17 とんでもない目に遭っています
すんなり騎士団の敷地の外まで逃げおおせたニリアは、近くの民家の庭先に干されていた女物の服を盗むと、それに着替える。
とはいえ、貧しい女が着る服など、ニリアにすれば辛うじてぼろきれとの見分けがつくという程度で、鼠色の囚人服と大して変わらない。
通りで馬車を拾ってさらに逃げようとするものの、いくら手を上げて呼びかけても、肝心の馬車が一向に止まってくれない。
大声を出して呼び止めようとしても、御者は馬車の速度を緩めることもなく、そのまま通り過ぎてしまうのだ――ニリアの姿など目に入っていないかのように。
「あ……あいつのかけた術のせい?」
さっきまで使える奴だと思ってやったことに後悔する。やっぱり気味が悪いだけの男!
おかげで止まってくれる馬車がない。かといって、歩いて行くなんて疲れるし、ごめんだ。
どうしたものかと思案していると、ガタガタと左右に激しく揺れながらこちらに向かってくる荷馬車がある。かなり高齢の御者がおぼつかない手綱さばきで荷台に乗せているのは、何頭もの豚。
豚は狭い荷台にすし詰めに乗せられているせいで、小競り合いして激しく暴れている。そのせいで荷台がバランスを崩しそうになり、おかげで進むスピードは一向に上がらず、のろのろとしたものだ。
(仕方ないわね……ほんの少しの間だけなんだから)
とりあえずは、できるだけここから遠くに離れよう。
人が歩くほどの速さで、のんびりと目の前を通り過ぎようとした荷台の端に手をかける。何とか荷台にのぼると、豚の尻を押しのけてできたわずかな隙間に腰を下ろした。
すると、押しのけたはずの豚が、揺れに乗じてその尻をニリアの顔前に突き出してくる。
「来るなっ! あっちに行って!」
怒鳴ったところで、豚には通じない。ブヒブヒと騒がしく鼻を鳴らしながら、ぐいっ、とニリアに泥まみれの尻や腹を押し付けてくる。
否応なく、獣の糞便の臭いの混じった泥が、着ている服や髪にこびりついていく。体にしみつくほどの慣れない臭いに耐え切れず、吐き気さえ催す。
(なんで私が、こんな目に遭わないといけないのよ!)
そう思うほどに、こんな目に遭う原因を作ったビオレッタへの恨みが募る。
(大して可愛くもないくせに。魅力がないから婚約者をつなぎとめておけないんでしょ? それを私のせいにしないでよ!)
他の令嬢たちも同じ。
私に婚約者を奪われたと陰口を叩き、今ではどこの夜会やパーティーに行っても、令嬢たちの輪からは除け者だ。
でも、令息たちは違う。ニリアがちょっと甘えて見せれば、ほとんどが機嫌よく相手をしてくれる。
(だって、私は可愛いんだから、当然よね。私を気にならないほうがおかしいって)
一人娘のニリアは、幼い頃から両親に可愛がられてきた。
父である男爵も、母である男爵夫人も、親しい友人たちから「親に似ない、こんな愛らしい娘を持って羨ましいよ。どこの令息に見初められるか、将来が楽しみだな」と誉めそやされるたびに、「ニリアは自慢の娘だ」と嬉しそうに頭を撫でてくれた。
ニリアがどんなわがままを言っても許してくれたし、何をしても「お前は悪くない」と擁護してくれた。
子どもたちの集まりで、他家の男爵令嬢と喧嘩になった時には、その令嬢をきつく叱りつけてくれた。「ニリアが悪いはずがない、ニリアを虐めるのはやめてくれ」と。
叱られた令嬢は、大きな声で泣き始めた。その姿を見て、ニリアはざまあみろと心の中でほくそ笑んだ。何でも私が一番なんだから、と。
本当は、その令嬢に虐められてなんかいなかった。虐めていたのはニリアのほうだ。
だって、可愛くもないのに、賢い令嬢だと他の大人たちがその子を褒めていたから。ニリアの他に褒められる子がいるなんて、おかしいし、許せない。
みんなに褒められていいのはニリアだけ、愛されていいのもニリアだけ。それが当たり前でしょ?
