ドラゴンファング
その世界では、夜が二度訪れる。
一度目の夜は、空から降りてくる。
太陽が沈み、世界の輪郭が黒に溶け、森も街も山も、すべてが本来の姿を隠す。人々はそれを普通の夜と呼んでいた。火を灯し、扉を閉め、家族の声を確かめながら眠りにつく。
二度目の夜は、大地の底から訪れる。
それは空を暗くしない。むしろ、空は昼のように明るいままだ。だが、地面の下で何かが目を覚ます。影が地表から剥がれ、建物の壁を逆さに這い、木々の根を喰らい、歩く者の足元へ音もなく忍び寄る。
その夜が訪れるたび、世界のどこかで一人が消えた。
記録には残らない。
名簿から名が抜け落ち、家族の記憶から顔が消え、本人が生きていたという事実だけが、最初から存在しなかったように削り取られる。
フレイ・アンクロス=ロードは、その現象を追っていた。
彼は、かつてウルティノア・アルヴァルトだった存在の転生体である。
ただし、彼は自分がウルティノアであることを、最初から理解していたわけではない。
幼いころから、彼の夢には白い回廊が現れた。無数の扉が並ぶ長い廊下。その向こう側には、世界を見下ろす巨大な右腕があった。腕は星々を掴み、運命を並べ替え、死者の声をひとつずつ沈黙させていく。
夢の中で、声が言う。
――戻れ。
――正しさを取り戻せ。
――お前は、すべてを統べるために生まれた。
けれど、フレイはその声に従わなかった。
彼の中には、ウルティノアの記憶のすべてが戻っていたわけではない。ミカエルの呪縛から逃れた際、仲間たちは彼の魂を無理やり世界線の外へ引きずり出した。誰かは自分の命を差し出し、誰かは肉体を失い、誰かは二度と故郷へ戻れなくなった。
その代償によって、フレイは生まれ変わった。
彼は、ミカエルの光を宿していない。
正確には、光の根は残っている。だが、それを命令する声がない。世界を一つの秩序へ固定しようとした意志から切り離され、彼はただ、自分が何を選ぶのかを決めるために歩いていた。
その旅の途中で、彼は仲間たちと別れた。
別れたのではない。
世界線を越えるために、彼らがそれぞれ別の門をくぐったのだ。
再会できる保証はなかった。それでも彼らは、フレイを追った。
ミカエルの呪縛から解き放たれたウルティノアが、どこかの世界で再び立ち上がることを信じて。
そして、フレイはこの世界に辿り着いた。
そこに、黒小人――ドヴェルグの一族がいた。
ドヴェルグは、始原の世界には存在しなかった。
正確には、始原の世界から世界線が分岐した後、わずかな可能性の中でのみ生じた種族だった。大地の底に住み、鉱脈ではなく、世界の分岐そのものを掘る者たち。
彼らの炉は鉄を熔かさない。
失われた歴史を熔かす。
彼らは、世界線の間に残された「もしも」の残骸を集め、剣や鎧、指輪、あるいは一族の記憶を鍛造する。彼らの身体が黒いのは、光を嫌ったからではない。幾度も世界の終わりを見届け、その煤を皮膚の下に蓄積した結果だった。
フレイが初めてドヴェルグの工房を見たとき、そこには空がなかった。
天井の代わりに、巨大な岩盤が広がっている。その岩盤の向こうには、いくつもの世界が透けて見えた。巨樹の枝に吊るされた村。浮遊島の間を渡る船。影に覆われた都市。そして、それらすべてを遠くから覗き込む、白い目。
フレイは、その目に見覚えがあった。
ミカエルの呪縛が、まだ完全には死んでいない証だった。
「お前は、あれに見つかる」
声をかけたのは、一人のドヴェルグだった。
背は低い。人間の腰ほどしかない。だが、肩幅は広く、片目には赤い鉱石が埋め込まれている。白髪の髭は腰まで伸び、髭の先には小さな鎖と歯車が結ばれていた。
「見つかる、とは?」
「追われる。お前を連れ戻したいものがいる。お前を壊したいものもいる。お前を喰らって、神になりたいものもいる」
「最後のは、もう慣れている」
フレイが答えると、ドヴェルグは笑った。
「慣れるものではない。喰われることに慣れた奴は、最後には自分から口を開く」
「あなたは何者だ」
「黒小人の鍛冶師だ。名はグローム。お前たちの世界線では、たぶん存在しない」
「たぶん?」
「世界は、存在しないものの数の方が多い。お前もそうだろう」
その言葉に、フレイは黙った。
自分は確かにここにいる。血も流れる。腹も減る。仲間を思い出せば胸が痛む。
それでも、彼は「存在しないはずだった」。
