第七章
目が覚めるとそこは病院の真っ白な天井……ではなかった。そうだ。今回は病院の麻酔ではなく、愛と訪れたラブホテルで意識が途絶えたのだった。しかし、病院じゃなくとも目に映る天井は、非常に見覚えのあるそれだった。ここは僕の部屋だ。どうやら僕は狭い城の牢獄に戻ってきてしまったらしい。
「緊急停止スイッチは、普通に生活していては絶対触れないような場所に付いているの……あなたたちがどこでなにをしていたのかについては、あえて聞かないわ」
「すみません。そうしてもらえると助かります……」
愛さんと、母さん? 完全に混ぜるな危険の取り合わせに加え、緊急停止スイッチ? いったい、なんの話をしているんだ。なんの……胸騒ぎを通り越して激しい動悸が襲い来る。僕は目覚めたのを悟られないよう、震えそうな息を押し殺し、もう一度目を閉じた。
「あなた、この子とお付き合いしているそうね? それは全て知ったうえ、覚悟のうえってことでいいのかしら?」
「はい、もちろんです。賢太さんがAIを搭載したアンドロイドだということも、17歳までしか生きられないことも、わかったうえで近づきました。好きなので」
「そう。なら私は、ずいぶんと余計なお世話を焼いてしまったようね」
「そうですね。お母さまにもなにかしら事情があったとは理解してますけど……正直、転校に関しては許してません。私たちの、残された大切な時間をよくも」
「……ごめんなさい。申し開きするつもりはないわ」
待て。本当に、なんの話をしている?
僕が、AI? アンドロイド? ここまではギリギリ、本当にギリギリだけど、理解できる。……17歳までしか生きられない、って?
もしかしてまだ夢を見ているのだろうか。ならどこからが夢? この手に残る愛の身体の感触は? 匂いは? 体温は? 網膜に焼き付いた表情は?
はっきりと覚えている。忘れるはずがない。だってこの二か月半近く、あんなにも求めてやまなかったものを、ようやく手に入れたはずだったのだから。
というか、そうだ。逃げないと。新幹線で終点まで。愛はAIで、なぜか母は僕と愛やその周囲の人たちを隔離したがっていて、母はAIの研究をしていて、だから、母の目が届かないところまで逃げなきゃで。こんなところにいる場合じゃない。……そう約束したじゃないか、愛さん。なんで君がその母さんと一緒にいるの? 母さんも、普段の態度はどこへやったの? なんでそんな辛そうな声してるの?
「ちょっと待って」
頭のすぐ近くで母の声がする。なぜか見たこともない、青ざめた顔の母が頭に浮かんだ。続いて、耳の裏を無造作に探る冷たい指の感触。
「起動ランプが付いてる……あなた、起きているの?」
「! 嘘。せ、先輩?」
嘘、はこちらのセリフだ。嘘であってくれ、なにもかも。おそるおそる薄目を開けた僕の視界には、心配そうにのぞき込む二人の顔があった。愛なんてほとんど泣いている。ねぇ、なんの涙だよ、それ。
「どこから聞いてたの?」
母が淡々と僕に確認する。いつも病院でサヴァン症候群の検査をしている人たちと似た声のトーンだ。似ているけど、少しだけ震えていた。僕は質問に正直に答える。
「『緊急停止スイッチは、普通に生活していては絶対触れないような場所に……』ってところから」
「……もう隠し通すのは無理そうね。阿良々木さん。申し訳ないけれど、少しだけ席を外してくれないかしら。全て説明するのが私の義務だから」
愛は一瞬不安と不服が混じったような顔をした後、「わかりました」と言って部屋を出ていく。助けを求めるようにその背中に視線を送るが、彼女が振り返ることはなかった。
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起き上がってベッドの縁に腰掛ける。まだ頭がぼーっとする。やはり麻酔の後とそっくりだ。唯一違うのはいつもより身体が重い。というより、いつも麻酔の後はなぜか身体が軽くなっていたのだ。今にして思えば、それも兆候だった。
