第5話 チュールの匂い
女がいつもと違うものを持っていた。
その日の朝も、いつものように砂利を踏む足音が聞こえた。いつもの時間。いつもの足取り。我はベンチの下から耳だけを動かして、女の気配を追っていた。
女は東屋のそばまで来ると、白い皿を出した。カリカリを入れた。いつもと同じ。
だが、もうひとつ。
袋の中から、細長いものを取り出した。銀色の小さな包み。見たことのない形をしている。
女がその端を指でちぎった。
——ぷつん。
その瞬間だった。
匂いが、来た。
カリカリの匂いとは違う。もっと濃い。もっと近い。もっと——直接的な匂い。
肉を煮詰めたような匂い。魚を絞ったような匂い。甘さと塩気が混ざり合った、とんでもなく強い匂い。
鼻が痛いほどだった。
だが、痛いのに、逃げたくない。
我は悪魔だ。こんな匂いに惑わされるような存在ではない。
そう思った。思ったはずだ。
だが、前足が一歩出ていた。
いつ出した。なぜ出した。
女がしゃがんだまま、銀色の包みの先を、指で少し絞った。中から、茶色い液体がにじみ出た。
匂いが、さらに濃くなった。
空気が変わった。公園の朝の空気が、この匂いひとつで塗り替えられた。木の匂いも、土の匂いも、水の匂いも、全部この匂いの下に沈んだ。
頭の中で何かが叫んでいた。
罠だ。これは罠だ。カリカリよりもはるかに強力な罠だ。あの女は段階を踏んで我を誘い出そうとしている。最初はカリカリ。次はこれ。
分かっている。分かっているのだ。
だが——足が、もう一歩出ていた。
ベンチの下から、体が半分出ていた。
いつの間に。
女が小さな声で言った。
「おいで。これ、好きかな」
手が差し出されていた。
指の先に、液体がついている。茶色い、とろりとした液体。匂いの正体がそこにあった。
あと三歩で届く。
あと二歩。
あと一歩。
我の鼻先が、女の指先に触れそうな距離まで来ていた。
心臓が速い。全身の毛が逆立っている。耳は後ろに倒れている。逃げる体勢だ。いつでも逃げられる。
だが、鼻は逃げていなかった。
鼻だけが、前へ前へと引っ張られていた。
匂い。
この匂いが、我の全てを支配しようとしている。
——これは、呪いニャ。
そう思った瞬間、舌が出た。
女の指先についた液体を、舐めた。
世界が、変わった。
味。
味というものは、こういうものだったのか。
カリカリの味は、硬い殻の中に閉じ込められていた。噛んで初めて出てくる味だった。
だが、これは違う。
舌に触れた瞬間に、味が洪水のように押し寄せてきた。肉の旨味。魚の旨味。塩。甘さ。何か分からないが、体の芯まで届く濃さ。
舌が止まらない。
ぺちゃ、ぺちゃ、ぺちゃ。
指についた液体を、全部舐めた。もうない。ないのに、舌がまだ動いている。指の表面を舐めている。人間の指を。
女の指だ。
我は今、人間の手から直接食べている。
——いや。
食べたのではない。これは——
女が包みから、もう少し絞り出した。
考える暇がなかった。
舌が動いた。体が前に出た。鼻がくっついた。
ぺちゃぺちゃぺちゃぺちゃ。
もう何も考えられなかった。
頭の中の悪魔が「やめろ」と叫んでいた。だが、子猫の体は完全にそちら側に行ってしまっていた。匂いと味が全てを上書きしていた。
気がつくと、包みは空になっていた。
女の指先には、もう何もついていない。
我はハッとした。
自分の姿を見下ろした。
女の手のすぐそばに、体がある。触れそうな距離だ。毛が女の指に触れているかもしれない。
喉の奥から、ゴロゴロという音が聞こえた。
聞こえてはならない音だ。
悪魔が、喉を鳴らしている。
止めろ。止めろ。止めろ。
止まらなかった。
女が笑った。
「あら。ゴロゴロ言ってる」
我は飛び退いた。
三歩下がった。五歩下がった。東屋の柱の陰まで戻った。
毛が逆立っている。尻尾が膨らんでいる。威嚇の姿勢だ。
だが、口の中には、まだあの味が残っていた。
女は無理に追いかけてこなかった。
立ち上がって、空になった包みを袋にしまった。
「怖がらせちゃったね。ごめんね」
そう言って、いつものように白い皿だけを残して、去っていった。
足音が遠ざかる。
我はしばらく動けなかった。
柱の陰で、体を丸めて、心臓が落ち着くのを待った。
何が起きた。
我は今、何をした。
人間の手から、直接食べた。喉を鳴らした。触れそうな距離まで近づいた。
これは——完全なる敗北だ。
悪魔としての尊厳が、液体ひとつで崩壊した。
「……これは……呪いニャ。あの液体は呪いニャ。人間界の禁忌の術ニャ。我が悪いのではない。あの液体が悪いニャ」
誰も聞いていない。
カリカリの皿が、柱の根元にまだあった。
食べた。
うまかった。
だが、あの液体の後では、カリカリが少しだけ物足りなく感じた。
恐ろしい。
あの液体は、我の味覚の基準を書き換えた。カリカリですら、もう満足できなくなるかもしれない。
これが人間の戦略か。
段階的に依存させる。最初はカリカリ。次は液体。その次は——何が来るのか。
考えたくない。
だが、体は正直だった。
明日もあの液体が出てくるなら。
たぶん、また食べてしまう。
「……罠だとしても、うまいニャ」
同じ言葉を、またつぶやいていた。