だから、いいことを思いついた。気に入らない子がいたら、虐められてかわいそうなニリアになればいい。そうしたら、お父様やお母様がその子を叱ってくれるから。
それからはたびたび、気に入らない子が現れるたびに、同じことを繰り返した。
そのたびに両親はもちろん、時にはまんまと騙されてくれた他の大人がその子を叱ってくれるので、気分がよかった。
それに令息たちも、可愛いニリアの味方をしてくれることがほとんどで、おかげでいつもニリアの思い通りに事は進んだ。
だからますます信じて疑わないようになった。可愛いニリアは、みんなから愛されて当たり前、って。
でも徐々に、様子がおかしくなっていく。
気づいたら、同じ年頃の令嬢たちの輪から外されていたのだ。
歳の近い令嬢たちが集まるお茶会やパーティーへの招待状が届くことはなかったし、他の令嬢たちのように、連れだって街へ買い物に行こうと誘われることもなかった。
けれど、令息たちは違った。幼い頃と変わらず、ニリアの相手をしてくれたし、他の令嬢たちから仲間外れにされている、と涙のひとつも零してみせれば、「可哀そうに」と慰めてくれた。
ニリアにお茶会の招待状が届いていなくても、招待状を持つ令息たちがパートナーとなって連れて行ってくれた。そんな招かれざるニリアを見て陰口を言う令嬢たちはいたが、どうでもいい。令息たちの前で、また以前のように「虐められている可哀そうで可愛いニリア」を演じればいいのだから。
しかし、これもいつの間にか効果がなくなる。
年頃となった令嬢たちと令息たちは、次々と婚約を結んでいく。騎士になって任務で皇都を離れてでもいない限り、高位貴族の令息ほど早く婚約者が決まっていくし、令嬢についても同じだ。
婚約者の決まった令息たちは、婚約者ではないニリアを遠ざけるようになっていったし、彼らの婚約者である令嬢たちは、ここぞとばかりに自分の婚約者に近づこうとするニリアを非難した。身分や貴族としてのマナー、常識を盾にして。
身分? 貴族としてのマナー? 常識?
ニリアにとって、そんなものはどうだっていいことだった。
当然ニリアにも、お父様が婚約話を持ち込んできた。だがそれは、ニリアが思い描いていたものとは程遠い、田舎に小さな領地を持つだけの男爵家の嫡男。
「私は田舎に暮らすなんて嫌、皇都の貴族で探して! 伯爵家以上の家門で!」
そうわめきたてると、お父様は悲しそうに眉をしかめた。
貴族の婚姻を取り持つ仲介人によると、皇都の家門には、ニリアとの婚約を受けてくれる家門がひとつもない。
どの家も、ニリアについてよくない噂を聞いている。だから、皇都から遠くて、しかも皇都に噂を知るような一族のいない家門を探し、ようやく内諾をもらえたのだ。
こんなの、おかしい。
ニリアは誰よりも愛されて当然なのに。
そんな時、邸のメイドが、皇都のはずれの廃墟となった街区に評判の占い師の男がいると教えてくれた。
占い師と名乗ってはいるけれど、その男は願いを叶える不思議な力を持っているらしい。どうやら最近騒がしい南部を逃れてきたようだと。
でも、気に入らない客の相手は、どんなに金貨を積まれても、時間の無駄だと言って、しないのだとも。
そしてかき集めた金貨を忍ばせて男を訪ねていくと、ニリアをひと目見るなり宣った。
「へえー、稀に見るずいぶん理想的な魂をお持ちのようだ。あんたが気に入ったよ」
ふんっ、とニリアは男の無礼な物言いに鼻を鳴らした。占い師だからか、魂だなんておかしなことを言う。
それにこの男、無駄に容姿が整っていて、それが何だか不吉な気がして、不気味でもあった。
でも、誰でも相手にするわけではないと聞いていた男に、そう言われて悪い気はしない。
やはり、ニリアは選ばれてしかるべき存在なのだ。そう誇らしくもなった。
「失礼ね、私は貴族よ。お嬢様と呼びなさい」