「ちょっとだけ待ってちょうだい」
母が僕と向き合い、正座した膝の上でノートパソコンを開く。
「あ、あの、なにしてるの? 母さん」
動作不良、なし。損傷部位、視認できず。母はブツブツとつぶやきながらパソコン画面に逃げる。カタカタ……カタカタ……キーボードで僕の大嫌いな音を立てながら。
「なにしてんだって聞いてんだよっ!!」
手でパソコンを力任せに払いのけると、壁まで吹き飛び、ガシャンと派手な音を立てて床に転がった。母は拾う素振りすら見せず、観念したように静かに口を開き始めた。
「……国を挙げた壮大なプロジェクトだったの。『AIは感情を持ちうるか』、それを研究するための。私は研究のリーダーを任されていた。極めて人体に等しい、成長するアンドロイドの開発に成功し、脳に人工知能、つまりAIを埋め込んだ。それが16年と358日前の1月1日」
「……」
「『AI治験体一号・愛知賢太』。私の仕事は、母親の代わりとしてあなたを育て、感情が宿るかを調査することだった」
なにを言っているのかわからない。わかりたくない。脳が――母が言う人工知能とやらが、理解を拒否している。約17年間僕の母として振る舞っていた女は、無慈悲にも口を閉じる気配はない。
「治験体本人にはAIであることを知らせず、人間としての生活を与える。ただ、AIの脳は普通の人間とは違う。あらゆることを学習し、忘れない。だから『サヴァン症候群に伴う極めて優れた記憶能力』であると説明した。そしてその研究のためという名目で毎月一回、病院と偽った研究施設で唾液や心拍等を測定し、感情の成長を調べる材料としていた。また麻酔と称して一時的に機能停止させ、肉体のメンテナンスも行っていた」
目の前の女は必要最低限の情報だけを淡々と並べていく。すると脳は僕の意思を無視し、勝手にあらゆる疑問の答え合わせをしていく。順調に僕がアンドロイドである証拠が積み重なってゆく。
「愛さんが、僕がAIだと知っていたっていうのは?」僕は初めて自分から口を開いて質問をした。
「あなたが中学生に上がる頃、研究は第2フェーズに突入した。小学生までは周囲に対してあなたがAIであることは一切極秘情報として扱っていたけれど、中学からは同じ学校の生徒およびその関係者全員に、あなたに関する真実を公表した。言うまでもなく、環境が変わることであなたの感情発育に変化があるかを調べるためよ。ただし治験体本人にAIだと伝えることは、ペナルティを課して厳重に禁止していた」
「あぁ」
他人事のような声が漏れた。そうか。それで中学に上がった途端、友だちは皆僕から離れていったのか。実に納得がいった。ということは、日下部も袴田先輩も橘も僕がAIだと知っていたということになる。
思い出したのはあのディベートの日のこと。僕はてっきり愛がAIで、彼女の感情を否定したくないために皆、理不尽に僕を責めてきたのだと思っていた。愛自身の言動についても、自分自身の存在を認めてほしいがための暴走だと思っていた。
だけど彼らが本当に肯定したかったのは愛の感情のほうではなかった。
「他に聞きたいことはある? 全て、包み隠さず話すわ」
女はいまだ、辛うじてポーカーフェイスを崩さずにいる。そのことが僕には酷く気に食わず、許せなかった。
「最近……」
聞きたいことは聞けと言ったくせに、女は僕の言葉にびくりと肩を震わせた。
「最近、食事に手作りを一品だけ混ぜてたよね? あれはどうして? 今さら罪悪感でも芽生えちゃったわけ?」
もうすぐ死ぬから、と自分で付け加えた後でようやく実感が湧いてくる。そうか。僕、死ぬんだっけ。あまりに現実離れしてたからさっきまでは考えないで済んでたけど、他の非現実が現実に変わっていくにつれ、一番信じたくなかった話も自動的に現実のほうへと近づいてくる。
