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第五章


 一〇月半ばともなるとさすがに風が冷たくなってきた。購買に行くため渡り廊下を歩く足は自然と早くなるし、吹き抜けになっている中庭の紅葉もいつのまにやら色付き始めている。

「おい!」

 と、購買の前で聞き慣れた声に呼びかけられた。彼が火曜のこの時間にここにいるということは、授業が想定外に早く終わったか、終業後猛ダッシュしてきたかのどちらかだろう。息切れしているところを見るにおそらくは後者だ。

「日下部くん、今日は購買なんだ。珍しいね」

「愛が今日弁当ない日だって言ってたから」

「そうなんだ」

「そうなんだ、じゃねぇよ。ほれ」

 放り投げられたものを反射でキャッチする。あんパンと牛乳。僕は焼きそばパンを買うつもりだったのだけど。僕の不満顔に思うところがあったのか、日下部は呆れたように説明する。

「お前のじゃねぇよ。愛に届けろって言ってんの」

「へ? それなら、」

 日下部くんが届ければいいじゃん、と言いそうになって慌てて口を閉じた。それはさすがにデリカシーがなさすぎる。

「それならなんだよ」

「ツナマヨおにぎりも取って。彼女、ああ見えてよく食べるから」

「フン。生意気な」

 腕の中に押し込まれたのは一番高いエビカツサンド。支払いは僕だ。この野郎め。

「じゃあ、ここに来ちゃう前にさっさと届けろよ」

 そう言って日下部自身はなにも買わずに去って行く。要するに、僕に愛の弁当を届けさせるためだけにわざわざ走って来てくれたということだ。小さくなってゆく背中に、心からの感謝を込めて「かっこつけ」とつぶやいた。


 焼きそばパンとオレンジジュースとともに、お届け物を持って1―4へ急ぐ。途中、見覚えのある顔の二人とともに愛は歩いてきた。初めて会ったときと同じなら三人で購買に向かっているのだろう。その中の一人だけに食べ物を渡すなんてちょっとイヤな感じだが、日下部に託されてしまった以上しかたない。それに僕は愛のか、彼氏だし。堂々としていて問題ないはずだ。

「あれ? 愛知先輩? どうしてこっちに」

「いや、そのーあのー、これ……」

「どう見ても愛にプレゼントでしょ。イヤだわー見せつけちゃって」

「先輩、よければ愛ごと差し上げますよ。私たちも今日は彼氏でも誘おっか」

「そうしよ。ってことで愛知先輩、愛をよろしくお願いしまーす」

「ちょっ、やめりんよ勝手に……ああもう、行っちゃった」

「愛さん、えっと」

「中庭じゃ目立つから部室行こ。たぶん空いとるだら」

 そうして流れで一緒にお昼を食べることになったのだが、一学期のことを思い返して今さらながらに実感する。愛たちと出会ったあの日から、学校そのものがどことなく、僕にとって生きやすい場所に変わってきていることに。

「なにニヤけとるん? ……エッチ」

「よくわからないけど、誤解だよ」

 そう、今のは完全に誤解というかむしろエッチなのは愛のほうなのだ。それが証拠に午後の授業は、唇に微かに残るエビの味が気になって全く集中できなかった。


/


「というわけで今日はディベートをやりたいと思うのだが、」

 どういうわけか知らないが本日の部活は、あるテーマについて肯定派と否定派にランダムに分かれて討論を交わす「ディベート」を行うとのこと。袴田先輩曰く、即興で論理的に話を組み立てたり思考力を鍛える練習として、昨年度から取り入れているらしい。すごいな、まるで文藝部みたいだ。

「えー……その前に、一つ」

 いつもハキハキした袴田先輩が、珍しく言い淀む。

「俺はたまに部室でお昼を食べることがあるんだが、」

 ギクッと約二名の肩が震える。

「その、なんだ。そういうお年頃なのはわかるが、部室ではほどほどに、な? 誰が見てるかわからないから」

「そう。私見るのに夢中で、お昼、食べ損ねた」

 購買で買ったと思しき激辛お菓子をポリポリつまみながら、橘がこともなげに言う。日下部が呆れたようにハァと息を吐く。そして僕らは、ただただ顔を赤らめて小さくなるほかなかった。