「あー、はいはい、わかりましたよ、お嬢様。ところで、貴族のお嬢様がわざわざここまで来たということは、俺に何か叶えてほしいことがあるんだろ?」
ニリアは男に、自分が一番に愛される存在になるようにしてほしい、と伝えた。
「ふうん……なんとも曖昧で、傲慢な願いだな。まあ、お嬢様には相応しい。なら、これを使うといい」
そして渡されたのが、あの小瓶。
何の薬液なのか、その名を聞いても男はにやにやするばかりで、答えない。ただ「愛されたい相手に、これから言う通りに使え」と言っただけ。
「まさか、毒じゃないわよね? 飲んだら死ぬとか……」
「いや、死にはしないさ。言っただろう? お嬢様のことを愛するようになるだけだよ」
「じゃあ、あんた、飲んでみてよ」
「疑り深いねえ……。いいけど、俺には効かない。その薬の主だからな」
「薬の主?」
またおかしなことを言う、と不審に思いつつ男を見ると、男は小瓶の栓を開け、中の液体を指に垂らした。
指に着いた液体を、これ見よがしにぺろりと舌で舐める。
「ほうら。死んじゃいないだろう?」
「ふうん。そうみたいね。じゃあ、信じてあげる」
ニリアが男から聞いた通りにその小瓶の薬液を使うと、面白いほど令息たちは、婚約者を放ってニリアにだけ夢中になった。
その後ニリアは、自分に急に冷たくなった令息や、他人の婚約者に近づくなと警告してきた令嬢たちの婚約者を、一人ずつ落としていく。
それでわかったのは、男がくれた薬液は確かに死に至る毒ではない。しかし、長く続けて摂取させると、人としては壊れてしまうようだということ。
壊れてしまった人に愛されても、それではちっとも楽しくない。
だから、エドガーにはそうならないよう気をつけて、最近は量を減らしていた。それがよくなかったのだろう。
(そろそろ結婚相手を決めようと思っていたからね)
エドガーと結婚すれば、将来は侯爵夫人だ。そうなれば、ニリアを蔑んだ奴らを見返すことができる。
結婚するなら、高位貴族と決めていたニリア。それで目を付けたのが、カルマン小侯爵のエドガーだ。
それに、社交界で有名だった、運命の人だとビオレッタ嬢に求婚したという話。
運命の人だと言われるほどの令嬢がどれほどのものかと覗きにいったニリアは、鼻で笑ってしまった。
(なーんだ、大したことないじゃない。あの程度で運命の人? 勘違いでしょ? 馬鹿じゃないの)
案の定、偶然を装って近づいたエドガーは、簡単にニリアに関心を見せた。その後は男に教えられたとおりに、薬液を染み込ませた茶葉を贈り、毎日のように飲ませる……。
そうしたら呆気ないほど簡単に、彼はニリアに夢中になった。挙句の果て、運命の人だと崇めていたビオレッタ嬢と婚約破棄――あれは痛快だった!
その後、カルマン侯爵夫妻がエドガーとニリアとの婚約をすんなり認めてくれたら、完璧だったのに。
(侯爵家だって、私みたいな可愛いらしいお嫁さんのほうが絶対いいはずでしょ?)
カルマン侯爵夫妻――というか侯爵夫人が頑としてニリアを認めようとしなかった。いつだって汚らわしいものでも見たような目を向けられた。
何より、ニリアよりビオレッタ嬢のほうがいいと思ってるなんて、どうかしてる。
だから試しに、侯爵夫人にもアレの効果があるか、試してみようと思ったのに。
(あー、まったく! あれもこれもみーんな、ビオレッタ嬢のせい!)
ガタッ、と荷馬車がこれまで以上に大きく揺れた。車輪が石にでも乗り上げたのだろう。
その拍子に荷台が傾き、雪崩れてきた豚の腹に押しつぶされそうになったニリアは、咄嗟に手のひらを荷台の床についた。
ねちゃっ……。
いやーな感触。手のひらにべっとりと着いたのは、豚の糞。
「ふぎゃーーーーーー!!!」
思わず出た変な声。
ニリアは慌てて汚れた手のひらを、豚の体に手あたり次第擦り付けた。