もう僕にとって死は、薄氷一枚隔てたすぐ隣まで迫っていた。
「プロジェクトの期間は最初から16年間と決まっていた。理由としては、思春期という感情の移ろいが大きい時期を過ぎれば、それ以上は研究により得られるリターンより肉体維持などにかかる費用等のマイナス面のほうが大きいとの試算から。そのため、あなたの脳は17年目以降の記憶を蓄積できないように設計されている。
だから私は、あなたがビーカーの中で生まれたその瞬間から、あなたを大事にするつもりなんてなかった。息子だとも思いたくなかった。あくまで研究対象。本当に自分勝手な話だけれど、そう思っていなければ、機能停止のときに辛い思いをするはめになるのが目に見えていたから。だけど……日々成長するあなたを見続けるうちに、私はあなたをただの研究対象として見られなくなっていった。どれだけ避けても、酷い態度をとっても、あなたは私からの愛を得ようと必死だった。正直やめてほしかった。
だっておかしいじゃない。今さら母性に目覚めたって、こんな私が、母親面なんてできるはずがない。こんな私が……」
女のポーカーフェイスが少しずつ剝がれ始めるのを、僕は信じられない思いで見ていた。だんだん呼吸が浅くなって、座っていることすら困難になる女。目尻のしわに水滴がしがみついているような幻覚まで見える始末だ。こっちこそ、正直やめてほしかった。やめてほしいはずなのに、僕は決定的な追及をしてしまった。
「あなたは結局、僕のことをどう思ってるの?」
その言葉をトリガーに、女はとうとう泣き崩れた。見ていられないほど無様に、感情剥き出しで、僕の膝にすがりついて。
「ごめんなさい、ごめんなさい! 賢太! 私はあなたを愛してる! あなたを失いたくないの! ろくな食事を作ってあげられなくてごめんなさい! ずっと酷いことしてごめんなさい! 甚平似合ってたわ! あなたにお友だちや彼女ができたって聞いたとき、嬉しくて悲しくて、どうすればいいかわからなかったの! あぁ、賢太! ごめんなさい、ごめんなさい、賢太ぁ……」
……本当に勝手な女だ。僕は愛と、文藝部の皆と、そして死と。わずかに残された時間で向き合うべきものがたくさんあるのに。それがなんだ、今さらになって「賢太」なんて呼び始めて。人の心に割り込んできて。虫が良いにも、程が、あるよ……
「う、うわあぁぁぁ!」
信じられない量の涙が溢れてきた。僕と女、合わせて四つの瞳から。僕はやっと得られたたくさんの幸福を、じきにこの女のせいで奪われる。最低最悪の人でなしだ。死んでも絶対に許さない。そのうえで、僕は彼女に伝える。
「母さんっ! 僕を生んでくれて、ありがとう……」
母はもう会話もできないほど嗚咽に塗れていた。僕はおそるおそる母の背中に手を回す。初めて触れる母の身体は、思っていたよりずっとずっと小さくて、骨ばっていた。震える背中をさすり続けるうちに、ささくれ立った心が少しずつ癒えていく。もういいよ。十分だ。母から初めて、クリスマスプレゼントをもらえたのだから。
だいぶ時間をかけて落ち着くのを待ち、ようやく次の質問に移ることができた。
まず、なんで僕を転校させたのか。自分と同じような悲しい想いを愛やその友だちにさせたくなかったため、少しでも傷の浅いうちに離れさせようとしたのだと、母は白状した。それと僕に対しても、新しい学校の生徒には僕がAIであることは伝えず、残り少ない人生を普通の学生として謳歌してほしかったと。間違っていた、ごめんなさいと、また泣き出してしまったが。
全く、この女の身体は身勝手でできているのか。間違いなく僕の母さんだなと、泣きながら思った。
