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第六章


 学校に行くために制服を着る。慣れたブレザーではなく、学ランの。鏡なんて見る気も起きない。どうせ今の僕は、死んだ魚より濁った目をしている。


 あの波乱万丈のディベートの日の翌朝、母から突然告げられた退学および転校の話。瞬く間に僕の視界は暗転し、色を失った世界で僕は母に必死の抗議をした。

なぜそんなことを勝手に決めるのか。

愛がAIだからってなにが問題だ。

僕は今日も文藝部の部室に行く、そう約束したんだ。

 母はわずかに面食らったような顔をしたが、すぐに冷徹な仮面をつけ直した。「これは決定事項です。もうあの学校にあなたの籍はありません」と、淡々と絶望を突きつけた。正直、母こそ真のAIなんじゃないかと疑った。この人でなしに感情なんてない。あると思いたくない。

それだけに飽き足らず、人でなしは僕からケータイを取り上げて一切の通信手段を奪うと、翌日から通い始める市内の別の高校からの支給物として、SNSや通話機能を制限された新しいケータイ端末を寄越してきた。この世に犯罪という概念があってくれなければ、踏みとどまれた自信がない。こんな形で司法に感謝する日が来るとは思わなかった。


 一方、わずかに残った理性で冷静な分析を行うと、大いに疑問が浮かんでくる。転校って一日二日で、しかも母の一存でできるようなものなのか。それに学校支給として学業に必要のない機能を排したケータイを用意したとのことだったけれど、初登校日、クラスメイトに支給端末を利用している人が他にいるか探したが、聞いた限り一人もいなかった。他にも不自然はいろいろ。

 具体的になにがどうなっているのかはわからないが、とても大きな力が働いていることは間違いない。それが個人の力で逃れられるような類のものじゃないことも。


 せめてもの慰めは、新しい学校の人たちが皆優しく受け入れてくれたこと。僕のサヴァン症候群に伴う記憶能力を見ても化物扱いしない。それどころか、入学後すぐの定期テストで満点を取ったら「神童が転校してきた!」とむしろ人気者のような扱いを受けた始末だ。

 以前なら望んでいたはずの生活。彼らを恨む理由は一つもない。

でも……ここは少々澄みすぎている。僕はもうあの変人しか棲めない狭い部室の空気に、馴染みすぎてしまった。



 無理やりの転校から約二週間経った一一月の初旬、僕は小さな突破口を見出す。

夜、自室にこもって、学校支給の端末からブラウザ版のWordを開く。前の学校で使っていたアカウントIDとパスワードなら問題なく覚えている。共有ファイルに、入れた。


***

 賢人くん、どこに行っちゃったの?

 私たちもうお別れなの?


 嫌だよ。応えてよ賢人くん。

***


 愛の悲痛な叫びに呼吸がより苦しくなった。僕が愛と繋がれる唯一の場所。ここだけは、なにがなんでも死守してみせる。まず、あくまでこれは小説のテイを保たなければならない。万が一あの女に見つかったとき、連絡手段だとバレたら一巻の終わりだ。


***

 ハローハロー、愛子さん。遅くなって申し訳ない。


 どうやらうちの連中は、自我を持ったAIは危険だと判断したらしい。僕は城の地下に幽閉され、常に監視をつけられ、自由に君に会いに行くことすらできなくなってしまった。迂闊だったよ。


 君のほうは変わりないかい?

***


 これでもできるだけ心配をかけないよう、ポップな感じを取り繕ったつもりだ。

 わずか数秒後、いきなり「qqqqqqqqqqqqqqqqqqqqqqqqqqqqqqqqqqqqqqqqqqqq」という文字列が表示された後、すぐに消えて、新しい文章が作成され始める。それだけで彼女が相当動揺しているだろうことと、きっと何度もこのファイルを開いてくれていたであろうことがうかがえる。嬉しいが、ちょっと間抜けすぎたせいで一気に緊張感がなくなった。


***

 あぁ賢人くん。無事でよかった。


 こっちは大丈夫だよ。幼馴染の給仕も、めっちゃ美人な継母も、ペットのゴリラも元気。でも皆あなたのことを心配しているよ。

 そして、会えなくなったのは私のせいだったんだね。私が余計な自我を持ってしまったから……

***


 もうなんのこっちゃわからないけれど、連絡手段というよりは素人が書いたヘッタクソな小説といったほうが通りがいいだろう。セーフだ、セーフ。

 とにかく皆は普通に生活していることがわかり、一安心する。となると、なおさら僕だけ隔離されてしまった意味が不明だが、通学中は常に監視が付き、寄り道や帰宅後の不要な外出も一切禁じられているこっちの状況は、正しく伝わっただろうか。


