ライジングファング
その世界では、雷は空から落ちてこなかった。
大地の底から、黒い炎をまとって噴き上がった。
夜空を裂くはずの稲妻は、地面から伸びた黒炎の柱に絡みつき、燃えながら天へ昇っていく。雷でありながら炎であり、炎でありながら、触れたものの記憶と霊格を焼き尽くす異形の輝き。
それを、人々は「黒雷炎」と呼んでいた。
黒雷炎が現れた土地では、山がひとつ消え、河川が逆流し、死者の影が生者の姿を奪って歩き始める。街の外壁には、巨大な爪跡が刻まれていた。
その爪跡の中心で、黒い竜が咆哮していた。
名は、黒雷炎バザロ。
かつては、一体の超龍種に過ぎなかった。
センチネンクルスを喰らい、後天的な超越者たちの権能を奪い、強奪した力を自らの竜種として昇華させる。それが超龍種の本質である。彼らは神ではない。始原から神格を持って生まれた存在ではなく、他者から奪った可能性を食らい、積み重ね、やがて神をも喰らう龍へ至ろうとするものだ。
しかし、バザロはすでに、その境界を越えかけていた。
その背には、七本の黒い角が生えていた。
角の一本一本に、喰らったセンチネンクルスの権能が刻まれている。炎を司った者の角。時を遅らせた者の角。死者の影を操った者の角。そして、雷を裁きの鎖へ変えた者の角。
七本目の角が完成すれば、バザロは竜神になる。
神格を得て、奪ったすべての権能をひとつの霊格へ統合する。
その瞬間、黒雷炎はこの世界だけでなく、三つの世界を繋ぐ世界線の根へ到達するだろう。
巨樹の世界。
浮遊島の世界。
動く影に覆われた現在世界。
そのすべての分岐が、バザロの餌になる。
「なるほど。随分と大層な化け物になったものだな」
崩れた街道の上で、無銘の雷神は言った。
彼の前方には、黒雷炎の向こうにそびえる巨竜の姿があった。雷神の名は、すでに失われている。神々が記録から消し、本人も名乗ることを捨てたためだ。
だが、名を失ったからといって、力まで失ったわけではない。
むしろ、無銘となった彼の雷は、いかなる神格にも縛られない。法則にも、信仰にも、神々が定めた権能の系譜にも属さない。
だからこそ、彼は無銘の雷神だった。
「大層どころじゃない」
隣に立っていたフレイ・アン=クロスロードが、黒い剣を構えた。
剣の形をした竜の権能、ドラゴンファング。
刃はすでに、バザロの黒炎を見ただけで脈動していた。まるで獲物の匂いを嗅ぎつけた竜が、口の中に牙を生やしているようだった。
「あと少しで竜神になる。そうなれば、あいつはこの世界の権能だけじゃなく、世界線そのものを喰らえる」
「ならば、あと少しになる前に斬ればいい」
「簡単に言うな。あれは俺たちが今まで倒してきた超龍種とは違う」
「簡単なことを難しく言うな。お前が喰らい、俺が砕く。それだけだ」
無銘の雷神は、空を見上げた。
空には雲がない。
雷を落とす場所はなかった。
だが、彼にとって雷とは、空から降るものだけではない。雷とは、因果の隙間を駆ける意思であり、世界の矛盾を一瞬だけ露出させる刃だった。
「俺の雷は、あれの中にある七つの角を引きずり出す」
「その間、俺が黒雷炎を喰らう」
「喰らいすぎれば、お前がバザロになるぞ」
「わかっている」
フレイは答えた。
彼の中には、すでに数多くのものが残っている。
ウルティノア・アルヴァルトの記憶。
ミカエルの再臨として宿った権能の残滓。
世界線を越えるために命を失った仲間たちの想い。
そして、ドラゴンファングによって奪い、昇華した敵の力。
捕食進化は、単純な強奪ではない。
喰らった相手を消すのではなく、自分の中に残したまま、別の意味へ変える。だからこそ、力を得るほど、自分以外の存在が己の内部に増えていく。
バザロは、喰らったものを完全に消化しようとした。
だから七つの角を得た。
だが、消化された者たちの記憶や恐怖や憎悪は、黒雷炎の中で腐り、竜の狂気へ変わっている。
フレイは、それを理解していた。
あの竜は、強いのではない。
喰らったものすべてに、喰らわれているのだ。
バザロが頭をもたげた。
「また来たか、神の残骸」
声は、ひとつではなかった。
