第四章
夏休みの終盤、僕は初めて業務連絡以外の理由で阿良々木愛にLINEをした。
『一緒に小説の資料集めでもしませんか?』
この一言は、そのまま受け取るなら夏休み明けの品評会(次回は「花火」がテーマ)に向けての資料集めを共同でしよう、つまり一緒に本屋か図書館にでも行きましょうという誘いであり、もう一歩踏み込むならデートの誘いでもあるのだが、その実もっと深い含蓄がある。
そこに阿良々木愛が気付いたかどうかはともかく、OKの返事をもらい、僕はこうして待ち合わせ場所のショッピングモールに向かっている。以前甚平を買った大きなモールだ。高校からもわりと近く、多くの生徒にとって学校終わりの遊び場の定番と化しているが、夏休みなので不意の遭遇を警戒しすぎる必要はないだろう。というか、僕のほうは冷やかしてくれる友達もいないのになにを警戒しろという話だ。警戒したい人生だった。
閑話休題。
花火大会の日、僕らは結ばれた。小説上で。そう、小説上だけの関係なのだ。あれを交際開始と判断するのは早計だということに、大会が終わり、皆でやいのやいの言い合いながら東岡崎駅まで戻り、健全な時間に解散したタイミングで気付いた。
実際あの日以来、双方連絡はおろかリレー小説の更新すらしていない。花火の帰り道でも、地味に阿良々木愛とだけ一言も話してないし。
そして日に日に募る不安。「あの告白はそもそも伝わっていたのか?」。僕は今日、それを確かめねばならない。伝わってなければテイク2。分身体である創作キャラ=賢人に先を越されているなんて、なんか癪だ。
「お待たせしました! 愛知先輩!」
「待ってないよ。その、僕も今来たところ、だから」
モールの入り口付近で合流した阿良々木愛の挨拶に、僕は常套句を返すので精一杯だった。おそらく、準備していなければそれすら危うかっただろう。
今日の阿良々木愛は普段と一味も二味も違う。たぶん薄っすら化粧をしているし、爪もキラキラしている。白の膝丈ワンピースが絶妙な清楚感を演出しており、ローファーに小さめのカンカン帽、なにより、眼鏡をかけている。由緒正しき文学少女といった感じだ。
「どうですか?」
前回、花火大会で言えなかった言葉。それを言う時が来た。緊張で乾く唇を一舐めし、僕は大仰に息を吸った。
「女神かと思った」
……ヤバい間違えた。間違いじゃないけど、間違えた。「似合ってるよ」ってサラッと言うだけのつもりだったのに。セクハラで訴えられたりしないだろうか。調子乗ってごめんなさい。
「そ、そんなの反則だら……っ」
が、阿良々木愛はなんか顔を赤くして黙り込んでいる。誤魔化すチャンスだ。僕は無防備な阿良々木愛の手をひったくると、モールの中へと足を踏み入れた。
このモールの三階には、以前と変わりがなければカフェが併設された本屋があったはずだ。まずはそこを目指してエスカレーターに乗る。建物内は冷房が効いていて涼しい。のに、右手だけが暖房でも吹きかけられてるように熱い。なぜ? 振り向いて見ると、阿良々木愛の手を握ったままだった。
「ご、ごめんなさい!」
僕は慌てて阿良々木愛の手を宙にぶん投げる。「痛っ」と阿良々木愛が言う。ヤバいヤバいヤバいヤバい。ひたすら謝り倒していると、いつのまにかエレベーターが二階に着いていて、つまづいた僕は後ろ向きにこけた。もうめちゃくちゃだ。
「ふふっ」
阿良々木愛が小さく息を漏らした。
「先輩緊張しすぎ。もうちょい肩の力抜きんよ」
私だって緊張してるんだからと付け加えて、阿良々木愛は小走りで横を通り過ぎる。女神の隣に立って肩の力を抜けと? ただの人間風情に無茶を言わないでほしい。僕はため息を一つ吐いて、こころなしかいつもより楽しげな後姿を追った。
