12 皇女殿下にお会いしました
広間に戻ったニリアは、自分の後からすぐについて来ると思っていたメイドの姿がなく、苛立っていた。
「遅いじゃない! 何してたのよ!」
やっとワインを運んできたメイドに、眉を吊り上げる。
「申し訳ありません。お嬢様をすぐに追いかけようとしましたら、飲み物を取りに来たお客様がいらしたものですから……」
「あのねぇ、私のこと、馬鹿にしてるの? 他の客なんていいから、私を優先すべきでしょ! 私を誰だと思ってるのよ!」
「申し訳ありません……お客様を優先するように奥様からは言われておりまして……」
声を荒らげるニリアに気づいて、遠巻きにした人々がちらちらと視線を向ける。
「おい、ニリア、その辺にしておけ。そういう物言いは、今じゃなくていいだろう? 人が見ている。体面くらい保ってくれよ」
エドガーはメイドのトレイからワインのグラスを取った。
今夜は皆、仮面を着けている。とはいえ、雰囲気で誰なのかは察せられるものだ。カルマン家を象徴する深紅の衣装でそろえた二人が誰かは、言わずもがな。
ニリアは、メイドではなく自分を咎めたエドガーに腹を立てた。
でも、まあ、いいか。そのワインを飲めば、解けかけていた暗示がまた、強くなるはず。そうすればまた、ニリアの言いなりになるのだから。
(ふんっ……ほーんと、馬鹿な男)
目の前でワインを飲み干すエドガーを、ニリアは笑いをこらえながら見守る。
だが――。
「ニリア、母上は休憩室で親しい夫人たちと歓談しているらしいから、もうしばらくしたら謝りに行って来いよ」
空になったグラスを近くにいた給仕に渡したエドガーは、さっきの話を平然と蒸し返した。
おかしい。いつもなら、アレを入れたものを飲めばすぐ、効果が出ていたのに。
ニリアを誰よりも優先し、甘やかすだけとなるはずなのに……。
(どういうこと?)
あのメイドに渡したのは、確かにアレを入れたワインだったし、彼のために特別に用意したものだと強く言っておいたから、メイドが別のものを持ってくるはずはない。
「エドガーさまぁ?」
「ん? なんだ? 今から母上のところに行く気になったのか?」
舌打ちしたい気持ちを抑えながら、ニリアは上目遣いでエドガーの表情をうかがう。
やはり、効いている気配が微塵も感じられない。
もう一度、やり直しだ。
そう言えば、あの店の男は言っていた。アレは皮膚についても作用する。だから、ターゲットとする人物に原液をかければいいと。
(うーん……でも今はやっぱり、飲ませるほうが目立たないよね)
ニリアはドレスのスリットに手を入れ、そこに忍ばせている小瓶を握り締めた。
ここでは人目が多すぎる。
「はあい。今から侯爵夫人のところに行ってきまーす」
「ああ。それがいい」
満足げに頷いたエドガーに背を向けて、ニリアはまた広間を抜け出した。
広間の扉を開けて廊下に出た途端、目の前に仮面を着けた一人の男が立ちふさがる。
「ちょっと、何?」
身なりを見るに、夜会に参加者しているどこぞの家門の令息だろう。
だとしたら、広間で見かけたニリアに興味を持って、ここで出待ちしてたということか。
(へえ……まあ、いつもなら相手してやらないこともないけれど、今はやることがあるのよ!)
