほど時を置かずして狩りの開始を知らせる角笛の音が辺りに響きます。
「行くぞ、ビオ! ちゃんとついて来いよ」
「わかっています、大丈夫ですよ。これでも子供の頃、馬に乗れるようになったのは、ルシより私のほうが早かったでしょう?」
「ははは、そうだったな、お転婆なビオだったからな!」
私にとって数年ぶりの狩りは、曇りかけていた気分を驚くほど見事に晴らしてくれました。
森の中をルシオンと共に馬で駆け巡り、全身で風を切る感覚。同じように彼と馬に乗った、子供の頃を思い出します。
胸の内にどっぷりと沈み込んでいた澱が、いつのまにかきれいさっぱりと消し去られていました。
私はずっと、こういうことをするべきだったようです。
女性が馬に乗ったり狩りをしたりすることを、よく思わない男性が少なくありません。エドガー様もその一人でした。
「危ないから」
「君には似合わないから」
やめてくれないかな――そんな彼の言葉に従って、ずっと我慢してきたことに気づいてしまいました。
運命の人という言葉に引きずられて、私もそれにふさわしく、自分を殺してでもエドガー様に好かれるようにしなければいけないと思い込んでいたのかもしれません。
「ビオレッタ、向こうの林に鹿が見えるか?」
ルシオンが指さすほうには、確かに一頭の鹿がいます。頭に立派な角を生やした牡鹿です。
「ええ」と頷いた私に、ルシオンがクロスボウを構えるように促しました。
「俺があの鹿をお前が撃ちやすい位置まで追い込むから、確実に仕留めろよ」
言うやいなや、ルシオンは馬を走らせました。
いつもは鴨を狙っていた私ですから、鹿なんて大物は初めてです。でも、やってみようと思えました。
ルシオンに追われて逃げ出した鹿を、私は目で追います。まもなく射程に入った鹿に向けて、矢を放ちました。
「あっ……!」
矢は急所をそれ、傷を負いながらも鹿は逃げました――と思ったら、鹿がばたりと倒れたのです。
遅れてルシオンの放った矢が、急所に命中したのでした。
「ルシ、さすがね。私の手には余る獲物でした」
「ま、この程度は皇室騎士の基本だよ。鹿も半端に傷を負わせて逃がすのでは、かえって気の毒ともいえるしな」
「そうよね……。私もまた訓練を続けるわ」
「じゃ、今日の獲物はこれでいいだろう。無暗に数を狩る趣味はないから」
この日に狩った獲物は、これから一年の豊穣を祈願して神に捧げるのが習わしです。私たちが神に捧げるのは、この一頭で十分でしょう。
同行してきたロンウィ家の従者に仕留めた鹿を託したルシオンは、狩りの終わりを告げる角笛が聞こえるまで馬を走らせないか、と言いました。
「この森の警備は皇室騎士団の管轄だから、俺は南部に行く前の訓練でさんざんこの森に入っていたんだ。今回の狩猟祭の前にも全域の見回りをしてきたから、案内してやるよ」
皇室所有のこの森に入れるチャンスは、私のような一介の貴族令嬢にはそうそう訪れません。
ルシオンが言うには、この広大な森の中には、水の澄んだ小川も流れていれば、一面に野花の咲き乱れる草原もあり、渡り鳥が舞い降りる美しい湖もあるのだと。
「せっかくの機会だから、お前に見せてやりたい場所がある」
ルシオンが「とっておきの場所だ」と言って連れて行ってくれたのは、森の奥の小高い丘。
丘の麓に馬を止めると、二人で丘の上まで登ります。
「ほら! いい眺めだろう?」
丘の上からは、皇都が一望できました。
晴れわたり、どこまでも青い青い空の下、皇城の雲母交じりの白い城壁が陽光を反射して、眩しいほどに煌めいています。
城下にひしめく邸や、街の通り沿いに隙間なく並んだつましい建物の屋根は生き生きとした色彩を放ち、青一色の空に彩りを添えていました。
「なんて美しい……。こんな眺めを見られるなんて思わなかった」
「そうだろう? だから俺のとっておきの場所なんだ」
ルシオンが得意げに言います。
「ありがとう、ルシ。あなたのとっておきの場所に連れてきてくれて」
「気に入ったなら、連れてきた甲斐があったよ」
「それだけじゃないの。狩猟祭に誘ってくれたことも感謝してます。しばらく忘れてしまっていたことを、思い出せたから」
「へえ。何を思い出したのかは知らないが、よかったよ」
丘を撫でていく風が、どこからか甘い花の匂いを運んできます。
心地いい香りに包まれて、私は瞼を閉じました。
◆◆◆
ルシオンの案内で、夕方まで森の中で過ごした私たちは、角笛の合図に天幕の張られた広場まで戻ってきました。
この後は、狩猟祭の仕上げと言える野外でのパーティーです。
ロンウィ侯爵家の天幕で、一日中駆け回って土埃に塗れた狩猟服を着替えることにした私とルシオンは、その道すがら周囲をきょろきょろと見まわしながら小走りしてきたハンナさんに出会いました。彼女は腕に、何やら布包みを抱えています。
「ハンナさん」
声をかけると、ハンナさんはびくっとして足を止めます。その拍子に、腕に抱えていた布包みを地面に落としてしました。布に包まれていた小箱の蓋が開くと、中から香薬らしきものが辺りに零れ散ります。
「ごめんなさい、突然声をかけて。驚かせてしまいましたね」
慌てて駆け寄り、地面に散らばった香薬を拾い集めようと手を伸ばしました。
「ビオレッタ様、大丈夫です! これは捨てに行こうとしていたものなので……」
「捨ててしまうの?」
「はい……その……実は小侯爵様には内緒ですが」
「あ、もしかして、例のニリア嬢の?」
「さようです……これには幻覚を見せる薬草が使われているんです」
ルシオンは拾い上げたその香薬を鼻に近づけました。途端に表情を険しくします。
「この香薬、捨てるなら、その箱に残ったものごと貰えないか? 少し気になることがあるから」




