16 脱出しました、その後は?
(くっ……どうしてこんなことに! 殿下はどうかしている……)
ルシオンは、閉じ込められた部屋の中で、両手の拳を爪が手の平に食い込むほど強く握りこんだ。
(ビオ……俺が行くまで、無事でいてくれ)
当然、キリアン卿がすでに騎士団から何人もの騎士たちをバンサン伯爵家に向かわせているとは聞いた。
だが、普通なら一介の令嬢などでは入手できるはずのない禁制の毒物を手に入れていたニリアには、それを手助けした怪しげな仲間がいると考えるほうが自然だ。
だから、ニリアの追跡に加わりたいと殿下に頼んだものの、その結果がこれだ。
許してもらえないのなら、任務を放棄した罪に問われることとなっても構わないから、ビオのもとに駆け付けようと決意した。すると、少し離れて控えていた近衛騎士たちに拘束されたルシオンは、皇女宮の三階の一室に軟禁されたのだった。
剣は奪われたが、手足を縛られることもなく、部屋の中では自由にしていられることだけが救いだ。部屋の扉の外には、殿下に命令された近衛騎士たちが見張りに立っている。
どうして護衛のルシオンを、殿下は部屋にまで閉じ込めるのか。理由がわからない。
そもそもなぜ、これまで殿下と大した接点もなかったルシオンが専属護衛に選ばれたのか? それさえ不可解なことだった。
(皇女殿下は、聡明な方ではなかったのか?)
噂が間違いだったのか?
皆が殿下を買いかぶりすぎていたのか?
皇族たるに相応しい人格をお持ちの方だと聞いていたが、これではまるで、気に入った騎士をアクセサリーか慰み者として扱う、低俗な令嬢のようじゃないか。
いや、しかし実際に殿下を何度か皇宮内で見かけたこともあるが、その時見た限りでは、噂通りの方だと思えた。
何かがおかしくないか……?
こうなったら、何としてでもここを抜け出してやろうと思うが、窓から下を覗くと、さすがのルシオンでも飛び降りて無傷でいられる高さではない。地上にはこちらを見張る数人の兵士も配置されている。
その上、殿下が頻繁に部屋を訪ねてきては、侍女に二人分の食事やお茶を用意させ、ルシオンにもテーブルに着くように言う。
「どうして私を閉じ込めるんですか? これでは殿下の護衛の任を果たせないではないですか?」
「ふふ……いいえ、そんなことはないから心配無用よ。卿の任務は、私のそばにいることだから」
「それなら私をこの部屋から出してもらえませんか? 護衛として殿下のそばにいるには、この部屋の中だけというわけにはいきません」
「それはだめよ。だってルシオンは、外に出たらどこかに行ってしまうでしょう? ふふふっ、私がそんなこともわからないとでも?」
殿下は平然とそう返す。そして勝手にぺらぺらとおしゃべりを始める。こんな押し問答を、皇女が来るたびに何度か繰り返した。
ルシオンが何の反応もしないでいると、殿下は時々機嫌を取るかのように話を振ってはくる。けれど、無表情を崩さないルシオンに打つ手がなくなるのか、「また来るわ」と言って、部屋を出て行く。
そしてルシオンがまんじりともしない一夜を明かした後、今度は朝早くから訪ねてきたかと思うと、使用人たちが執務用の机を運びこんできた。
「今日から私、ここで執務もするわ。護衛のルシオンがいる部屋だから、問題ないわね?」
「何を……いいえ、皇女殿下。こんなところに閉じ込められるなど、とうてい護衛の仕事とは言えません」
だが、ルシオンの度重なる抗議にも殿下は気分を害すことはなく、笑みを浮かべるのをやめない。
(ビオレッタに何事も起こっていないだろうか。こんな時にそばについていてやれないなんて……)
悔しさに歯噛みしたルシオンは、次の予定のために殿下が部屋を出て行くと、扉の外の警備に気づかれないよう、内側から音を立てずに鍵をかけた。
そして、部屋の中のチェストや椅子といった家具を扉の前に移動させ、積み上げる。これで外から簡単に扉を開けることはできないはずだ。少しは時間稼ぎになるだろう。
(ふんっ、命令違反の罰くらい、いくらでも受けてやるし、騎士の身分を剥奪したいなら、そうすればいい)
便箋に殿下宛ての短い置き手紙を認めると、襟から外した皇室騎士の徽章を重石代わりにその上に置いた。
地上の兵士たちは数時間ごとの定刻に交替する。昨日窓から観察した限り、その時間もルールも、皇室騎士団の伝統的な教えに則っているようだ。
騎士団の一員として同じ教えを叩き込まれ、熟知しているルシオンには、そのルールに穴があることも承知している。
過去には上官にその穴を指摘して改善策を提案したこともあるが、平和ボケしている当時の上層部からは、余計なことを言うな、と無視された。興味を持ち、改善策を受け入れてくれたのは、キリアン卿の管轄する部隊だけ。
(おかげで皆、時間と規則厳守の真面目な兵たちばかりで助かるよ)
交替時間の前後のわずか数分、窓の下の兵士の監視の目が消える。
予想を違わず地上の兵士の姿が消えた瞬間、ルシオンはバルコニー伝いに人気のない部屋に飛び込んだ。
その部屋は、貴賓室。
近年は婚約者である皇女殿下との親交を深めることを名目に、外交使節に随伴してくるレアンドロ王子がたびたび滞在していた。
その滞在がない時でも、日中は使用人によって毎日、部屋の空気が澱まないようにバルコニーの扉が少し開けられていた。そして扉を閉めるために再びこの部屋に使用人がやって来るのは、日が落ちる直前。それまでにはまだ十分な時がある。
実はこの部屋、暗殺や叛逆などの変事に備えて、賓客を逃がすための隠し通路に繋がる扉が隠されている。そのことは、ルシオンが皇女宮の護衛に選ばれてすぐ、前職者である近衛隊の騎士から引き継がれた重要事項だ。
その隠し通路を使うば、ここから出られる。
壁の装飾レリーフの一部として巧妙に隠された通路への扉の前には、目印を兼ねた文机が置かれている。
その文机を扉の前からどかそうと力任せに横に押すと、机の端に置かれていた白蝶貝の化粧箱が、どすんと床に落ちた。
落ちた衝撃で化粧箱の蓋が開き、中に収められていた数十枚という画用紙が無残にも床に散らばる。
それにかまわず今は、通路からの脱出だけを考えようとはしたものの、ふと目にした床の画用紙の何枚もに描かれた、下絵のような鉛筆画に目が留まった。
その中の一枚を拾い上げ、まじまじと見つめたルシオンは、あることに思い至って目を見開いた。
「これは……」
急いで散らばった画用紙を拾い集めると、丁重に元の化粧箱の中に収めて蓋をした。
◆◆◆
(はははは……こーんな簡単に抜け出せるなんてね!)