無事?本屋に着いて、初めて阿良々木愛が質問をしてきた。
「小説の資料集めって、次の品評会のためですか?」
「うん。もちろんそれもあるし、阿良々木愛さんが書きたい恋愛ジャンルの」
「あの、先輩」
「参考になりそうな本を……ってなに?」
「ずっと言いたかったんですけど、毎回フルネームで呼ぶの、やめてくれません? ちょっと距離を感じて寂しいです」
阿良々木愛は俯き気味にシュンとした表情を作る。よろしい、ならば戦争だ。
「わかった。その代わり、あ、愛さんも、敬語はもうやめてくれないかな。タメ口のほうが距離が近い感じがして、嬉しいから」
「……今日の愛知先輩、破壊力高すぎ。どこでそんなの覚えたん?」
僕が最近恋愛指南本を読み漁っていることなど知る由もない阿良々木愛、もとい愛は、舌をべっと出して小説コーナーに消えていった。さて、僕も自分用の資料を探すとしよう。ドクンドクンとうるさい胸を深呼吸で落ち着かせ、参考書コーナーへと歩を進めた。
/
併設カフェで飲み物を頼んだ僕たちは二人用の席に向かい合って座り、購入前の本をじっくりと堪能する。ちなみに僕は「キャラメルマキアート」なる定番と思しき商品の一番小さいサイズにしたのだが、愛は謎の呪文を唱えることで、より巨大で豪華なドリンクをゲットしていた。
「あのさ、さっきの『ベンティアイス抹茶クリームフラペチーノオーツミルク変更エクストラ抹茶パウダーバニラシロップ追加シロップ多めチョコレートチップ追加チョコレートソ―ス追加キャラメルソース追加エクストラホイップ氷少なめ』ってなに?」
「私の好きなカスタム。覚えてくれて嬉しい」
よくわからないが覚えるのは得意分野だ。ドリンクを一口すすり、僕は参考書コーナーから持ってきた本の山の中から、花火などに使用される炎色反応について記された専門書物をパラパラとめくる。
「そんなスピードでめくってもなにも頭に入らんだら」
「冒頭から暗唱しようか?」
「ううん、大丈夫。ドリンクのカスタムもだけど、そういえば愛知先輩は『そう』だったね。たまに忘れちゃうや」
あははと朗らかに笑う愛からは、他の人のように自分と違う存在を気味悪がる素振りを感じない。だから僕も、愛の前では常に気を張らずいられるのだと思う。今日は張っているけど。でもそれは「カッコつけたい」とか「よく見られたい」とか、そういう誰でも一度は経験するであろう類のもので、彼女といるときの僕はきっと、どこにでもいる普通の男子高校生だ。
それが心地よくて、温かくて、どうしようもないほど胸がいっぱいになる。
「愛、さんはなにを読んでるの?」
「なんかよさげな恋愛小説を適当に選んでみた」
「へぇ」と応えた後、僕はタイミング的に不自然じゃないことを内心で確認し、尋ねてみることにした。
「どうして愛さんは、恋愛感情がわからないのに恋愛小説を書きたいと思ったの?」
これは純粋にかねてからの疑問でもあるし、今は軽いジャブの意味合いも含む。愛はうーんと可愛らしく唇に指を当てながら答える。
「わからなかったからこそ、書いてみたかったんだと思う。皆と違って恋愛を知らない自分が、なんだか欠陥品みたいに思えちゃって。だから書いてみたら少しはわかるんじゃないかなって」
「……そっか」
想像していたより反応しづらい話で、次の言葉に詰まってしまった。僕はその気持ちを知っている。人と違う自分を出来損ないのように思ってしまう感覚。彼女が「同じ匂い」と言った理由が、今頃になって少し理解できた。
「でもね、」と愛は続ける。