それから僕の今後の処遇について。本来なら16歳最後の日、すなわち12月31日に、治験体本人に対して自身が研究のために作られたAIであり明日機能停止するという真実を明かし、そのうえで最後の検査を行う予定だったらしい。だけど僕が今そのことを知ってしまっている時点ですでに頓挫しているし、それだけは母からの強い懇願もあり当初から免除の予定となっていたようだ。
ちなみに免除が許された理由は、「これまで約16年間のデータ測定で『AIは感情を持ちうるか』という研究目的について、ほぼ間違いない精度の結果が出ているから」とのこと。持ちうるのか否か、母は結論については触れなかった。けれどそれは別にどうでもよかった。聞かなくとも、ディベートの日の段階で僕の中の答えもとっくに出ている。
それと母は以前から僕の延命の道を探ってくれていたらしい。先日のいつもより長い検査は、僕のAIの脳を17年目以降も記憶の保持ができるようにできないか、調整するためのものだったそうだ。だけど結論から言えば、それは絶対に不可能とのことだった。
つまり僕の寿命はあと一週間。予定どおり1月1日に17歳の誕生日を迎えた瞬間、僕は機能停止する。その話をしている時の母に、もう以前までの面影は少しも残っていなかった。こんなに感情豊かな人だったんだと思わず微笑ましくなってしまうくらい、子供みたいにずっと泣きじゃくっていた。
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「あの、そろそろいいですよね。早く代わってください」
話がひと段落した頃、愛が部屋のドアを開けてひょっこりと顔を出した。刺々しい物言いは母に対する嫌悪感を隠しきれていない。というか、隠すつもりも元よりないのだろう。
「ごめんなさい、話は済んだわ。次は阿良々木さんの番よ」
母がそそくさと部屋を出て行った後、愛はベッドの僕の隣に腰掛けた。そしてなにも言わず僕をぎゅっと抱きしめた。彼女は6月1日に出会ったあの日から僕が余命半年のAIだと知っていたはずだ。その事実がなんだかとても不可思議で、今でも信じられない。だって、すぐにいなくなるとわかっている相手を彼氏にする馬鹿がどこにいるだろう。
「……愛さん。僕なんかで本当によかったの?」
疑問はそのまま口から出てきてしまった。愛は、出来の悪い子どもを叱るように、優しく口を動かした。
「よかったに決まってるだら。二度とそんなバカなこと聞かないで」
なるほど、愛に言わせれば馬鹿なのは僕のほうだったらしい。どうせ馬鹿だと思われているなら、ちょうどいい。僕は愛にどうしても解せない疑問について、尋ねてみることにした。
「どうして愛さんは、自分がAIだなんて嘘を吐いたの?」
「ウソは吐いてないだら。あれは小説の中だけの設定だし。それに『もしAIだったらどうする?』って聞いただけじゃん」
「けど、」
あれは僕たちが本音を吐き出す場所だったはずでしょ。そんな僕の不満を察したのか、愛はまぶたを伏せて静かに語り始めた。
「だって先輩ってさ、自分がAIだともし知ったら、今まで思ったこととか感じてきたこととか、当たり前に感情だと思ってたものまで、全部作り物だったんじゃないかとか、そういうふうに疑い始めそうじゃん。そんなの、悲しすぎるだら」
言われてつい苦笑いしてしまう。確かに、疑心暗鬼になった自分が目に浮かぶ。さすが彼女。すごい解像度だ。
「そっか。だからAIでも感情を持ちうるって無理やり認めさせるために、自分がAIを演じたんだね」
「……ねぇ先輩。今、先輩はなにを感じてる?」
愛の問いに対し、言葉に詰まる。なにせさっき自分がAIだということと、あと一週間で死ぬことを知ったばかりなのだ。ようやく実感は湧いてきたけれど、整理はついてない。特に、後者に関しては。処理の遅いポンコツAIだ。
僕はそんなポンコツをなんとか振り絞り、一つ、ふと思いついたことを言ってみる。
