吸血姫
悪寒とは程遠い、肌に受け止めた純粋な緊張感が体を勝手に反応させる。
直ぐ後、私がさっきまでいた場所に黒い塊が音もなく降り立った。纏う青色の魔力、その下から感じるのは睨めつけるような視線。
上手だ、エレントラントの兄よりもずっと。
「援護を呼んだ覚えは無いんだが。まぁいい、そっちは任せた!」
「……」
ただ無言で、立ち尽くす姿は亡霊の様。しかしそのうちに燃える炎は本物だ。そこに居るだけで悲しみと怒りを振り撒いている。
月が雲に陰った、刹那。
間合が詰められる。目と鼻の先に居るのは人型の化物だ。
これまでの戦闘で、ここまで寒気が奔るのは今までなかった。底なしの穴より深く、星月の無い夜より暗い雰囲気に呑まれそうになる。
何かを囁くように口が動いた。恨みと呪いを一杯に詰め込んだそれは、聞こえずとも分かってしまう。
『荊に沈め』
零距離から放たれた鋭い鉄拳に呻く。腰が引けて思わず半歩さがった。その隙間も逃さず詰められる。
一撃、二撃、型もなくただ力に任せた三撃。反撃すら出来ぬままに四撃。崩れた守りの上から五撃、拳の雨が降り注ぐ。
埒が明かない。何より肉弾戦は得手としないのだ、だから。
闇の塊が立つ、その足元が盛り上がった。
屹立し始める太い茨を、惑うことない足取りで避ける。仕切り直しと言わんばかりに後ろに高く跳んだ。
次、拳のラッシュが来たらひとたまりもない。あの剣があってこその戦闘スタイルだ、だというのに。
そういえばエレントラントはどうした。こちらに集中しすぎてしまった。彼女にとっては相対する兄こそ強敵の筈。
視界の端、ギリギリ捉えた彼女は今にも倒れそうで。
「エレン!」
振り返った顔は青い、魔力の欠乏か。抜刀していないとはいえ、あの剣は周囲から常に魔力を吸い上げる。それは人体であっても例外でない。
そして彼女の得意分野は遠距離砲撃と近距離格闘。後者に関しては肉体強化で魔力を使う。いつしか彼女は言っていたのは、強化は常時連続して掛ける必要がある、と。
敗れた服の袖から覗く肌には傷が。幸い骨までは逝っていないからと無理矢理動かすように構えた腕。
創傷立ちどころに癒えてゆく。否、あれは表層を繕っているだけだ。筋は繋がりきっていないし、傷の形をした黒い塊が皮膚の下で膨れている。
戦闘と回復、強奪される魔力。魔力不足は消費を抑えて自然回復を待てば大抵どうにかなる。しかし、尽きるまで使い込んでしまったら最悪、命を落とすことになりかねない。
「余所見を、するな」
耳元へ掛かる冷たい言葉に身の毛がよだつ。振り向くまでもなく吹き飛ばされた。臓物全て口から飛び出そうな衝撃に、足元が覚束なくなる。
「ユリアーナ、まだ戦える?」
背に、温もりのある言葉を聴いた。いつもの声に心の底から安堵する。まだ大丈夫、一緒なら。
荊を伸ばし、彼女の腰に提げられた剣を抜刀した。ズルリ、引き抜かれるような、背筋を昇るいつもの感覚。
膝が着きそうになるのを堪え、地面に立ち尽くす。時期に吸い取られた魔力は戻ってくるそれまで―――
戦ぐ風、咄嗟に剣を翳した。鋼を穿つ程の衝撃に体が震える。
「休む暇に、思い出せ」
目前のシルエットに重なるのは、私の深くに横わる重い闇とその奥に居座った誰か。
思い、出せない。私は知らない。けれど何かが引っかかる気がするのだ。
「問おう、貴様は」
あれは、もしかしたら私ではないだろうかと。
「何者だ」
重く、鋭い正拳が腹に突き刺さる。それが答えか。
一瞬の交錯、フードの陰に目線を潜り込ませて見えたのは唯一つ、光の無い瞳だった。
嗚呼、あれは違う。残念なことに私ではない。
どうして残念なのか、自分でも分かっていないけれど確かに、そう思ったのだ。
吸い取られた魔力が戻ってきた、ふらついていた足がしっかり地面を踏みしめている。
背中に温かい重みを感じた、エレンだ。上下する体から、辛うじて意識を保っているのが分かる。
「ごめん…もう、無理そう」
絶え絶えの声は、一瞬にして安心感を拭ってしまう。
殺らせるものか、エレン越しに見た敵は健全とした様子で立っている。忌々しい笑みを張り付けた顔には掠り傷一つ付いていない。
剣先で手の皮に傷を入れた。鋭い痛みと共に紅が膨れる様に溢れ出る。
「エレン、これ」
私の命の一片を、貴方に。何が不思議なのか、垂れ落ちる血をまじまじ見つめている。
「早く!」
思い出したように呼吸し始めた彼女はまるで、飢えた猛獣のよう。腕に爪を食い込ませて啜る様などが正にそれだ。
…流石にもう十分だろう。事実、頬は上気し傷もすっかり癒えているのだから。
少し強く揺すった、やはりしがみ付いている。しっかり握りしめられた手を引き剥がした。するとどうしたことだろうか、そこには。
荒く息を吐き、一言も発さぬまま耳まで真っ赤にしたエレンがいたのだから。