ウルティノア・アルヴァルトという一人の現人神が、ミカエルの再臨としてではなく、別の可能性として生き残るために生まれた転生体。それがフレイ・アンクロス=ロードだった。
グロームは彼を炉の前へ案内した。
炉の中には、炎ではなく、巨大な竜の瞳があった。
瞳の中央に、一本の剣が浮かんでいる。
刃は黒かった。
だが、完全な黒ではない。深い紫と赤の筋が刃の中を流れ、まるで血管のように脈動している。鍔には竜の顎が造形され、柄には鱗が巻きついていた。
その剣は、剣の形をしていた。
しかし、剣ではなかった。
見ているだけで、フレイの魂が震える。刃の周囲には空間を削る圧力があり、炉の中にありながら、周囲の鉄や石を「食べて」いた。触れていないものの性質を読み取り、自らの内部へ取り込んでいる。
「ドラゴンファング」
グロームが言った。
「竜の権能そのものを、剣という形に偽装したものだ」
「偽装?」
「竜の権能は、道具の中には収まらない。だから形だけを剣にする。刃があるのではない。竜が、刃という概念を選んでいるのだ」
フレイは剣から目を離せなかった。
「なぜ、これを俺に?」
「俺たちが作ったわけではない」
「では、誰が?」
「お前だ」
その答えに、フレイは眉をひそめた。
グロームは炉の奥を指差した。
「正確には、今のお前ではない。お前が生まれる前、お前の魂に残っていた可能性のひとつだ。ミカエルの権能に奪われ、神格の残骸に埋め込まれ、何度も世界線を越えた。俺たちはそれを拾った」
「俺の中に、竜の権能があった?」
「竜の権能ではない。竜になりうる可能性だ」
グロームは、炉に黒い粉を投げ入れた。
すると、炎の中の竜の瞳がゆっくりと閉じた。
「ドラゴンファングは、契約した者に、扱うだけふさわしい力を与える。強すぎる者に力を与えるわけではない。力を与えた後、それを扱える存在に変える」
フレイは、剣の柄に手を伸ばした。
「どうやって?」
「捕食進化だ」
その言葉は、空気を重くした。
「竜種の権能。強奪と昇華を合わせた独自の概念だ。敵の力を奪うだけではない。喰らった権能を、お前自身の存在に合う形へ変える。炎を喰らえば、ただ火を吐けるようになるのではない。お前の魂に必要な炎へと昇華する。呪いを喰らえば、それを打ち消すのではない。呪いを、お前の武器へ変える」
「つまり、奪ったものに奪われる危険もある」
「そうだ。捕食とは、相手を消すことではない。相手を自分の中に残すことだ」
フレイは、自分の胸に手を当てた。
ミカエルの光。
ウルティノアの記憶。
仲間たちの犠牲。
この世界に来るまでに見た無数の死。
すでに彼の中には、多すぎるものが残っている。
「俺がこれを使えば、何かを失うのか」
「失うのではない。増えるのだ」
グロームは答えた。
「増えすぎれば、お前でなくなる」
そのとき、工房の外で大きな音がした。
岩盤が震え、天井から黒い砂が降る。遠くで、何か巨大なものが吠えた。音は空気を伝わらず、フレイの骨の中から響いた。
「来たか」
グロームが呟く。
「何が?」
「お前を喰らいに来たものだ」
工房の壁を、巨大な爪が突き破った。
黒い鱗に覆われた頭部が、地底へねじ込まれる。その口には炎ではなく、無数の文字が渦巻いていた。喰らったセンチネンクルスの能力を、歪んだ権能として吐き出している。
超龍種。
後天的超越者を喰らい、霊格を上昇させ、龍神へ至ろうとする原種の竜。
その個体は、フレイを見て笑った。
「ミカエルの残り香……。神威の右の器……。喰らえば、我は世界線を支配する」
フレイは、ドラゴンファングの柄を握った。
冷たい。
だが、その冷たさの奥に、何かがいる。
竜の意志。
剣の形をした飢え。
そして、フレイを測る無数の眼差し。
「やめておけ」
グロームが言った。
「その竜は、お前が一度でもためらえば、お前の中へ入り込む」
「なら、ためらわなければいい」
「簡単に言うな。お前は、奪うことを恐れている」
フレイの脳裏に、仲間たちの姿が浮かんだ。
命を代償に自分を逃がしてくれた者。
世界線の裂け目に消えた者。
最後まで、彼をウルティノアと呼ばず、フレイと呼んだ者。
彼らの力を、自分のために使うことは許されるのか。
彼らの記憶を、刃に変えることは、裏切りではないのか。
超龍種が口を開いた。
「迷いごと喰らおう」
その瞬間、フレイは剣を抜いた。