***

 じゃあ責任を取って、今すぐ私があなたをその狭い牢獄から救い出してあげる。ちょっと待っててね。

***


 ……ん? これはちゃんと伝わってるか? 怪しいか? 愛がなにを言いたいかがよくわからない。

 なんて思っている間にもどんどん小説は更新されていく。そしてケータイ画面が文字で黒く塗り潰れるたび、僕は少しずつ、彼女の意図を理解し始める。


***

 3,2,1……はい、目を開けてみて。


 どう? アンドロイドとしての私の特殊能力で、賢人くんをお城の外に連れ出してみたの。

 ここがどこかわかる? 今、私たちがいるのは金閣寺のてっぺん。


 ここは夢の世界。誰にも邪魔されない、二人だけの場所。

 ここでなら私たちはなににだってなれるし、どこにだって行ける。お姫様にも王子様にも、アンドロイドにも……普通の恋人同士にもなれるの。


 さぁ、まずはここでなにをしようか?

***


 すっごく久しぶりに口から小さな笑いが漏れる。こんなときに不謹慎にも、少しワクワクしてしまった。要するに今ここは、愛が創った二人だけの夢の世界。実際に会うことができなくても、このリレー小説の中でなら僕らは自由だ。だからここで秘密の逢瀬をしようと、彼女は誘っているのだ。

 現実の世界に拒まれてしまった以上、この誘いに乗らない手はない。なにをしようかだって? 金閣寺のてっぺんですることなんて、一つしかないだろう。指先をケータイ画面の上で疾走させる。僕の手で、賢人は夕景を見ながら愛子に愛の言葉を囁き、目一杯イチャイチャし始めた。


 これが僕たちの二回目のデート。ショッピングモールに行った日以来のデートだ。

こうして僕と愛は空想の中でデートを重ねるようになった。どうにもならない日常から逃げるように。

それが袋小路だと知っていても、僕らは飛び込まずにはいられなかった。


 あるとき、僕たちは王子様とお姫様だった。大きな国の王子だった僕は窮屈な生活に疲れ果て、城を抜け出して街へと繰り出した。最中、たまたま見かけた少女に一目惚れした僕は、一旦城に戻った後、今度は従者を連れて再び少女を探しに出た。

 完全記憶能力を持っていた僕は彼女の顔を鮮明に覚えていた。一軒一軒家をめぐり、9982軒目にとうとう少女――愛子を見つけた。下級貴族であった愛子は、幼馴染の給仕とめっちゃ美人な継母とペットのゴリラと一緒に暮らしていた。彼女は家族全員城に迎え入れることを条件に僕の求婚を受け入れ、お姫様となった。そうして四人と一匹は末永く幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし。

 あまりにベタな結末に、僕は作家としての実力不足を痛感した。


 またあるとき、僕たちは人工知能を搭載されたアンドロイドだった。20XX年。人間に奉仕する目的で生み出された僕と愛子は、AIの身でありながら感情を芽生えさせ、決して許されざる恋に落ちてしまった。

 ある夜、僕たちは人の目を盗んで駆け落ちし、逃避行を開始した。しかし途中、僕を構成する部品に不良が発覚し、助けてくれた正義の科学者から余命半年を宣告されてしまう。僕は残り短い時間をどう過ごすか悩んだ末、正義の科学者に愛子を託して自らは行方をくらます。

まさかのバッドエンドに、僕はケータイ画面の前であははと笑った。我ながら傑作だ。愛も画面の向こうで笑っていただろうか。


 またあるとき、僕たちはどこにでもいる普通のカップルだった。同じ高校の二年生と一年生だった僕と愛子はある日廊下ですれ違い、文藝部室で運命の再会を果たす。

 その後は明るいムードメーカーの部長やダウナー系ギャルの副部長、愛子の幼馴染のツンデレな部員とともに小説を書いたり、花火を見に行ったり。親睦を深めていくうちに二人は自然と惹かれ合い、恋人同士になる。たった一人の母にも交際を歓迎され、どこにでもある平和な毎日を過ごした。

結局これが一番楽しくて、一週間ぐらい同じ設定で遊んだかもしれない。


 あるときなんて、愛が好きな小説『君の膵臓をたべたい』にならって、新幹線で終点のとある県まで行った。もちろんストーリーをなぞって、「はりがね」のラーメンを食べ、学問の神様に祈って、モツとキャベツとニラぐらいしか具が入っていない名物鍋料理を食べ、ホテル側の手違いで一緒の部屋に泊まって、高校生の分際でお酒を飲んで、『真実か挑戦』ゲームなるものをやって、同じベッドで眠った。ただ眠っただけで、潔白だ。ぶっちゃけ潔白じゃない逢瀬もたくさん重ねたけれど、このときばかりは原作にリスペクトを示した。