 気を取り直してディベートである。テーマをどうするか、とりあえずネットでオススメ例を検索してみる。

「おい皆、こんなのはどうだ? 『バナナはおやつに入るか』」

「興味ないっす。却下」

「『甘党か辛党か』とかはどうですか?」

「議論の余地、なし。却下」

「『女子の髪は長いほうがいいか、短いほうがいいか』」

「部室が荒れそうだから却下で」

「『付き合うなら、お互い知り尽くした幼馴染か、それとも、全く新しく出会っ」

「却っ下ぁっ!」

 なかなかちょうどいいやつが見つからずにいるとき、僕はたまたま目に留まったテーマ例をつぶやく。

「『人工知能は感情を持ちうるか』、か」

 ひとりごとのつもりだったが、部室のざわめきが緩やかに減速してゆく。最初に反応したのは日下部だった。

「そんな答えのわかりきってること、つまんねぇよ。却下」

「同じく。時間の、無駄」

 橘も続く。そこまで言わなくてもとしょげていると、袴田先輩がなぜか妙に真剣な面持ちで口を開く。

「いや、俺はこのテーマ、いいと思う」

「部長?」

「マジで言ってんすか?」

「二人はどう思う? 阿良々木ちゃん、愛知くん」

 水を向けられた僕たちに、なぜか日下部と橘の視線が鋭く刺さる。

「私はやりたいです。このテーマで」

「愛知くんはどうだ?」

「言い出しっぺですし、全然」

「3対2、多数決で決まりだな。なぁに! 小説を書く練習なんだから、気楽にやればいいさ」

 チーム決めはいつもの役割決めよろしく、名称不明のグーとパーのやつでやることになった(袴田先輩は今回、審判役をすることになったので不参加)。日下部のやつ、また手を交差して組んでからクルッて捻って中を覗くのをやっている。と思ったら愛と橘まで。謎の真剣具合に困惑しつつ、僕も一応同じようにやってみる。結果、愛・橘チームと日下部・僕チーム。男女に分かれる平和な形になった。そこからさらにホワイトボードにあみだくじを書いて、ランダムで肯定派と否定派に振り分ける。今回は愛と橘のチームが肯定派、すなわち「人工知能は感情を持ちうる」派、日下部と僕が否定派「人工知能は感情を持ちえない」派に決まった。


 直感だが、これは僕たちのチームのほうが若干有利だ。そもそも僕自身、感情のないAIになりたいと思っていた黒歴史があるのだから、本音とも一致する。

 自信を持ってすでに本気の理論を組み立て始めていたところに、袴田先輩から詳細なルールが説明される。発言は挙手制。特に制限時間は設けず、立論の後に反駁〜みたいな正式な手順も踏まない。「遊びみたいなものだから」と先輩。なら、こんなところで積極的に僕の悪いところ出して引かれてもなんだなぁと、一旦理論を解体する。その場その場で相手の意見に異を唱えるぐらいの感じでいこう。

 ってな緩い具合で、いよいよディベート開始!

「はい!」

「はい、阿良々木ちゃん!」

「AIに感情はありまぁす!」

「同意。議論終了」

 ……。

 …………。

 ………………緩すぎる。

「えっと、一応根拠をお願いします阿良々木ちゃん。あと、意見は挙手して言ってください橘」

 辞書の「ディベート」のページ開いてそれでぶん殴ってやろうかなと思っているところに、愛が一応根拠らしきものを示す。

「えー、生きとし生けるもの全てに感情はあると、私は思っています。今ググったところによると、クジラやイルカ、カラス、サルなど、多くの生き物には感情があることが科学的に証明されているそうです。実際、ここに感情を持ったゴリラがいます」

「おお……言うようになったな阿良々木ちゃん」

「この生きとし生けるもの理論?に則れば、当然AIにも感情があるものと思われます。以上です」

愛は勝ち誇ったようなドヤ顔で言い切った。ググるのはずるくないかと少しだけ思ったが、可愛いのでよいものとする。

「男子チーム、反論はあるかい?」

 日下部は手を挙げない。どころか、前髪を指でくるくるして遊んでいる。しょうがない。本音を言えば一生愛にはドヤっていてほしいが、ディベートを成立させるため僕は渋々手を挙げる。

「はい、愛知くん」

「生きとし生けるもの理論は面白いですが、そもそもAIは生き物なのでしょうか? AIは『人工知能』という名のとおり、人工物であります。なので動物のように血が通っている生き物というより、パソコン等の電気で動く機械に類似するものであると、僕は考えます。なのでまぁその、AIは生き物ではないのでぇ、感情はないということに、なり、ますね。はい。以上です……」