ドラゴンファングが吠えた。
金属の音ではない。
世界の始まりから続いてきた、竜の飢えの咆哮だった。
超龍種の爪が振り下ろされる。
フレイは刃を合わせた。
衝撃によって工房の床が割れ、黒い岩盤の向こうに別の世界が露出する。巨樹の枝が見え、浮遊島の影が見え、現在世界を覆う動く影が見えた。
三つの世界が、同時にこちらを見ていた。
超龍種の爪から、無数の権能が流れ込んでくる。
熱。
毒。
呪詛。
喰らったセンチネンクルスの絶叫。
フレイの腕が震える。自分の中へ異物が入り込もうとする。力を奪うだけなら、まだ耐えられた。
だが、ドラゴンファングはそれを変えようとしていた。
炎は、彼を焼く炎ではなく、彼が前へ進むための熱へ。
毒は、身体を壊す毒ではなく、敵の権能を腐らせる刃へ。
呪詛は、彼を縛る言葉ではなく、ミカエルの命令を切り裂く音へ。
奪ったものが、彼の中で別の意味を持ち始める。
それが捕食進化だった。
フレイは叫び、刃を押し返した。
「俺は、お前の神にはならない!」
ドラゴンファングが超龍種の爪を喰らった。
黒い鱗が刃へ吸い込まれ、竜の権能が引き剥がされる。超龍種は絶叫した。自分が長い年月をかけて奪い集めた力が、他者の中で新しい形に変わっていく。
「返せ! それは我のものだ!」
「違う」
フレイは刃を振り抜いた。
「お前が奪ったものだ。だから、俺が奪い返す」
斬撃が走った。
超龍種の身体に、一本の黒い線が刻まれる。そこから光が噴き出した。喰われていたセンチネンクルスたちの権能が、魂の残滓となって空中へ解放されていく。
竜は崩れた。
完全には消滅しない。だが、神へ至るための力を失い、ただの巨大な獣へと落ちていく。
グロームは、燃え尽きた炉を見つめていた。
「契約は成立した」
フレイの手の中で、ドラゴンファングが脈打つ。
「お前は剣を手に入れたのではない。剣に喰われる権利を得たのだ」
「ずいぶん物騒な祝福だな」
「祝福ではない。竜との契約だ」
フレイは刃に映る自分の顔を見た。
そこには、ウルティノアの面影があった。
しかし、もうミカエルの器ではない。
神の再臨でも、神格の残骸でもない。
奪った力をどう昇華するか、自分で選ぶ者の顔だった。
そのとき、工房の入口に複数の人影が現れた。
世界線を越えてフレイを追ってきた仲間たちだった。傷つき、疲れ果て、それでも全員が立っている。
その中の一人が、ドラゴンファングを見て息を呑んだ。
「それは……何?」
フレイは答えた。
「竜の権能だ」
彼は刃を地面へ向けた。
遠くで、ミカエルの白い目が閉じる。
彼らの存在を探していた呪縛が、一瞬だけ途切れた。
「そして、俺がこれから喰らって、俺のものにする力だ」
グロームは、彼らを見送るために工房の門を開いた。
「行け、フレイ・アンクロス=ロード。世界線は、お前を拒むだろう。神々は、お前を取り戻そうとする。超龍種は、お前を喰らおうとする」
「それでも行く」
「なぜだ」
フレイは少し考えた。
答えは、以前の自分なら「世界を救うため」と言ったかもしれない。
ウルティノアなら、すべての命を正しい場所へ戻すためだと答えたかもしれない。
だが、今のフレイにとって、それは違った。
「俺を追ってきた奴らがいるからだ」
仲間たちが彼の隣に並ぶ。
「なら、彼らが無駄にならない世界を探す」
ドラゴンファングが、低く唸った。
黒小人の工房の奥で、まだ見ぬ竜の瞳がひとつ、ゆっくりと開いた。
世界線分岐によって生じた、数少ない可能性の世界。
そこにしか存在しないドヴェルグの一族は、フレイへ最後の言葉を送った。
「覚えておけ。捕食進化とは、強者になることではない」
グロームは、煤けた指で自分の胸を叩いた。
「喰らったものを、なかったことにしないことだ」
フレイは頷き、仲間たちと共に門をくぐった。
その背中に、ドラゴンファングが寄り添う。
剣の形をした竜は、彼の魂を喰らいながら、同時に彼の可能性を育てていた。
そして遠い世界のどこかで、無法の雷神とパルラ・メウ=ポポウーは、まだフレイの名を知らない。
だが、彼らの旅はすでに同じ一点へ向かっていた。
神々が隠した過去。
センチネンクルスの生まれた理由。
ミカエルの再臨を巡る、時冠の世界の分岐。
その中心で、竜の牙を携えた転生体が、初めて自分自身の未来を喰らい、昇華しようとしていた。




