15 これが恋というものならば
「ねえ、ルシオン卿。あなたもそこに座ってお茶につきあいなさい」
謁見室を出たクリスティアは、そのままルシオンを従えて皇女宮の庭園に出た。
庭園の奥まったところにあるガゼボの下には、丸テーブルと一対の椅子が向かい合うように置かれている。秘密めいた茶会の席に絶好の場所。
「いえ、私は殿下の護衛です。殿下が安心してお茶を楽しむことができますよう、気を抜くわけにはまいりません。恐れながらお茶のお相手でしたら、そちらの侍女殿のほうが適任でしょう。不調法な私では、殿下の興を引けるような、気の利いたお話も存じませんので」
「いいから……これは命令よ。座って」
殿下はルシオンが名指しした侍女に目線をやる。すると、お茶の支度を一通り終えた侍女は、すべて承知したかのように軽く目を伏せ、その場から姿を消した。
「ほら、あなたしかいないじゃない? 私の目の前に座れば、私を背中から襲ってくる不届き者を見張りやすいでしょ? さあ、早く座って」
どうせ何を言っても聞かないことがわかったのか、仕方なさそうにルシオンが公女の向かいに座る。
席についても視線を遠くに投げて周囲を警戒するルシオンを、クリスティアは満足げにまじまじと見つめた。
この騎士を視界に入れると、心がそわそわと浮足立つ。
胸の奥には、じんわりと熱いものが湧いてきて、何だかむずかゆくなってくる。
これがもしかして……ときめくとか、恋をする、ということ?
クリスティアは、お茶会など自分と同じ年頃の令嬢たちが集まる席で耳にした、ある話を思い出す。
侯爵家の令嬢は、皇宮でのパーティーで自分にダンスを申し込んでくれた令息に恋をしたと言っていた。以来、眠れないほど彼のことばかり考えているという。ダンスで彼に手を取られた瞬間、胸の内に何やら熱いものが稲妻のように走ったと、目をきらきら輝かせながら語っていた。
それに続いて伯爵家の令嬢も、自分の初恋がどうして始まったのかを語り出した。今は婚約者がいる彼女だが、それでも幼い頃の初恋の彼を思い出すたびに、いまだに胸が高鳴るのだと。
それはすべて、皇宮の家庭教師たちからは、絶対に教えてはもらえない話。
そしてクリスティアには、生涯無縁な話。むしろ関心を持ってはいけない話だということはわかる。
皇女という身分での婚姻に、恋愛が立ち入る隙はない。
皇宮の教師が教えてくれたのは、皇女の嫁ぎ先は、必ず政略ありきで決められるものということ。そこには好きも嫌いも、ときめきも胸の高鳴りも無意味なものにすぎず、ただ帝国の利益だけが問われて決定する。それは皇族として、生まれながらに特権を得た自分の義務だ。
だからクリスティアは、自分が誰かを好きになったり愛したりすることは、いけないことだと固く信じてきた。
幼い頃は、それで何の問題もなかった。
けれど、成長するにつれ、恋することへの戒めが、時に心を虚しくした。
無邪気に恋を語る令嬢たちが、無性に妬ましく思えたこともあるし、物語の中の恋人たちが、手が触れただけで胸が高鳴るという描写に、それはどんな感じなのだろうかと知りたくもなった。
そして数年前に父である陛下から婚約者だと紹介されたのは、クリスティアと同い年の属国の第二王子、レアンドロ。プラチナブロンドの髪が美しい、すらりとした好青年だ。
芸術に明るいことで知られ、王子自身も絵を描くことを好むと言う。物腰の柔らかい、皇女の夫たるに申し分のない人物。
婚姻後は帝国内で公爵位を受けることになると決定していて、その婚姻は2年後。
彼を見た周囲の者が皆、「あんな素敵な方と結ばれるだなんて、殿下が羨ましい」と口々に囀ったが、クリスティア自身はそれに何の感情も抱くことはなかった。ただ「不快な人ではなくてほっとした」というだけ。
「胸が高鳴る」ということがどんなものなのか、彼と言葉を交わしても、彼から手の甲に挨拶の口づけを受けても、一向に知れはしなかった。
なのに――。
どういうわけか、あのカルマン侯爵家での仮面舞踏会でルシオンを見て、クリスティアは自身の身に異変が起こったのだ。
帝国の建国神話にまつわる星祭りの日には例年、王都のいくつかの有力家門が伝統に則った仮面舞踏会を開く。その夜会に、皇族たちが手分けして顔を出すのがしきたりだ。
あの夜、クリスティアはカルマン侯爵家に行くように命じられた。そこに集う人々の様子を観覧するだけの形ばかりの役目を終え、皇宮に戻ろうと広間から出たところ――そこで騒動に出くわし、胸元に冷たい液体がかかった気がしたのは覚えている。すると、頭の中に靄がかかったような気分になり、ぼうっとしてしまった自分がいた。
その熱に浮かれたような頭で、ぼんやりと見つめた先にいたのが、彼だ。
ルシオン・ロンウィ――そう彼は名乗った。
それは、これまでに一度も感じたことのない不思議な感情だった。何か強い強制力が働いて、彼から目を離してはいけない、彼を逃してはいけないと命じられた気がして、彼の名を心の中で繰り返す。