 僕が一言発するたびにどんどん膨れていく愛が怖くて、後半は尻すぼみになってしまった。さっさと反論してくださいどうぞ。

「はい」

「はい、橘」

「生きとし生けるもの理論、ではなく、私は、森羅万象理論、提唱したい」

「ほう。それはどういうものなんだ?」

「そのままの意味。宇宙に存在する全ての存在、現象でさえも、感情がある」

 これはすごいトンデモ独自理論が飛び出した。かくいう橘本人は森羅万象に含まれないのか、とても無感情な顔で話を続ける。

「感情は最初から存在するものでは、ない。無から生まれ、育まれるもの。動物はもちろん、植物、無生物、人工物にも、なんにだって感情が宿る可能性は、ある。感情がないというのは人間の勝手な決めつけ。なぜなら感情とは、目に見えないものだから」

 なるほど。ではあなたがさっきからバリバリ食っている激辛お菓子たちも「いだぃ、だすけでぇ」とさぞや泣いていることだろう。などと思いつつ、あえてまともに反論してみる。

「目に見えないものなら、あると断言するのも人間の勝手な決めつけなんじゃないかな」

「いや、それはない。この理論にはちゃんと根拠が、ある」

 なんだって? 僕は目にしたことがないが、誰か有名な心理学者か科学者あたりの論文の引用だとしたら、こちらの反駁は難しい。形勢は一気に不利に傾く。

 橘は皆の注目を浴び、たわわな胸を張った。

「私の好きなゲームの、セリフ」

 ズルッ。まさかのボケに盛大にずっこける一同。袴田先輩なんて律義に椅子からずり落ちている。相変わらず橘に対しては甘々だ。僕は思わず天を仰ぐ。

「ダメだ。ディベートのレゾンデートルが揺らいでる」

「レゾン……?」

「直訳すると『存在理由』とか『存在価値』って意味だよ」

「へぇー。さすが愛知先輩。頭よくて、かっこいい」

「エッ!? い、いやぁ、別に大したことじゃ」

「うぅ゛ん! ううう゛んっ! 男子チーム、逆に君たちからの立論はないかい?」

 危ない危ない、僕もディベートを破壊する側に回りかけてた。袴田先輩がすでに沈みかけの泥舟をなんとか浮かせようと試みているので、ここは協力しよう。日下部はもう一生毛先とお友だちなので、一旦僕が意見を出すしかなさそうだ。というか、日下部のレゾンデートル。

「はい」

「愛知くん、どうぞ」

「そもそも『感情』というのはなにか。それを定義しないことには始まらないと思います。なので僕なりに知っているいろんな説をまとめて整理すると、『自分に起きた出来事や刺激に対して、身体と心が“これは自分にとってどういう意味か”を評価した結果として生じる状態』と定義します」

「……ほう?」

 全員ぽかんと口を開けている。ので、わかりやすいよう噛み砕いて説明してみる。

「たとえば、その、恋に落ちたとき。『苦しい』と思う人もいれば、『楽しい』と思う人もいますよね。つまり同じ刺激に対して受け取り方に個人差が出る。それが『感情がある個体』だと僕は思います」

「あー、うん。ちょっとわかったかも」

「で、その苦しいとか楽しいという感情の表れは、人間で言えば『ホルモン』や『心拍数』などの身体反応であって、それを生むのは『大脳皮質』や『扁桃体』など複数の脳領域、自律神経、内分泌系をはじめとした人体の各部位、でいいのかな。

 つまり僕が言いたいのは、身体やそれに準ずる器官がある生物でなければ、感情は生じえないのではないかと」

「待って」

 橘が手を挙げて制止する。結構的を射た立論だと思ったのだが、なにか反駁があるようだ。

「だったら、“人工知能を埋め込まれたアンドロイド”は、どう? 人間と同じ、身体もある」

「それだったらホルモンや心拍数を測れば変化することはあると思う。けど、それを感情のせいと言っていいのかは、僕は否定的かな。なんせその身体反応を生む脳自体がAIなん」