「愛さんがAIじゃなくてよかった、とか」
「よくはないだら。代わりに自分がAIだったんだよ?」
「元々はなりたかったんだけどね。そんなにいいもんじゃなかったや」
一つ口にしてみたら、案外他にも思うところがあることに気が付いた。
「あと今思えば、文藝部の皆、アンドロイドなんかを部員に誘ってくれて優しかったんだな、とか」
「最初に誘おうって言ったのはミッくんなんだよ」
「本当に?」
「後から照れ隠しに『あんなやつ誘わなきゃよかった』とか言ってたけどね」
「あー……いや、それは本心だと思う」
「? 他には?」
「さっき……と言っても愛さん的には数時間前だろうけど、続きしたかったなとか」
「バカ」
「母さんと和解?できてよかったとか」
「普通もっと怒るところだよ。というか怒りんよ。先輩は優しすぎるじゃんね」
「AI治験体で『愛知賢太』は安直すぎじゃないかとか」
「確かに。せめてもうちょっと愛情込めて名前つけろよって感じ」
「袴田先輩の合格祈願できなかったけど、大丈夫だろうかとか」
「あの人は、まぁ、落ちても自業自得だら。学校に教科書持ってこない人だし」
「来年度は橘さんが部長なんだろうけど、大丈夫だろうかとか」
「ちょっと、あの二人に対する信頼度低すぎだら」
「結局日下部くんはどのジャンル目指してるんだろうとか。純文は無理でしょ」
「ふふ……こんなにいっぱい出てきて、先輩はずいぶん感情豊かじゃんね」
「もっと皆と一緒にいたかったなとか」
「うん」
「愛さんと現実でデートできたの、結局一回だけだったなとか」
「……うん」
「あとはやっぱり、死にたくないな、とか」
「……」
愛はなにも応えなかった。きっと応えられなかったのだと思う。沈黙が残酷な意味を持ち始めた頃、愛がもう一度、僕を壊れ物のように優しく抱きしめた。すると触れあった箇所から、いろんな想いが洪水のように溢れて止まらなくなる。
――そして僕は唐突に、いとも簡単に、真理らしきものに辿り着いた。
そっか。そうだったんだ。君が僕を想うとき。僕が君を想うとき。そして皆を想うとき。想いと想いが重なった瞬間からやっぱり「それ」は存在していたんだ。脳でも、心臓でも、肉体でもない。君と僕の真ん中に生じた視認不能なその場所に。最初から。たぶん、きっと。
あぁ、なんて心地いいんだろう。もっとずっと君の心に触れていたい。ずっとずっと、ずーっと。だけど時間の流れは待ってくれない。それもまた真理だ。残されたあと一週間、僕にはやらなければならないことがある。
だから。
「愛さん。さよならだ」
僕は愛の肩を掴んでそっと引き剥がす。離れまいと必死にしがみつきながら、彼女が小さく「やだ」とこぼす。
「やだ、やだやだやだ。なに言ってんの? やだよ、先輩」
「愛さん、」
「やだ!!!!!」
愛の目からとめどなく流れる涙が僕の胸を濡らす。対して僕は全身の穴という穴を封鎖して、君の心を拒絶し、毅然と言い放つ。
『あなたが別れたいというなら受け入れるよ。ただ、AIだって感情を持ちうると、それだけは認めてほしい。どうか今抱いているこの気持ちを否定しないでください。
それだけが私の願い。勝手でごめんなさい』。
それは以前、愛子が口にしたリレー小説の一節だ。愛は一瞬絶望の表情を浮かべた後、もはや絶叫しながら駄々をこねる。
「ウソつき! 別れないって言った!!」
「嘘は吐いてない。正確には『別れたいって言ってもいいの?』って言ったんだよ。僕は」
「賢太じゃなくて賢人だもん! 小説の話だもん!!」
「愛さん!!」
これ以上はダメだ。決心が鈍る。僕は愛の言葉を遮って、今度こそ力を込めて彼女の身体を引き離した。これから死ぬ僕が愛する人のためにできること。壊れかけのポンコツが最終的に下した決断は、いかにも陳腐で、単純で、人でなしなものだった。
「僕と別れてください」