数百の声が重なり、地面を揺らす。
「無銘の雷神。かつて神格を失い、なおも神のふりをする者。お前の雷も、いずれ我が喰らう」
「神のふりをしているつもりはない」
雷神は、口元を歪めた。
「俺は最初から、神々の言うことなど聞いていない」
その瞬間、彼の足元から雷が弾けた。
空ではなく、大地でもない。
無銘の雷神の影から、無数の稲妻が立ち上がった。
雷は一本ずつ異なる軌道を描き、バザロの周囲を取り囲む。竜は黒炎を吐き出した。炎は雷を焼き、焼かれた雷は黒い蛇の形になって地面へ落ちる。
だが、雷神はすでにその場にいなかった。
彼はバザロの背後に現れ、竜の七本の角へ向けて拳を振り抜いた。
轟音が響く。
拳そのものは角に届かなかった。
しかし、雷は角の内部へ侵入した。
権能と権能の接合部。超龍種が奪った力を、自分の霊格として固定している継ぎ目。その一点を、雷神は正確に撃ち抜いた。
「今だ、フレイ!」
「言われなくても!」
フレイが駆けた。
ドラゴンファングが黒い光を帯びる。
最初の角から、巨大な炎の塊が剥がれ落ちた。炎は人の姿を取り、無数の腕を伸ばしてフレイを掴もうとする。
センチネンクルスの残滓だった。
かつて誰かが持っていた権能。バザロに喰われ、黒炎の一部へ変えられた可能性。
フレイは刃を振るった。
ドラゴンファングが炎を喰らう。
瞬間、彼の全身を熱が駆け抜けた。皮膚が裂け、血が蒸発し、視界が赤く染まる。
炎は、彼の内部で暴れた。
焼け。
燃えろ。
すべてを灰にしろ。
そんな声が、彼の魂の奥から響いた。
フレイは、歯を食いしばった。
「お前は、俺の力にはならない」
炎が、さらに彼の腕を焼いた。
「俺が、お前の意味を変える!」
彼は炎を押さえ込んだ。
破壊の熱を、前へ進むための推進力へ。
憎しみを、敵を見失わないための鋭さへ。
焼け落ちることを、再び立ち上がるための火種へ。
ドラゴンファングの刃に、赤い亀裂が走る。
次の瞬間、フレイの斬撃がバザロの第一の角を断ち切った。
竜が絶叫した。
「返せ! それは我が奪った力だ!」
「だから返さない!」
フレイは、斬り落とした角をドラゴンファングへ吸収させた。
剣の刃に、赤黒い炎が宿る。
だが、フレイの身体にも異変が現れた。右腕の皮膚が黒い鱗に変わり、瞳孔が縦に裂ける。
「フレイ!」
雷神が叫ぶ。
「まだだ!」
フレイは自分の腕を見た。
竜の鱗。
炎の血。
魂に入り込んだ、他者の飢え。
それらは彼を変えようとしていた。
しかし、彼はそれを拒まなかった。
「俺は、喰らったものを消さない。けど、俺が何になるかは俺が決める」
彼は右腕を握りしめた。
「俺は竜神になるために喰うんじゃない。こいつを止めるために、こいつの力を使う!」
その言葉に、ドラゴンファングが高く鳴いた。
それは剣の音ではなかった。
竜が、契約者の意志を認めた咆哮だった。
バザロが翼を広げた。
地上の黒炎が一斉に空へ昇り、巨大な雷雲を作り出す。そこから、黒い稲妻が雨のように降り注いだ。
雷神は両手を広げた。
「黒い雷なら、俺の方が詳しい」
「お前の雷は白くないのか?」
「色など、どうでもいい」
無銘の雷神の周囲で、稲妻が渦を巻く。
「雷は、落ちるものだ。黒かろうが、赤かろうが、神のものだろうが、竜のものだろうがな」
彼は地面を踏み抜いた。
世界の地脈が鳴動した。
雷神の雷が、降り注ぐ黒雷炎と正面から衝突する。空中で二つの雷が絡み合い、巨大な螺旋となった。
黒雷炎は、雷神の記憶を喰らおうとした。
水神に返せなかった借り。
無名になる前に失った神格。
世界を三つに裂いた過去。
パルラ・メウ=ポポウーへ語れない罪。
黒炎は、それらを焼いて奪おうとした。
雷神の顔から、初めて余裕が消えた。
自分の過去は、奪われても構わない。
しかし、そこに他者の名を混ぜられることだけは許せなかった。
雷神は叫んだ。
「俺の罪を喰らうのは構わん!」
雷が黒雷炎を押し返す。
「だが、ヤツの借りまで持っていくことは許さん!」
雷神の稲妻が一つに束ねられた。
無銘の雷。
名を持たず、誰の権能にも属さず、ただ彼自身の意思だけで発生する雷。