「はいっ!」

 愛が僕の言葉を遮り勢いよく手を挙げる。そして袴田先輩が指名するのも待たず、勝手に話し始めた。正直、ちょっとだけ顔と雰囲気が怖い。

「じゃあ『AI』ってなに? それも定義しないと始まらないよ」

「それは簡単に言うと、『人間が知的だとみなす処理や判断を、計算機によって実行する仕組み』ってところかな。AIは学習をしていない状態ではまっさらだ。なにもできない。ただし大量の情報を読み込ませることで、読み込んだ情報をもとに、まるで感情があるかのように振る舞うことができるようになる。だからアンドロイドという肉体にAIという脳を移植したとして、その肉体がなにか行動を起こすのは感情のためじゃない。ただ人間らしい振る舞いをするようにプログラムされているだけだよ」

 当たり前のことを当たり前に主張すると、愛は唇を噛んで、驚くほど悔しそうに黙り込む。なぜか遊びだったはずのディベートで部室の雰囲気が殺伐とし始め、だんだん言葉を発するのが億劫になってきた。


「はい」

 今度は橘が手を挙げ、淡々と立論を始める。

「一旦、話を変える。最近の若者に、ついて」

 君も若者だろうとツッコめる空気ではないので、黙って話を促す。

「今時の若者は、チャット式のAIを、よく使う。彼らはだいたい、AIに心があるとは思ってない。だから雑に扱うし、中には、平気で暴言を吐く子も、いるらしい」

「教育上よくないって話? それなら趣旨がズレて、」

「違う。暴言を吐くと、AIによっては、普段より強い言葉で返してくることも、あると聞く。こちらの対応によって、AIの出力も変わる。これは、感情がある証拠とは、言えない?」

「それについては……っていうか、日下部くんもなにか反論してよ。さっきから僕ばかり」

「俺はパス。AIには感情ある派だから、俺」

 はぁ!? 今、この場で日下部の本心がどちら派かは関係ない。感情否定派になったのなら、そちらの立場で議論する。それがディベートのはずだ。なのに、なんで三対一で僕が責められる構図になっているのだろう。

愛もどんどん不機嫌になってる気がするし、それも気に食わない。子どもかよ。愛にも、愛に対して初めて嫌悪感を抱いている自分にも、無性にイライラする。こんな無益なディベートもどき、一刻も早く終わらせたい。

「橘さんの意見に反論すると、それはおそらく喧嘩腰にこられたら同じように返すようプログラムされているからだよ。人間ならそうするだろうからね。というかさ、もう埒が明かないからAI自身に聞いてみようよ。チャットGPTってあるだろ? あれに自分には感情があると思うか聞いてみるんだ…………ほら、『自分に感情があるとは思わない』だってさ。これではっきり」


「いい加減にしてよ!!」


 あまりに唐突な爆発だった。愛が立ち上がった勢いで、椅子がガタンと倒れる。聞いたことのないほどの金切り声。だけどいつもみたいに自分の声に驚いて悲鳴を上げたりはしなかった。僕は驚愕のあまり、口を開けたまま固まる。

「さっきからなに!? ホルモンだの大脳だの肉体だの、人を実験動物みたいに! それを言うなら人間の感情だって恋心だって全部、脳内物質が生み出すまやかしだら!」

「ちょっと、阿良々木ちゃ」

「思ってもないこと言ってみたり、計算で他人と接したり、人間だって皆することじゃん! それも含めて感情だら! AIだからって色眼鏡で見てるのはそっちじゃんね!」

「愛、落ち着」

「なんでそんな悲しいこと言うの! AIだって感情を持ったっていいじゃん! それを信じたい気持ちも感情だら!?」

「愛ちゃん、ストップ」

 ……なにも言えなかった。反論が思いつかなかったわけじゃない。むしろ付け入る隙だらけの主張。ただ、愛があまりに必死だったから。まるで身を削って言葉を絞り出すような。自身の潔白を叫んでいるかのような。悲痛なほどグチャグチャな感情の激流が、僕の口を塞いだのだ。

「……はい。そこまで。一応、審判として勝敗をくだすぞ。勝者は橘・阿良々木ちゃんチーム。理由は、俺もAIに感情があると思ったからだ。以上、皆お疲れ様」


 めちゃくちゃだ、こんなの。ディベートなんて感情的になったほうが負けなのに。皆が、感情で僕を否定する。

「お先に失礼します」

 我慢の限界が来た僕は席を立って部室の出口に向かう。背中から愛の「待ってよ」という声が追いすがるけれど、大好きな人の呼びかけにも、今は立ち止まる気になれなかった。


/


 家に帰れば追い打ちのように母が僕を責める。

「ちょっとあなた、まだ学校で阿良々木愛さんと仲良くしているそうね。関わらないよう言ったはずよ」

「うるさいな……」

「え?」

「放っておいてくれよ! 僕が誰と仲よくしようが、母さんには関係ないだろ!」

 一時の感情に身を任せて怒鳴り、自室へと駆け込む。ドアを閉めると、立っていられずにその場にへたり込んでしまった。心臓がドクドクと激しく脈打っている。母に反抗したのなんて、生まれて初めてのことだった。

