第1話 水を探す
目が覚めたとき、雨は止んでいた。
木の根元に丸くなっていた。いつの間に眠ったのか覚えていない。夜の間、ずっと震えていた気がする。体が冷え切って、毛が湿ったまま皮膚に張りついている。
朝の光が、木々の隙間から落ちてきていた。
眩しい。
魔の領域には、こんな光はなかった。薄暗い灰色の空しか知らなかった。今、目に入ってくるのは白と金が混ざったような光で、木の葉の影がちらちらと揺れている。
美しい——と思いかけて、すぐに打ち消した。
我は悪魔だ。光を美しいなどと思ってはならない。
それよりも、喉が渇いている。
ひどく渇いている。昨日から何も飲んでいない。いや、昨日の記憶も曖昧だ。雨の中で倒れていた。契約を結んだ。子猫の体になった。それだけは覚えている。
立ち上がろうとした。
足が震える。四本の足で立つという行為が、まだ体に馴染んでいない。前足を突っ張ると後ろ足がふらつき、後ろ足に力を入れると前足が滑る。
二歩進んで、転んだ。
顔から地面に突っ込んだ。鼻先に土がついた。冷たくて、湿っていて、虫の匂いがする。
「……我は悪魔ニャぞ」
口をついて出た言葉に、自分で驚いた。
ニャ。
また出た。昨夜もそうだった。「悪魔だ」と言いたいのに、語尾が勝手にそうなる。この体の喉が、舌が、そういう音しか作れないようにできている。
腹立たしい。だが、今は喉の渇きの方が問題だ。
昨夜,水の流れる音が聞こえていた。あの方向へ行けば、水があるはずだ。
鼻を上げた。
匂いが、たくさんある。土の匂い。草の匂い。湿った木の匂い。鳥の匂い。虫の匂い。それから——水の匂い。冷たくて、少し石のような匂い。あっちだ。
よろよろと歩き出した。
森の地面は歩きにくかった。落ち葉が濡れていて滑る。小枝が足の裏に刺さる。肉球というのは、思ったより繊細にできているらしい。石を踏むと痛い。枝を踏んでも痛い。
悪魔の足は、もっと丈夫だった。地面など気にしたことがなかった。
だが今は、すべてが大きい。
落ちている枝が丸太のように見える。草は腰の高さまである。木の幹は見上げても頂が見えない。空が遠い。世界が、あまりにも広すぎる。
どれくらい歩いただろう。
木々が少しまばらになった。地面が土から砂利に変わり、整えられた石の道が見えた。木と木の間に、人間が作ったらしい柵がある。
公園だ。
人間の匂いがする。ただし、今は誰もいない。早朝なのだろう。ベンチが並んでいる。ゴミ箱がある。階段状の広場があり、その向こうに——
水の音。
小さな流れが、石の間を縫うように走っていた。せせらぎと呼ぶのだろう。幅は我の体の三倍くらい。浅い。石の底が透けて見える。水は澄んでいて、ゆっくりと流れている。
近づいた。
水面に、灰色の毛玉が映った。昨夜、水たまりで見たのと同じ顔だ。琥珀色の目。尖った耳。額のコブ。
飲もうとした。
前足を水際の石に乗せた。首を伸ばした。舌を出した——猫の舌というのは思ったより短い。届かない。
もう少し前へ。
石が濡れていた。
前足が滑った。
体が傾いた。止まれない。バランスを取ろうとして後ろ足を踏ん張ったが、そっちも滑った。
——ばしゃん。
水は浅い。溺れるほどではない。だが、全身がずぶ濡れになった。
冷たい。
昨夜の雨よりもずっと冷たい。体中の毛が水を吸って、一瞬で重くなる。前足を突っ張って顔を水面から出したが、体が重くて立ち上がれない。水は膝くらいの深さしかないのに、子猫の体では胸まで浸かっている。
必死にもがいて、石の上に這い上がった。
びしょ濡れだった。毛から水がぽたぽた落ちている。全身が震えている。寒い。
我は今、世界で一番惨めな悪魔かもしれない。
「……我は悪魔ニャぞ。なぜ水ごときに負けるニャ……」
誰も聞いていない。鳥が一羽、木の上からこちらを見ていた。
だが、飲まなければ死ぬ。
死なないかもしれないが、この渇きは耐えられない。水は目の前にある。さっきの失敗を繰り返さなければいい。
今度は、もっと平らな石を探した。滑らない場所。水面に近い、大きめの石。
見つけた。
そっと前足を乗せた。滑らない。体重をかける。大丈夫だ。首を伸ばす。水面が近い。舌を出す。
冷たい水が、舌に触れた。
うまい。
ただの水だ。何の味もしないはずだ。だが、乾き切った喉に水が流れ込んだ瞬間、体の奥から何かが緩んだ。
ぺちゃ、ぺちゃ、と舌が勝手に動く。猫の舌は水をすくうようにして飲むらしい。効率が悪い。こんな舌で、よく生き延びられるものだ。
だが、止まらない。
もう少し。もう少しだけ。
気がつくと、かなり長い間飲んでいた。顔を上げると、日の光が水面で揺れていた。小さな虫が飛んでいる。風が吹いて、木の葉がさわさわと鳴った。
腹が減っている。
水は飲めた。次は食べ物だ。だが、何を食べればいい。猫は何を食べる生き物なのか。虫か。鳥か。……どちらも捕まえられる気がしない。
遠くで、ゴミ箱の蓋が風に揺れていた。
人間は食べ物を捨てる。それは知っている。魔の領域から境界越しに見ていたとき、人間が食べ残しを箱に入れるのを見たことがある。
あそこに行けば、何かあるかもしれない。
びしょ濡れの体を引きずりながら、我は小川を離れた。
太陽が少し高くなっていた。体が乾き始めている。毛がふわふわと膨らんでいく。重さが少し減った。
悪くない。
いや、悪い。全部悪い。我は大悪魔になるために人間界に来たのだ。小川で溺れかけている場合ではない。
だが、水はうまかった。
それだけは、認めてやらないこともない。