 こんなふうに二人はあらゆる生きとし生けるもの、それどころか、森羅万象になりきって遊び続けた。

 ただし、なにになっても僕は僕だったし、愛は愛だった。だからその間に愛という名の感情が生まれることは必然だった。運命はかくも美しく、残酷だった。絶対に結ばれるのに、結ばれない。そんな日々を約一月半も重ねるうち、二学期が終わり、僕らは別々の高校で冬休みに突入した。


/


 今日はクリスマスイブ。リレー小説の中では愛とフィンランドでオーロラを見て過ごし、現在進行形で初詣はどこにいこうか、いっそ登山禁止のエアーズロックの上でゴリラの受験成功祈願でもしてこようかなんて話している。

 だけど、どれだけ空想の中でデートを重ねても、募っていく想いがあった。

 それは愛に恋心を抱いた日からすっかり失せかけていた、僕がこの世で一番嫌いな感情。壊れた蛇口から水滴が漏れるように少しずつ溜まり続けていたそれは、自室で一人のクリスマスを迎えた瞬間の寂しさと、もうあと一週間後に迫った自身の17歳の誕生日も同様に一人で迎えるのだろうという予感も相まって、とうとうこらえきれず、心のバケツから溢れ出してしまった。


***

 メリークリスマス、愛子。

 聞いてくれ。こんないい日なのに、なにか変なんだ。


 虚しいよ……

 どうしても君に会いたい。やっぱり僕は夢じゃない、本物の君が欲しいみたいだ。

***


 一度でも文字という形にしてしまったのがいけなかった。僕らの逃避行はとうとう終わりを迎え、僕は現実の凍えそうな夜に強制連行される。

 そこには愛も、日下部も、袴田先輩も、橘もいない。優しい母もいない。残されたのはひとりぼっちの僕と、聞き飽きたカタカタというタイピング音だけ。寂しい。切ない。……虚しい。そしてもし、もし愛も今同じ気持ちを抱えているのだとしたら、苦しくて胸が張り裂けそうになる。

ハロー、ハロー。どこかの誰か。サンタでもそれ以外でも、誰だっていい。

お願いだから、僕をこの部屋から連れ出してくれ。本物の愛に会えるなら、他にはもうなにも要らない。こんな夢の世界も、要らない。頼むから、もう一度だけ……


***

 わかったよ賢人くん。今度こそ私たちが、あなたをその狭い牢獄から救い出してあげる。

***


 ……は?


 新しく更新された謎の一文。同時に、玄関のチャイムが鳴る。12月25日の深夜0時過ぎ。来客があるにはあまり相応しいタイミングとは思えなかった。

 母のスリッパがパタパタと玄関に向かう。警戒したような足音からは明確な戸惑いが伝わってくる。やがてドア越しに小さく聞こえた声に、僕はハッと息を呑んだ。

「はじめまして。私、阿良々木愛と、申しまーす」

 そのテンションの低い話し方は間違いなく橘だった。橘が、阿良々木愛を名乗って我が家に訪れている。

「私、賢太さんの恋人。一緒にクリスマス、過ごしたい」

「あなたが阿良々木愛さん? はじめまして。申し訳ないけれど、今賢太は外出中で」

「そんなはず、ない。賢太さんはここにいると、言っている。私の第六感」

 母と橘の押し問答が続いている。母さんは愛を知らない? どうして? というか、そんなことよりどうして橘が愛のフリを? 事情はわからないが、久しぶりに橘の顔を見たい気持ちもあり部屋を飛び出そうとした、そのときだった。


 コツン。

 後ろの窓から小さな音が響き、振り返る。コツン、コツン、コツンッ。石でもぶつけられているかのような小さな音は、次第にゴン、ゴンというノックに似た音に変わる。おそるおそるカーテンを開けるとそこには、よく見知ったパチモンサンタが鬼の形相で待ち構えていた。

「! 日下部くん!?」

「馬鹿っ! 静かにしろ……!」

 窓ガラスの向こう側から、焦ったような日下部くんの声。なんで……というかここ、二階なんだけど。慌てて窓を開けると、下からもう一人の声が聞こえた。

「愛知くん、は、早く! 日下部に掴まれ!」

 両腕を真上に挙げた袴田先輩がいて、その手のひらの上に日下部が足を乗せ、驚異のバランス感覚で立っているようだった。まるでサーカスのような曲芸。ふらついているところを見るに、一刻の猶予もないことを瞬時に悟る。僕は迷うことなく日下部の手を取った。