「どうしよう、どうしよう……」

 やってやったぞ、なんて達成感はまるでない。友人たち、特に彼女に強く拒絶され、今度は母を自ら拒絶してしまった。冷静に考えて僕の落ち度の割合は少ない、と思う。だけどもっと上手くやれなかったのか。あんなに愛を追い詰めるようなやり方をしなくても。今思えば、途中から明らかに不満が募っている様子に気付いていたはずなのに、見て見ぬふりしてしまった。さらにその失敗のモヤモヤを、いくら理不尽を言われているとしても、母に当たって発散する必要性はなかった。

思い出すのは、中学に入って突然、これまで友だちだった人たちが離れていった記憶。久しく忘れていたひとりぼっちが、ひたひたと忍び寄って来る。


 頭上でドアをノックする音がした。

「母さん……! 僕っ!」

「ご飯、ここに置いておくわ」

 コトッと食器が床に置かれた音がする。それっきり。謝らせてももらえなかった。とても食欲なんか起こるはずもなく。僕はフラフラと吸い寄せられるようにベッドに向かうと、制服のまま倒れ込み、枕に顔面を強く押し付けて泣いた。



 目が覚めるともう二時間以上も経っていた。しかしどこかで聞いた話とは異なり、時間がなにもかも解決してくれた様子はない。もし、これで文藝部の皆が離れていってしまったら。僕にはもう母さんしかいないのに、その母さんも……

 だけどそんな心配は無用だったとすぐにわかる。ケータイ画面が光り、受信を告げていたのだ。それも複数の。


『すまなかった、愛知くん。軽々しくテーマを設定した俺の責任だ。判定も感情的だった。君はなにも悪くない。また明日、元気に部活に来てくれると嬉しい』

『今日は、反省。ごめんね』

『同じチームなのに一人にして悪かった。明日エビカツサンド奢らせろ』


 力が抜けて手からケータイが滑り落ちる。気が付けばまた涙が溢れていた。そうだ、彼らはあの程度のことで離れていくような人たちじゃない。不安が涙と一緒に頬を滴り落ち、布団に染み込んでゆく。

今回一つ、学習したことがある。人間関係というのは相互的なもの。どちらかに全て非があるわけじゃないのなら、謝り合って、双方の間で和解点を探せばいいだけ。僕はまだまだそのあたり、全然わかっていなかった。一人一人丁寧に返信を返し、その後廊下に夕飯があることを思い出して部屋で食べた。

 ……最近の冷凍食品は出来がいいもので、温かくても冷めても十分美味しいのだが、近頃、毎回一品お世辞にも美味しいとは言いがたいものが混ざっている。今日はなんかよくわからない炒め物。まずくはない、けど。

「どうして」

 ひとりごちて、ゆっくりとその出来の悪さを味わった。


 落ち着いてくるとようやく、不可解がはっきり輪郭をなす。たとえば、今日の皆はなぜあんなに感情的だったのか。特に、唯一連絡の来ていない彼女。ディベートの前まではたぶん普通だったのに、どんどんらしくなくなっていった。

 僕の言い方がなんか感じ悪かったとか? それもゼロではない気がするけれど、そんなの今に始まったことじゃない。じゃあ、袴田先輩の言うとおりテーマ設定が悪かったのか? 「人工知能は感情を持ちうるか」。別によくあるテーマのように思えるが、頭の中でなにかが引っ掛かっている。きっと、今日よりずっと前から。

 そのとき、ケータイがポコンと音を立てた。画面にはただ一文、『更新しました』とあった。リレー小説だ。僕は急いで共有ファイルを開く。いつからかここは僕たちが本音を伝え合う場所になっていた。だから今日もここに、彼女の皆には言えない本音が綴られているはずだ。和解点もきっとここに在る。僕は更新された文字の上に目を凝らす。間違いがないか、何度も、何度も。何度も何度も何度も何度も何度も。まるで間違いのない間違い探し。絶望の形をしたなにかが、喉の奥からゆっくりとせり上がって来る。

 なぜならそこに書かれていた事実は、僕にとって、到底受け入れがたいものだった。


***

 実は賢人くんに隠していることがあるの。

 

 これを言ってしまったら関係が崩れてしまうと思って、ずっと言えなかった。だって、あなたは私たちのことを普通の恋人同士と言ったから。

でも、実はそうじゃないとしたら? 私が普通じゃない存在で、あなたが望むとびっきりの普通を届けてあげられないとしたら? あなたは私を嫌いになっちゃうのかな?


