第2話 ゴミ箱の戦略
ゴミ箱は、思ったより大きかった。
子猫の目線から見上げると、それは城の門のようにそびえていた。金属製で、蓋がついていて、横に丸い穴が開いている。人間はあの穴からゴミを入れるのだろう。
匂いが漏れていた。
甘い匂い。油の匂い。紙の匂い。少し時間の経った匂い。その中に、食べ物の気配がある。よく分からないが、とにかく食べられそうなものの匂いだ。
腹が鳴った。
もう何度目か分からない。この体は、腹が減ると勝手に音を出す仕組みらしい。悪魔の体にはそんな機能はなかった。静かに飢え、静かに弱り、静かに消える。それが魔の領域の作法だった。
だが、この体は黙らない。
きゅるる。
「……分かっている。今から調達するニャ」
自分の腹に言い聞かせるのは屈辱だった。
ゴミ箱に近づいた。横の穴は、我の体ならぎりぎり入れそうな大きさだ。だが、穴の位置が高い。地面から我の頭三つ分くらい上にある。
跳べるか。
後ろ足に力を込めた。猫は跳躍力があると聞いたことがある。魔の領域にも猫に似た生き物がいた。あれは高いところに軽々と登っていた。
跳んだ。
届かなかった。
前足がゴミ箱の縁にかすっただけで、体はそのまま落ちた。着地に失敗して横に転がった。
もう一度。
今度は助走をつけた。三歩走って、跳んだ。
前足がゴミ箱の穴の縁にかかった。爪を立てた。ぶら下がった。後ろ足が空中でばたばたしている。
腕の力が——前足の力が足りない。ずるずると滑り落ちた。
三度目。
跳んだ。かかった。爪を食い込ませた。後ろ足で蹴った。体が穴の縁に乗った。
中を覗いた。
暗い。匂いが濃い。ビニール袋が何枚か入っている。その中に、茶色いものが見えた。
食べ物の欠片だ。たぶん。人間が残したものだろう。少し乾いている。
手を——前足を伸ばした。届かない。体をもう少し中に入れないといけない。
ずるっ、と体が滑った。
ゴミ箱の中に落ちた。
暗い。狭い。匂いがきつい。ビニール袋がかさかさと音を立てる。
食べ物の気配が、すぐそこにある。甘い匂い。粉っぽい匂い。塩の匂い。人間が食べ残したものの欠片が、あちこちに散らばっている。
……その先のことは、あまり覚えていない。
気がつくと、腹の奥に何かが落ちた感覚があった。ほんの少しだけ、体が軽くなった気がした。口の中にかすかな塩味が残っていた。
悪魔は食事をしない。魔力で生きる。味という概念を知らなかった。
だが今、舌の上にある塩味が、妙に心地よかった。
——いや。
これは戦略的摂取だ。敵地の物資を調査した結果、やむを得ず摂取しただけであり、楽しんでいるわけではない。断じて。
問題は、ゴミ箱から出られないことだった。
中は滑らかな金属で、爪がかからない。跳んでも穴の縁に届かない。体が小さすぎる。
しばらくもがいた。
ゴミ箱が揺れた。ガタガタと音が鳴った。だが、出口は見つからない。
そのとき、外から足音が聞こえた。
人間だ。
体が固まった。心臓が速く打っている。これは——恐怖だ。この体は、大きな生き物の気配を感じると勝手に怖がる。
足音が近づいた。止まった。
「……ん? なんか動いてる?」
人間の声だ。男か女か分からない。低くも高くもない声。
ゴミ箱の蓋が開いた。
光が差し込んだ。眩しい。
人間の顔が、上から覗き込んでいた。大きい。とてつもなく大きい。目が二つ。鼻が一つ。口が動いている。
「うわ、猫? 子猫じゃん。なんでこんなとこに」
我は威嚇した。——つもりだった。
「ミャッ」
出てきたのは、情けない声だった。
人間が手を伸ばしてきた。大きな手だ。我の体を丸ごと包めるほどの。
逃げた。ゴミ箱の隅に身を縮めた。毛が逆立っている。尻尾が膨らんでいる。体が勝手にそうなる。
「あー、怖がってる。大丈夫だよー」
人間はそう言って、手を引っ込めた。
しばらく覗き込んでいたが、やがてゴミ箱の蓋を元に戻して、去っていった。足音が遠ざかる。
助かった。
いや、助かったのではない。我が威嚇して追い払ったのだ。……たぶん。
結局、ゴミ箱からは別の方法で出た。ビニール袋の山を踏み台にして、穴の縁に前足をかけ、爪を立てて這い上がった。外に出たとき、太陽は随分高くなっていた。
公園にはちらほらと人間がいた。
ベンチに座っている者。歩いている者。小さな人間——子供というのだろう——が走り回っている。
遠くから観察した。
茂みの中に体を隠して、人間たちの動きを見た。彼らは食べ物を持っていた。手に持って、口に運んでいる。おにぎり。パン。飲み物。何か棒状のものを食べている者もいた。
あれが食事か。人間はあんなに堂々と食べるのか。
一人の人間が、食べていたものの残りをゴミ箱に入れた。また別の人間が、ベンチの下にパンくずを落とした。
鳩がそれを食べに来た。
鳩め。我より先に食料を確保するとは。
だが、今は鳩と争う体力はない。わずかな欠片で、とりあえず今日は持つだろう。
問題は、夜だ。
昨夜は森の中で、木の根元に丸くなって眠った。寒くて、怖くて、何度も目が覚めた。あれをまた繰り返すのは避けたい。
公園を見回した。
階段状の広場の端に、屋根のある小さな建物があった。壁はないが、屋根がある。ベンチが置いてある。東屋というものだろう。
あそこなら雨を凌げる。風も少しは防げる。人間が夜にはいなくなるなら、あそこを拠点にできるかもしれない。
我は茂みを出て、東屋に向かった。
ベンチの下に潜り込んだ。暗くて、狭くて、少し汚いが、雨は当たらない。木の匂いがする。人間の匂いもかすかに残っている。
丸くなった。
尻尾を顔に巻きつけた。初めてそうしたが、なぜか落ち着いた。尻尾の先が鼻に触れると、自分の匂いがした。子猫の匂いだ。
ここが、我の最初の拠点だ。
城と呼ぶには小さすぎる。砦と呼ぶにも心もとない。だが、屋根がある。それだけで昨夜よりはましだ。
「……これは陣地確保ニャ。戦略的撤退ではない。前進的拠点構築ニャ」
誰も聞いていない。
遠くで夕方のチャイムが鳴った。人間たちが帰り始めている。公園が静かになっていく。
明日も、あのゴミ箱から食料を調達する。もっと効率的にやる。中に落ちないようにする。あと、水は朝一番に飲みに行く。今度は滑らない。
計画はある。我は悪魔だ。計画を立てるのは得意なはずだ。
目が重くなってきた。
悪魔は眠らない。魔の領域ではそうだった。だが、この体は眠る。抗えない。まぶたが落ちていく。
最後に見えたのは、東屋の屋根の隙間から覗く、夕焼けの空だった。
赤い。
魔の領域の空も赤かったと、誰かが言っていた気がする。だが、この赤は違う。温かい赤だ。
明日も、生き延びる。
そう思った瞬間、意識が落ちた。




