4 謝りたくありません
片方の頬が腫れている使用人の顔を見て、私は思わず駆け寄りました。頬を打たれた拍子に切ったのでしょう、唇の端から血が流れています。
「ハンナさんっ!」
ハンナさんはカルマン侯爵夫人の侍女です。婚約者としてエドガー様や侯爵夫妻を訪ねた際に、よく顔を合わせていました。気が利いてそつがないと、侯爵夫人はハンナさんをいたく気に入っていて、重要な役目を任せられていることもありました。
ハンナさんは私にも、侯爵夫人の誕生日の贈り物に悩んでいた時に、夫人の好みを耳打ちしてくれたり、婚約者として出席するパーティーでのカルマン侯爵家の暗黙のドレスコードなどをさりげなく教えたりしてくれたことがある、優秀なだけでなく、とても心優しく親切な方です。
そんなハンナさんがどうして……。
すると、天幕の中から出てきたのは、ニリア嬢でした。彼女は、私を睨みつけるようにして言ったのです。
「なんであなたがここにいるの? ここはエドガー様の侯爵家の天幕なのよ。あなたにはもう、関係ないんだから、そこをどいてくれない?」
「私は偶然、通りかかっただけです。エドガー様は関係ありません」
「へえ……どうでしょうね? エドガー様に捨てられたんじゃなかったかしらねぇ? なのに未練があって、カルマン侯爵家の天幕の周りをうろついていたんじゃないの? まあ、いいわ。その使用人をこっちに寄こしなさいよ。主人の言うことを聞けない使用人は鞭で躾けないといけないんだから」
「どういうことです? 鞭で打つだなんて……。ハンナさんが何をしたっていうんですか?」
「はあ? そいつはねえ、私のやることにケチをつけたの。たかが使用人の分際でよ。これから次期侯爵夫人になる、わ・た・し・に。だったら傷めつけてわからせるしかないでしょ? さあ、どいて」
「いいえ、どきません……。ハンナさんはカルマン侯爵夫人の侍女です。その侯爵夫人の許しも得ずに、ニリア様が勝手に罰していいはずがありません」
「まーったく、うるさいわね。誰の使用人であろうと、私に無礼を働いたんだから、私が罰を与えて当然なのよ」
「いいえ!」
私はハンナさんをかばうように抱きしめました。ハンナさんは体を小さく震わせています。
騒ぎを聞きつけて、いつの間にか周囲に大勢の人が集まって来ていました。
「これは何の騒ぎだ!」
その人垣をかき分けるようにしてやって来たのは、エドガー様。
地面に座り込むようにしている私とハンナさん、そして、それを怒りにまかせて睨みつけているニリア嬢。
しかし、エドガー様の姿を認めるや、ニリア嬢は先ほどの剣幕とは打って変わった甘い声で彼に駆け寄りました。
「エドガー様、ビオレッタ嬢ったら、ひどいんですよ……。この使用人を使って、私に嫌がらせをしたんです」
「なんだって?」
エドガー様が私に射るような目を向けます。
「ニリア様、根も葉もないことを言わないでください。私は偶然、ここを通りかかっただけです」
「そうです……ビオレッタ様とは何の関係もないことです……」
ハンナさんも消え入るような声を絞り出して、私が無関係だと訴えてくれました。
さすがにエドガー様も、ハンナさんが侯爵夫人のお気に入りの侍女だということは承知していますから、理由もわからないまま頭ごなしに怒鳴ることは控えているようです。
けれど――。
「ニリア、何をされたんだ?」
「エドガー様、聞いてください! この使用人が、私からお義母様に贈った高価な香薬を捨ててしまったんですよ……酷いと思いませんか? これが私への嫌がらせでなくて何だというんですか? それで罰しようとしたら、ビオレッタ嬢が現れて、使用人をかばったんです。おかしいでしょう? あまりにタイミングが良すぎませんか?」
ニリア嬢は、涙まで見せてエドガー様に訴えます。でも、私もここは譲れません。
「ですからそれは、偶然ここを通りかかっただけだと申し上げました」
しかし、私の言葉はエドガー様の耳には届かないようです。
「ニリア、それで?」
ニリア嬢は、私を嘲笑うかのように続けます。さっき流していた涙が、嘘のように止まっています。嘘泣きだったんですね……。
「だから私、わかっちゃったんですよねー。使用人にそこまでのことができるわけないじゃないですか? だからそこの使用人は、きっと誰かに、私に嫌がらせするように命じられていたんじゃないかなー、って。で、それはビオレッタ嬢だったんだな、って。ビオレッタ嬢には私に嫌がらせする動機がありますもんね。エドガー様も、そう思いません?」
「違います!」
私が否定すると、ハンナさんもさっきより声を大きくして反論してくれました。
「そうです、私は誰にも命じられてなんていません……ただ、奥様のお身体に触るものだと思ったから、捨てたんです!」
だがやはり二人に、私たちの言葉は届きません。
「どういうことだ、ビオレッタ? ニリアに嫌がらせをするなんて、最低だな。振られた腹いせに、そこまでするようなやつだとは思わなかったよ」
「ビオレッタ嬢、嫉妬するなんて醜いですよー」
「ビオレッタ、ニリアに謝罪するんだ! そうすればその使用人ともども、今回だけは見逃してやる」
「ふふふ……ですって! さあ、ビオレッタ嬢、私に謝ってくれない? その使用人を助けたいんでしょ? さあ、早くぅ」
ニタニタと勝ち誇ったようにニリア嬢が笑っています。
エドガー様の蔑むような視線に、私はもう、何をどう言っても伝わらないことを理解してしまいました。そして、また反論しようと口を開きかけたハンナさんに首を振って、何も言わなくていいと伝えます。
もう、私が何を言っても駄目なようです。エドガー様にはもともと人の話を聞かないところがありましたが、今日は一段と酷い気がします。
ここはハンナさんを手当てをするのが先です。不本意ですが、形ばかりの謝罪でも、すればここから逃れられると言うのなら、やむを得ません……。
そう思いながらも、あまりの虚しさに唇を噛んだ時。
「あら、皆様。何をお騒ぎなのでしょう? 我が家の天幕の前に集まられて」