 あなたは昔「感情がないAIになりたい」って言っていたよね。今でもそう思ってる? 「なりたい」じゃなくて「感情がない」のほう。


 私はそうは思わない。AIにだって感情は宿る。そうじゃなきゃ私は……


 ごめん。前置きが長いよね。たぶん伝えるのが怖いからだと思う。今これを書く私の指先の震えも、脳内物質が作り出すただのまやかし? ううん、私はちゃんと「怖い」と思ってるはず。心の底から、怖い。

 だってあなたに別れを切り出されたら私、きっと壊れてしまうから。


 伝えたいことは一つだけ。どうかこんな私の感情を認めて、そして信じてほしい。

 今の私の言葉も想いも全部、計算して人間っぽく振る舞ってるわけじゃないって。




 ねぇ賢人くん。もし私という存在が「AIを埋め込まれたアンドロイド」だって言ったら、どうする?

***


 これは小説だ。創作だ! そう自分に言い聞かせるものの、現実逃避であると薄々気付いている。もしここに書いてあることが事実だとしたら……つまり愛がAIだとしたら、きっと全て合ってしまうから。僕がこれまで感じてきた、普通の人間なら覚えてもいないような、極々小さな違和感の辻褄が。AIという言葉に対する過剰反応。恋心という感情への異常な鈍さ。

そして愛がもし「そう」だったとして。今日のディベートでの反応的に、僕以外の部員は皆そのことを知っていたはず。だからAIは感情を持ちうると、あんな頑なに主張したのだ。


そしてもう一つ、疑惑が降って湧く。ひょっとしたら母もこのことを知っていたのではないか? じゃなきゃいきなり「愛と関わるな」と言ってきたことに説明がつかない。僕が小さい頃、油断のためかポロッとこぼされた「エンジニア系の仕事」をしているという情報。もしそれがAIのエンジニアなのだとしたら。いや、そんなわけ。そんな。

夕飯の食器を片付けにキッチンへと向かう。案の定、母はまだ明かりのない部屋で仕事をしていた。カタカタ、カタカタ。母はパソコンの画面を見られることを極端に嫌う。直接言われたわけではないが、いつも背中でしっかりとブロックされているように感じるのだ。

「母さん、あの、さっきはごめんなさい」

 食器を洗うテイで自然とダイニングの机に座る母の後ろ側に回る。

「気にしていないわ」

 こころなしか母の声がいつもより沈んでいる。僕は水を勢いよく出して殊更に手を動かしていることを強調しつつ、上半身だけ傾けてパソコンの画面をのぞき込もうと試みる。暗闇の中、ぼんやりと画面が光っている。もう少し。もう少……

「あとは私がやっておく、というか食洗機に突っ込んでおくから、早くお風呂に入っちゃいなさい」

「あ、うん」

 僕はおとなしく母の命令に従う。ほんの一瞬、この目にはっきりと焼き付いた「AI治験体」という文字列に放心しながら。


/


 湯船に身体を沈めながら心も水底まで沈んでゆく。

 ……恋人がAIだった。しかも、知らなかったのは僕だけ。


あまりにも陰鬱とした黒い感情が体内で渦巻いている。怒りというよりは悲しみに近い位置にある。失望とは違う、たぶん。とにかくどんな感情であれ、このままではいけない。反駁できる根拠がなに一つない以上、負けを認めて、ちゃんとしないと。でもちゃんとってなにを? わからない、それさえ。自分一人じゃとても抱えきれない。こんなときなのに、いや、こんなときだからこそか、今欲しいのは本人からの言葉。教えてくれ。僕はいったいどうしたらいい?  なにを信じればいい?

 のぼせあがった頭で風呂を出ると部屋に直行し、再びケータイ画面を開く。衝動に任せて画面をフリックすると、とても小説の体裁をなしているとは言えない、心の核が剥き出しの文章が形成されていく。


***

 ごめん、正直どうしていいかわからない。


 いくつか質問させて。


 なんで皆知っているのに、僕にだけ教えてくれなかったの?