地下牢を抜け出すことのできたニリアは、笑いが止まらない。
ほんの少し前まで、あの冷たく薄汚い牢の中で、必死に叫んでいた自分が馬鹿らしく思える。
騎士団の敷地内にある獄舎の中は、そこここに警備の兵士や騎士の姿があるが、誰もニリアに気づかない。
(あー、おかしい……こんなに堂々と歩いているのに、みーんな、私に気づかないなんてぇ)
ニリアが今、身に着けているのは、牢に収監される罪人が、その印として着せられる鼠色の上下。
ひと目で牢から逃げ出した罪人とわかるはずなのに、すれ違う誰一人としてニリアに目を留めることはない。
ニリアは堂々と獄舎の中を歩き回り、ようやく探し当てた出口に向かっていた。
(あの男、気味が悪いけど、使えるじゃない)
今から少し前、牢の中で叫んでいると、「黙れ!」と牢番に一喝され、バケツいっぱいの冷水を力任せに浴びせられた。
ずぶ濡れになって体は冷えても、怒りは募る一方。なおもビオレッタを罵倒する言葉を吐き続けた。
牢番は一向に叫ぶのをやめないニリアに嫌気がさしたのか、両手で耳を塞ぎながら席を外した。
そこへ現れたのが、あの男。
「いいざまだねえ、お嬢様」
にたにたと嫌みな笑みを浮かべた男が、今のニリアには救われない地獄に降りてきた糸に見える。
離れたところにいる牢番に気づかれないよう、声を潜めた。
「どうやって、ここに入ってきたのよ?」
「さーあねえ……どうやってだろうね?」
「教えなさいよ!」
「いやー、どーするかねえ……」
そう言えば、この男は怪しい力を操れたはず。
「ちょっと! ほんとにここから出して。金貨なら、ここを出たらあげるから」
ここから逃げられるなら、いくらでも、何でも払ってやる。どうせ金貨は、ニリアが自分で用意する必要はないのだから。
またアレを使って、金持ちの男を言いなりにしてしまえばいい。
「うーん……金貨はいらないなあ。もっといいものを貰うから」
「何よ、それ? 金貨よりいいものって何?」
「あー、そのうち嫌でもわかるだろうって」
揶揄うように言いながら、男は鉄格子に掛けられていた南京錠に手をかざす。
すると音もなく、錠が開いた。同時にニリアの手と足に着けられていた鉄の枷もはずれた。
「お嬢様にもう一つ、恵んでやるよ。あの女とやらを殺しに行きたいんだろ? また俺を楽しませてくれよ」
そう言って男は、プレゼントだと言ってニリアに認識疎外の術とやらをかけた。たとえ相手の目にニリアの姿が映ったとしても、その存在自体を認識できなくなるのだと言う。
そんな都合のいいこと、あるわけないじゃない――そう思って半信半疑でいたのだが。
実際、難なく牢の外に出たニリアが間違いなく視界に入っているはずなのに、牢番は慌てる素振りも見せない。それどころか平然と、そこに誰もいないかのように振る舞う。
「なにこれ、すごいじゃない!」
「うーん、だがなー、誰か一人に気づかれると、術は解ける。用心することだな」
「えっ? それってどういうこと?」
男を振り返るが、そこにはもう、誰もいない。
まあ、いいか。どうせまたおかしな力を使って、姿を消したのだろう。
今、明らかなのは、おかげで簡単にここを出られるということ。
それでも最初は怖々と獄舎の中を進んでいったが、すれ違う者は誰もニリアを気にする気配がない。
これなら、ニリアがこれからどこに行こうと、何をしようと、気づかれはしないだろう。
(それじゃあ、仕返ししてやらないとね。私をこんな目に遭わせたこと、後悔させてやるから)
その時ニリアの視界の端を、黒い鳥が空高く飛び去っていった。