「あのねえ、あいにく私はパートナーがいるの。だから、あなたの相手なんてしていられないの! さあ、急いでるんだから、そこをどいてよ」
しかし、男はやおらニリアの左腕をひねりあげた。はずみで男の仮面が外れる。仮面の下から現れた精悍な瞳が険しく光り、ニリアは戦慄した。
「ニリア・ヘルガ嬢、皇室騎士団への出頭を命じる」
この男の顔に見覚えがある。その記憶を、男の背後に立つ仮面の女が確かなものにした。
◆◆◆
カルマン侯爵家の夜会を台無しにしないよう、ルシオンはニリアが広間から出てきたところを捕まえると言います。
「あのワインに効果がないとわかれば、ニリア嬢は必ず、すぐに広間を出てくる」
なぜ失敗したのか確認するため、あるいは今度こそはと同じ策を弄するため――ああいう種類の輩の考えることは大体そんなところだと、ルシオンは言いました。
その読みは当たり、広間から出てきたニリア嬢をルシオンは捕らえます。
「ニリア・ヘルガ嬢。皇室騎士団への出頭を命じる。禁制の毒をカルマン侯爵家に持ち込み、小侯爵に使用したことはわかっている」
高位貴族に害をなすことは大罪です。ましてや禁制の毒を用いたのだから、厳罰を免れないことは彼女も知らないはずはありません。
それを合図のように、邸内に散らばって潜んでいた皇室騎士団の団員たちが、こちらに駆けつけてきました。
仮面の外れたルシオンに、ニリア嬢は彼が狩猟祭で私と一緒にいた人物だと気づいたようです。仮面を着けたままの私が誰かを知って、悪態をつき始めました。
「痛いっ! 放してよ! どうせ、そこのビオレッタ嬢が、私に嫉妬して企んだことでしょ! 濡れ衣よ、ワインに入れたのは、私じゃないわ! 私がエドガー様に選ばれたのが悔しいんでしょ? だからって、ひどいじゃない!」
「ああ? 墓穴を掘ったな。自分じゃないなら、どうしてワインだと知っているんだ?」
「えっ? それは……」
「これではっきりしたな。あとは牢で聞いてやるよ」
「いやっ! とにかく私は知らないっ! ビオレッタ嬢に聞きなさいよっ!」
私を罵りながら、後ろ手に掴み上げられている右腕を振りほどこうと激しく抵抗する彼女を、ルシオンは背中から床に跪かせるように強く押し付けて動けないようにしています。
するとニリアが、まだ自由な左手をドレスのスリットに差し入れました。
「ルシオンっ!」
嫌な予感がしたので、叫びました。ニリアは手にした小瓶を高く振り上げます。あの瓶の液体は、クルエドに違いありません!
それをルシオンにかける――と思いきや、その腕をルシオンは容易く、握った薬瓶ごと掴みます。
しかし、ほんのわずか間に合わず、栓の抜けた薬瓶からは薬液が飛び散りました。
「きゃっ……!」
小さく悲鳴が上がった場所には、ちょうど広間から出てきた令嬢の姿がありました。
しきたり通りに仮面を着けていますが、着ているドレスのデザインは、先日お披露目されたばかりの皇室デザイナーによるものと一目でわかります。
ああ、なんてこと! 今夜のカルマン家の夜会には、クリスティア皇女殿下がおいでになると聞いていました!
ちょうど駆けつけてきた騎士団の騎士たちが、ルシオンが取り押さえていたニリア嬢の両腕を背中で縛り上げます。彼女は髪を振り乱して抵抗し、なおも私への悪態をつきながら連れていかれました。
殿下の後ろに控えていた侍女と護衛の女性騎士が、その場に固まったように立ち竦む殿下を見て、ひっ、と声を上げます。
クリスティア殿下のドレスのデコルテからのぞく白い素肌に滴っていたのは、紛れもなく、あの小瓶の液体。
咄嗟に私は、念のため携帯していたクルエドの解毒剤を殿下の侍女に手渡しました。
「今すぐ、皇女殿下にこの解毒剤を差し上げてくださいませ!」
とはいえ、皇女殿下は毒液が皮膚に付着はしましたが、何の暗示もかけられてはいません。クルエドで洗脳されるとは言っても、暗示をかけられさえしていなければ、何も起こらないはずです。
そう、魔法ではないのですから、一瞬にして何かが変わる不思議は起こらないでしょう。
魔法で人々を惑わせたとされる悪魔など、この世に存在しないのです。それは神話の中だからこそのお話です。
私ははっとして、カーテシーしてご挨拶します。
「クリスティア皇女殿下。バンサン伯爵家のビオレッタがご挨拶申し上げます。ご挨拶が遅れましたご無礼をお許しください」
しかし皇女殿下からお言葉が返されることはありませんでした。なぜか殿下は、ルシオンをじっと見つめたまま、ぴくりとも動きません。代わりに護衛の女性騎士が、私に向かい頭を下げてくれました。
皇女殿下は侍女に胸元の液体を拭き取られ、解毒剤を口に入れられても、為されるがままじっとルシオンを見つめています。その瞳はぼんやりとして、かつて皇宮で見かけたことのあるお姿との乖離に、違和感を覚えました。
クリスティア皇女殿下と言えば、聡明で常に凛としたお姿で高名ですから。
「皇女殿下。任務遂行時とはいえ、ご挨拶が遅れました。皇室騎士団のルシオン・ロンウィと申します。お見苦しいものをお見せすることとなりましたこと、お詫び申し上げます」
長く任務で皇都を離れていたルシオンは、皇室騎士となってから殿下とのきちんとした面識はないようです。彼が畏まった皇族への挨拶をすると、殿下は初めて瞳を揺らし、その唇から声が零れました。
「かまわないわ……ロンウィ卿、と言うのね。ルシオン・ロンウィ……」
心なしか上気したように頬を染め、侍女たちに促されて立ち去る間際。
殿下は不意にルシオンを振り返り、ぽつり呟きました。
「またお会いしましょう……ルシオン」