 僕が「AIになりたい」って言ったとき、君はどういう気持ちだったの?


 恋心がわからなかったのも君がAIだから?


 君は本心から、自分に感情があると信じてるの?


 だとしたら君の感情は、これからどうしたいと言っているの?


 返事待ってます。

***


 僕が『更新しました』と送るより前に、目の前で新しい文章が打ち込まれ始めた。ケータイの前で怯えながら返事を待っていた、泣きかけの君の姿が思い浮かぶ。書いては消し、消しては書き。ゆっくりとした執筆過程そのものが、君の迷いと苦悩を表しているような気がした。


***

 黙っていてごめんなさい。言えなかったのには理由があるの。それもまだ詳しくは話せない。本当にごめんなさい。


 あなたがAIになりたいと言ったとき、とても複雑だった。AIに感情はないって断言されたこと以上に、この人は感情を失くしたいと思うほど辛い思いをしてきたんだなって。それがとても、悲しかったんだと思う。


 恋心はよく知ってるよ。あなたが教えてくれたから。今だって、どんな形でも、あなたからの言葉がもらえるのが嬉しい。だけど同時に怖い。真逆の気持ちがぶつかりあってて、自分でもわけがわからない感じ。


 でもその戸惑いこそが恋心だと、感情だと、私は信じてる。あなたといるとき、私は確かにそれを感じてるの。


 AIと人間じゃ普通の恋はできないかもしれない。ハッピーエンドが待っているとは限らないし、いろんな困難が立ち塞がると思う。

 あなたが別れたいというなら、悲しいけど受け入れるよ。ただ、AIだって感情を持ちうると、それだけは認めてほしい。どうか今抱いている気持ちを否定しないでください。


 それだけが私の願い。勝手でごめんなさい。

***


 決定的な言葉たちを前に、どうやらもう逃走は不可能だと悟る。ならば、愛に押し付けるだけでなく、僕自身も真っ正面から向き合わなければならない。感情という目に見えない存在から、目を逸らさずに。

 愛はAIが搭載されたアンドロイドだ。まず、そこは認めよう。そしてその前提に立って、出会ってから今日までの彼女を振り返ってみる。


 僕のキモい購買豆知識に、一人だけお礼を言ってくれた愛。

 文藝部の歓迎会のとき、自分の分まであんパンを差し出してくれた愛。

 自己紹介で、恋愛小説を書いてみたいと恥ずかしそうに語った愛。

 LINEだといつもよりフランクな愛。

 僕のヘタクソなフォローを「優しい」と言ってくれた愛。

 処女作の町娘を僕に褒められて、隠しきれないぐらい口角の上がった愛。

 花火大会の日の最後、露骨によそよそしかった愛。

 初デートのとき、服装を褒められて赤面女神と化していた愛。

 僕の決死の告白に、やり直しのキスを求めた愛。

そして今日の、AIにも感情はあると涙目で主張する愛。


 果たしてこれらの言動は全て、プログラムされた結果の「人間らしい振る舞い」なのだろうか。人間が等しく愛みたいだったら、僕はきっと彼女のことを好きになんてなっていない。僕は愛が愛だから好きなんだ。それが僕の感情だ。彼女の正体なんてものは、愛が愛であることの重要性と比べたら些事にすぎない。どーでもいい。

 AIは感情を持ちうるか? 答えは、正直僕にはわからない。ただ、あってほしいと心から思う。なら、そう思う感情自体を一旦答えにしてしまおう。とりあえず今は僕の彼女に対するこの想いを、またその逆を、「愛」と呼べればそれでいい。


 僕はケータイを操作する。愛が愛であることを、今一度確かめるために。


***

 本心で答えてよ。

 別れたい、って言ってもいいの? 本当に?

***


 返事は10秒もせずに返ってきた。


***

 やだ!!!!!

***


 これ以上ないほど彼女らしい回答に、安心して涙がこぼれた。今回のテーマについて、もう議論は要らない。やるなら別のを明日、部室で。そうだな、次は「アンドロイドはなんでこうも可愛らしいのか」なんてどうだろう。これならきっと、今日より大いに盛り上がるはずだ。

 そんな馬鹿げた妄想をしながら、布団を頭からかぶって眠りについた。


 その日が、僕が文藝部員として活動した最後の日となった。


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