(ルシオン・ロンウィ。ロンウィ卿……。いえ、ルシオン……)
そして、ああ、これが胸が高鳴る、ということなのだろうと理解した。
(あの彼を、どうしてもそばに置きたい。私のそばにいてくれないと)
かつて感じたことがないほどの強い衝動に駆られ、翌朝早速、陛下の元を訪ね、滅多にしない私的なお願いをした。
彼を自分の専属護衛としたい、と告げると、陛下は初め怪訝な顔をした。それはそうだ、皇族の護衛騎士は近衛隊から選ばれるものと決まっていて、今いる護衛騎士もそう。一方、ルシオンは皇室騎士団の所属。だがこれまで、例外がなかったわけではない。
クリスティアは考えつく限りの理由を並べ立て、陛下に訴えた。結局は、頼み事の珍しいクリスティアがそれほどまでに言うのなら……ということで、陛下は渋々ながらお許しをくれたのだ。
そしてやっぱり……先ほど謁見室で再会したルシオンの姿に、胸の奥が尋常でないほどにざわめいた。
手の甲に彼の口づけを受けた時には、胸の奥にしびれるような感覚が走った。あのレアンドロ王子の時には、何の異変も感じなかったのに。
「ねえ、お茶が冷めるわ。せっかくあなたを歓迎するために、東方の国から献上された珍しいお茶を用意したのに」
「私にはもったいないことです。ですが殿下、護衛の私にお気遣いは不要です」
熱のない言葉で返されても、それが自分に向けられたものだというだけで胸の奥が熱くなる。
「いいえ。私がそうしたいから、していることよ。せめてその一杯くらい、付き合いなさい。私の気が済まないわ」
「わかりました……では失礼して」
ルシオンはカップを手に取り、ぬるくなりかけていたお茶を一息で飲み干した。
「そんなに慌てなくても……」
どういうわけか、その無作法さに愛らしささえ感じてしまう。
もうしばらくの時間、ここに彼をつなぎとめておきたい。そのためにはこの無骨な彼に、どんな話を振れば興味を持ってもらえるだろうか……。
しかし、その穏やかな時を蹴破るように現れた騎士。皇室騎士団の制服を着ている。
「皇女殿下、緊急事態にて御前を失礼します! ロンウィ卿に至急お伝えしたいことが!」
「何を言っているの。お下がりなさい! ルシオン卿は私の護衛騎士です。もう皇室騎士団の所属ではありませんよ。戻って、あなたの上司にそう伝えなさい」
クリスティアは不快を隠さず、その伝令の騎士に叱責の言葉を投げた。
しかしルシオンは、そんな言葉など聞こえないかのように騎士に駆け寄る。
「何があった?」
クリスティアの叱責に一瞬怯んだ様子の騎士だったが、ルシオンに肩を掴まれ、言葉を続ける。
「あの令嬢が、牢を抜け出しました」
あの令嬢? 牢を抜け出した?
ああ、あの時カルマン侯爵家で捕縛されたという……男爵家の娘だったか。
彼らの話は、クリスティアにも聞こえていた。
ニリア嬢が脱走した――。
どんな手を使ったのかは不明だが、いつの間にか牢内にとらわれていたはずの姿が、煙のように消えていた。何人もの兵士が、内と外の見張りに立っていたというのに。
そして副団長のキリアン卿が、緊急事態として今それをルシオンに知らせることにした訳。
ニリア嬢は、尋問の最中、しきりにビオレッタ嬢への恨み言を口にした。
ニリアは、あの場にビオレッタ嬢がいたことに気づいていた。「婚約者を奪われた腹いせに、あの女が私を告発したのよ! 必ず復讐してやる」と。
逆恨みもいいところだが、何をするかわからない。ビオレッタ嬢が危険だと。
切羽詰まった瞳で、ルシオンがこちらを見る。
「皇女殿下、私が捕らえた大罪人が脱走しました。何人もの皇都の令息に毒を盛った危険な人物です。どうか一時的に私の任を解いていただき、その罪人を追うことをお許しください」
これまでのクリスティアなら、民に害が及ぶそんな大事が起こったのなら、罪人の追跡に向かえと命じたことだろう。自分の護衛など、一時的な代わりならいくらでも近衛隊にいるのだから。
皇女である自分は、何よりも民のことを考えねばならない。そう教えられてきたし、そうありたいと思ってきた。
なのに――今はなぜか、ルシオンが自分の元を離れることが無性に我慢ならないと感じる。
彼をどこにも行かせるものか。彼は自分のそばにいなければいけない。
たからクリスティアの前に膝をつき、切実な表情で願い出たルシオンに、冷たく言い放つ。
「だめよ」
「なにとぞ、お願いいたします!」
食い下がるルシオンに、意地でも行かせるものかという思いが強くなる。
「駄目と言ったわ。何度も言わせないで。あなたは陛下から、すでにその件に関する任務を解かれている。あなたの任務は、私の護衛よ。騎士ならば、自分のすべきことに集中しなさい」
「ですが――皇女殿下!」
歯を食いしばり、射るほどの険しい眼差しで彼はクリスティアを見上げる。
この眼差しが秘める決意に、クリスティアは予感した。彼はきっと、自分が許すと言わなくても、このまま強引に飛び出して行ってしまうだろう。
ならば、仕方がない。
「誰か、この者を捕えなさい!」