「ぐぐぐぐ……パワー……っ!」

 袴田先輩が小声で叫ぶと、僕と日下部はゆっくりと庭の芝生の上に落下する。幸いにして怪我はなかった。あるのは疑問だけだ。

「あの、どうしてお二人が? あと橘さんも」

「いいから! 阿良々木、ちゃんの、元に行け、王子様よ!」

 袴田先輩が息も絶え絶えに言う。その脇を走り抜け、日下部が塀を跳び越えてひょいっと消えていく。「こっちだ」と小さく呼ぶ声がする。

「説明してる時間はない。俺は頃合いを見て橘を回収に行くから、君は日下部と一緒に、阿良々木ちゃんの元へ向かえ」

「でも、」

「部長命令だ! 早くしろ!!」

 力強い言葉に僕は弾かれたように立ち上がる。助走をつけ、どんくさく塀を乗り越えると、自転車にまたがった日下部が僕を待っていた。「早く乗れ」。僕はジャンプして荷台に飛び乗る。よろよろと動き出した自転車は、徐々にそのスピードを上げてゆく。僕より少し大きな背中から、怒りに満ちた声がする。

「てめぇ、愛を悲しませたらぶっ殺すって言っただろ」

「……僕の記憶では、言われてない」

「言ったってことにしろよ! 真面目か!」

 自転車はそのまま乙川沿いの通りに出て、人通りの多いほうへと進んでゆく。直線に入り、タイヤはより激しく悲鳴を上げて加速しだした。冷たい風が頬を切る。なんなら、ほぼ寝巻の身体にこの気温はこたえる……はずなのに、少しも寒くなかった。

 温かい。心が。

「ありがとう、日下部くん」

「うっせ……そういうのは、後にしろ……ぜぇ、はぁ」

 自分でも薄々察し始めていた。

 たぶんおかしいのは僕のほうだ。そんな僕なんかのために、彼らは今、巨大ななにかと戦ってくれている。たった四人で。

 呆れ果てるほどの変人どもだ、本当に。


川沿いを走り始めておそらく数百メートル。前方に、スラッと華奢なシルエットが見えた。暗くても見間違えようがない。涙で輪郭が滲み切ってしまう前に、僕は人目もはばからず叫んだ。

「愛さん!」

「先輩! ……きゃっ」

 彼女の口から聞き覚えしかない悲鳴が漏れた瞬間、ドッと全身の力が抜けた。自転車がふらつき、横転する。「おらっ、愛! クリスマスプレゼントだ!」。日下部が僕の尻を蹴る。

「早く逃げろ!」

「はっ!? どこへ!?」

「知るか! お姫様を連れ出すのは王子様の仕事だろ!」

「連れ出されたのは僕だけど!?」

「だから真面目か! いいからさっさと走れよ! 早く!」

 考える間も惜しい。僕は愛の手を取って走り出した。遠くへ、遠くへ、正真正銘の逃避行だ。

「先輩ぃ……会いたかっだよぉ!」

 泣きながら走る器用な愛に、不器用な僕はただただ涙で応戦する。「先輩!」愛がひと際大きく声を張った。

「新幹線のチケットが、二枚あります! はぁ、はぁ……明日の朝一で、名古屋に向かって、そこから逃げる作戦を立てましたっ!」

「どこまで!?」

「終点までっ!」

「今夜は!?」

「相部屋です! というか、愛部屋です!」

「愛さん、結構、はぁっ、余裕あるね」

「そこのホテルですっ! ピンクの!」

「ラブホじゃんっ! まずいって! 僕ら、高校生……はぁっ!」

「この日に予約取れただけ御の字だら! 覚悟決めりんっ! 今すぐっ!」

 もう知らん! 僕は愛の手を握ったままネオンの看板の下に滑り込む。すぐに入室を……と思ったが、リレー小説で散々想像したのと現実では手続きのやり方がまるで違う。そもそも予約したの僕じゃないし。結局、愛が不慣れな手続きを頑張ってくれて、僕らはなんとか誰にも見つからず愛部屋へと逃げおおせた。


ドアを閉じた瞬間、愛が胸の中に飛び込んできた。「う゛っ」と情けない声を上げながら、僕は彼女を受け止め、そのまま二人でベッドにもつれ込む。

「ぜんぱい゛ぃっ!」

「はぁっ……ぼ、僕も会いたかった……愛さん」

 いまだ整理しきれない頭の中、ただ一つだけ確かなことがあった。僕は幸福だ。こんなにも。ずっと求めていた温もりが今、腕の中にあるのだから。僕は少し汗ばんだ柑橘の匂いと一緒に、その周りの空気を思いっきり吸い込んだ。


それから僕たちは気が済むまで泣き喚こうとし、済む気配がなかったので、そのまま感情の赴くままに求め合った。

 会えなかった時間を埋めるように、乱暴に。

 そして僕と彼女の肌が溶け合い、二人の存在の境界すら曖昧になった頃。突然、意識がブラックアウトしていく。

 それはいつも病院でかけられる麻酔の感覚とよく似ていた。


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