それは黒雷炎の雲を貫き、バザロの七本目の角を直撃した。
角が割れる。
竜神化のために集められた霊格が、空中へ流れ出す。
「フレイ!」
「任せろ!」
フレイは走った。
バザロの頭部へ向かって、黒炎の海を踏み越える。炎は彼の身体を焼き、竜の爪が肩を裂き、飛び散った血が空中で燃えた。
それでも彼は止まらない。
ドラゴンファングが、失われた角の権能を吸収して膨れ上がる。刃はもはや剣という形を保てず、巨大な竜の顎へ変わっていく。
フレイは、両手で柄を握った。
「喰らえ、ドラゴンファング!」
竜の顎が開く。
バザロの七本目の角、その中心にある未完成の神格を、刃が噛み砕いた。
竜神になる寸前まで積み上げられた権能が、ドラゴンファングへ流れ込む。
世界が揺れた。
巨樹の世界で、最上層の枝が震えた。
浮遊島の世界で、島々の影が逆方向へ動いた。
現在世界では、動く影たちが一斉に空を見上げた。
バザロの咆哮が、三つの世界を駆け抜けた。
「我は、神になるはずだった!」
フレイの腕の鱗がさらに広がる。
竜の権能が、彼の内部を満たしていく。
膨大な力だった。
このまま受け入れれば、彼は新たな超龍種となる。バザロの代わりに、竜神へ至る可能性さえある。
だが、フレイは刃を止めなかった。
「神になることが、お前のすべてだったのか?」
「当然だ!」
「なら、お前は最後まで自分を持てなかったんだな」
フレイはドラゴンファングを引き抜いた。
「俺は、神になるために戦ってるんじゃない」
刃の中で、バザロの黒雷炎が赤い火へ変わる。
「俺の仲間が繋いだ道を、俺自身の足で歩くために戦っている!」
彼は最後の一撃を振り下ろした。
黒雷炎バザロの身体が、頭部から尾まで裂けた。
だが、血も肉も飛び散らない。
竜の巨体は無数の黒い火花となり、その一つ一つが喰われたセンチネンクルスたちの失われた可能性へ戻っていく。
バザロは、最後に一度だけフレイを見た。
その瞳には、初めて恐怖があった。
神になれなかった恐怖ではない。
自分が何者でもなかったと知る恐怖だった。
「我は……何を喰らっていた……」
「お前が忘れたものだ」
フレイは答えた。
「他者の力を奪っても、自分の空白は埋まらない」
バザロは崩れた。
黒雷炎が消える。
空に残った雲も、地上に伸びていた炎の柱も、すべてが静かに消滅していった。
戦場には、焼け焦げた大地と、深い沈黙だけが残った。
フレイは膝をついた。
ドラゴンファングを支えにして、ようやく立っている。
彼の右腕は、まだ竜の鱗に覆われていた。
「戻せるのか、それ」
無銘の雷神が尋ねた。
「わからない」
「なら、喰らいすぎたな」
「そうかもしれない」
フレイは、刃を見た。
ドラゴンファングの内部で、赤い炎と黒い雷が静かに渦巻いている。黒雷炎バザロの権能は、完全には消えていなかった。
消す必要もなかった。
それは、フレイの中で新しい意味を持ち始めていた。
破壊の炎ではなく、立ち上がるための炎。
奪う雷ではなく、道を切り開く雷。
「お前は、今の一撃で竜神になりかけた」
雷神が言った。
「ならなかった」
「なぜだ」
フレイはしばらく黙っていた。
やがて、ドラゴンファングを肩に担ぐ。
「俺は、一人で神になりたいわけじゃないからな」
刃が笑みを浮かべるように煌めく。
無銘の雷神は、ほんのわずかに笑った。
「愚かな答えだ」
「よく言われる」
「だが、嫌いではない」
遠くで、雷が鳴った。
今度の雷は、空から落ちてきた。
黒くもなく、赤くもない。
ただ、次の戦いが始まることを告げる音だった。
フレイは歩き出す。
竜神になり損ねた超龍種の残滓を背負い、ドラゴンファングを携え、仲間たちの待つ場所へ向かう。
その隣を、無銘の雷神が歩いていた。
二人の影が、焼けた大地の上で並ぶ。
一方は、名を捨てた雷。
もう一方は、竜の牙を得た転生体。
神にはならなかった。
しかし、神を超えるために戦うのでもなかった。
ただ、奪われた可能性を取り戻し、誰かが繋いだ明日へ進むために。
ドラゴンファングの刃が、朝焼けを受けて輝いた。
それは竜の牙ではなく、彼自身の意志が昇る光だった。




