10 そんなの知らない
「あなた――ニリアさんと言ったかしら? この夜会の意味をご存じないの?」
エドガーに連れられて訪ねた控室で待っていたのは、眉を吊り上げた侯爵夫人だった。
「えっと……何のことでしょう? あの……」
夫人が怒っているのは明らかだったが、決して声を荒らげはしない。夫人の蔑むような眼差しが、容赦なくニリアに突き刺さる。
しかし、ニリアにはこの状況がまったくもってわからない。
夫人に会うのに仮面を着けたままでは失礼だと思ったから、部屋に入る前に取ったのに。
とりあえず、きょとんとした表情をして、自分にはわからないで通せば、何とかなるはず。
夫人は淡々と、冷たい声で問い詰める。
「まさか、ご存じないの? エドガー、そのネックレスはあなたが贈って着けてくるように言ったの? それとも、そのお嬢さんが勝手にやったこと?」
「あっ……母上、ええと……それは……」
ここで初めて思い当たることに気づいたのか、はっとした表情でエドガーが口ごもる。
「答えなさい、エドガー」
「いや、僕は知りませんでした……それは確かに僕が先日、ニリアにねだられて贈ったものですが……まさか僕も、この夜会に着けてくるなんて……母上っ、申し訳ありません!」
「まったく……広間であなたたちを見て驚いたご夫人方に教えてもらって、肝が冷えたわ。カルマン家の次期当主の自覚を持って頂戴。あなたがそんなものを着けた人をエスコートするだなんて、家門のいい恥さらしよ。わからない?」
(えっ? 私のほうを見て、こそこそ言ってたのって……?)
相変わらず訳の分からないニリアは、少しでも話の手掛かりを得ようと、青ざめた顔で項垂れるエドガーと、静かに怒りを滲ませる夫人とに代わる代わる目をやるしかない。
(何なの? このネックレスの何が悪いっていうのよ?)
「エドガー、あなたという人は本当に……。こんな初歩的なことをしくじるだなんて、恥ずかしくて仕方ないわ。こんな失態、ビオレッタ嬢なら決して侵さなかったでしょうに」
夫人は口元で開いた扇の陰で深いため息を一つ落とした。そして使用人に何事か言いつけると、部屋から出て行ってしまった。
するとエドガーが、眉を顰めて口を開く。
「おい、ニリア……。そのネックレスのこと、本当に知らなかったのか?」
「ええっと……エドガー様、ちょっと、どういうことなのか、さっぱり……。ネックレスごときで、なぜ私があんなに言われなきゃなんないの?」
何なのよ。自分だって、夫人に言われるまで気づかなかったんじゃないの?
「はあ……あのさあ、きみは建国神話をしっかり学んだことがないのか? 貴族なら常識だろ?」
「建国神話ぐらい、知ってるけど……」
「いや、ニリアは男爵家だったな……」
そこでエドガーが教えてくれた話は、ニリアにとっては初耳の話だった。
ニリアが知っているのは、子供向けに書かれた童話のような建国神話。その物語は、若者と娘が恋に落ち、皇帝と皇后となって幕を閉じる。
老若男女を問わず、庶民から貴族まで、帝国民にあまねく知られているのは、その程度のお話。
けれど、皇族や高位神官とまみえる機会も多い高位貴族たちは、必ず建国神話の原典を学ぶ。
若者と出会った娘はなぜ、ヴェールで顔を隠していたのか……その原因は娘の幼馴染であった女。
その幼馴染の女は、心優しく、姿も美しい娘のことを子供の頃から妬んでいた。そして「あなたは醜いと皆が噂している」と事あるごとに娘に執拗に囁いた。
やがてその嘘を信じ込んだ娘は、自分の醜い顔をさらして他人を不快にさせたくないと、外ではヴェールを被るようになる。
だが、それでも若者は運命を感じ、娘に恋をした。
幼馴染の女は、若者に愛される娘に嫉妬した。なぜ、自分ではなく、ヴェールで顔を隠した娘なのだと。
挙句、若者を娘から奪い、自分のものにしようと企む。女は人の心を操るクルエドを手に入れようと、一人、その悪魔の毒草を求めて山に入った。
すると、たどり着いた山頂にいたのは、美しい青年の姿をした悪魔。悪魔は、その女の欲に塗れた魂の醜さを一目で気に入り、「お前の願いが叶う魔法を授けてやろう」とネックレスを女に渡す。そのネックレスの中央に嵌められていたのは、瞳を模して装飾された、不吉な赤い石。
そのネックレスを着けて山を下りた女は、若者をおびき出すために娘を攫う。そして娘を助けに来た彼に、女は悪魔に教えられた通りに、ネックレスに込められた魔法を放った。
その悪魔による魔法とは、「魅了」。
しかし、若者は魔法にかからなかった。
神とは違い、不完全な存在である悪魔が操る魔法に、完璧なものは存在しない。
一片の迷いも隙も、曇りもない思いに、邪悪な魅了魔法は通じない。
若者は娘を無事、取り戻してその胸に抱くと、剣を一振りして女のネックレスを破壊した。
すると女は一瞬にして黒い炎に包まれて焼き尽くされ、その燃え殻は見る間に真っ黒な鳥を形作った。その黒い鳥の両の目に、砕かれて地面に散っていた赤い宝石の破片がぴたりと嵌まる。たちまち黒い鳥は、いずこかに飛び去った――。
ゆえに、それがどんなに高価な宝石であろうと、勇者と娘の恋物語を称えて開かれるこの夜会に、赤い石のついたネックレスの着用はタブー。それは真実の愛を汚す、邪悪なものの象徴だからだ。
「そんなぁ……知らなかったし! だって、そーんなこと私は教わったことがないし……。だったら広間に入る前に、エドガー様が一言、教えてくれればよかったじゃない……ひどい……そうすれば私だって……」
ぐすっ、と嘘泣きして見せると、エドガーは決まり悪そうに頭を掻く。そして、さっきの夫人そっくりの大きなため息を落とした。
「まあ、それはそうだけど……僕たちのように家庭教師から指導を受けることのない男爵家や子爵家の令息や令嬢だって、高位貴族と縁づくつもりがあれば、神殿の書物庫で独学しているものだろう? それに……僕もうっかり油断していたんだ。なにせ俺が何も言わなくても、いつでもビオレッタは、こういう大事なことはきちんと弁えてくれていたから……」
また、ビオレッタ!
婚約破棄したっていうのに、いつまで過去となった名前を引きずるつもりなのか。
腹の底から湧きあがってきた不快感を表に出さないように堪えながら、ニリアは気に入っていたネックレスを外すしかなかった。
その後、使用人が持ってきたありきたりなデザインのネックスレスに替えて、エドガーとともに広間に戻ってきたというわけだ。
「いたっ!」
エドガーにヒールの爪先を踏まれて、つい声が出る。
ちっ、とエドガーの舌打ちが聞こえた。
「みっともない声を出すなよ。ほんと、ダンスがあんまり上達しないな……」
(なによ、自分だって大してうまくもないくせに……)
だが、そんなことより――。
そろそろ「アレ」の効果が薄れてくる頃合いだ。だからエドガーのニリアに対する態度がぞんざいになってきているに違いない。
また、「アレ」を使っておかないと。
「エドガー様、喉乾いたでしょ? 飲み物を取ってくるね」
ダンスを一曲終えると、ニリアはそう告げて、その場を離れた。