「最近は自分も普通の女の子だったんだなって思うようになったじゃんね。……っていう言葉を引き出したかったんだら?」
顔が火のように熱を帯びる。愛は僕の姑息な作戦など全てお見通しだったようだ。誤魔化すように、キャラメルマキアートをまた一口飲む。なんだよこれ。甘ったるくてしかたがない。
「逆に聞きたいんだけど、愛知先輩は書きたいジャンル見つかった?」
「いや、特に。でも次の品評会ではSFでも書いてみようかなとは思ってる」
「テーマが花火のSF? すごく面白そう! たとえば……花火は宇宙に向けての光信号で、宇宙人と交友してるとか!」
「いいね。あとはー、そうだな、実は世界中の花火大会は全て意思を獲得したAIが取り仕切っていて、花火が放つ催眠光線で人類を支配しようとしていると、か……」
出かかった言葉に急ブレーキがかかる。愛が冗談でも笑えないと言いたげに眉間に皺を寄せていたからだ。確かに、宇宙人との交友と比べて設定がダークすぎたかもしれない。侵略とか征服で心躍るのは男だけのようだ。
「ねぇ先輩、」
話を変えるように、愛が口を開く。
「この後まだ時間ある? 観たい映画があるじゃんね」
そういえば、このモールは別棟に映画館もあったんだっけ。うんと応えると、愛はケータイをちょちょいと操作して、画面をこちらに向けてくる。
「この映画なんだけど、ね?」
反射でブッと吹き出す。タイトルが甘い、甘すぎる! キャラメルマキアートよりも! 観なくても、めちゃくちゃ恥ずかしい映画であることが容易に想像できる。
「えっと、その、うちの担任の海老原が夏休みに入る前、『決してはめを外すことのないよう、高校生らしく健全な生活を心がけ」
「観よ?」
「は、はい」
観念した僕は、顔の熱を冷ますように残ったドリンクを一気に飲み干した。女神に小首を傾げられて、断れる人類などこの世にいないのだ。愛は「まだ時間あるんだから、ゆっくりしりんよ」とけたけた笑っていた。
さらに一時間ほど時間を潰した後、映画館に移動するため愛は読みかけの本を購入し、僕は10冊全て覚えてから購入せず元の位置に返却した。
「本屋の敵」
愛が僕の脇腹を肘で小突く。なにもウィットに富んだ返しが思い浮かばず、苦し紛れに「いつもごめんなさい」と謝ると、「私は本屋じゃありません」と言われた。はぁ? 可愛いんだが。好き。
映画館に着いたら思いのほか時間がギリギリで、僕がフード担当、愛がチケット担当で分担することにした。「なにかしょっぱいもの!」という橘風要望に応え、ポップコーンの塩味と適当なドリンクを購入して愛を待つ。
「お待たせ!」
「待ってないよ。僕も今着いたとこ」
「だろうね」
どうでもいいことで笑い合って、カップル席のチケットを係員に……へ? カップル席??
「ここしかいい席空いてなかったの!!」
僕が尋ねるより前に愛は言う。確かに、館内の真ん中あたりの席はだいたい埋まっているようだけど……いいのだろうか? カップルでもないのにカップル席を利用して、なにかの法律に抵触したりしないのかな?
「いいじゃん、だって……」
その先の言葉はもごもごと濁されてしまった。だって、なんだろう。もうそういう関係みたいなもんだし……なんて自惚れきるにはまだ「資料」が足りない。
/
「はー! 面白かったねぇ映画!」
「そうだね」
はい、僕は嘘つきだ。映画の内容なんてほとんど覚えていない。この僕が。横の愛が近すぎて、完全に意識を持っていかれていた。いつかと同じ柑橘系の香りが暗闇の中でずっと鼻先をくすぐり続けてきて、愛が身じろぐたび、それが濃くなったり薄くなったり。きっとこれからの人生、ミカンを食べるたび僕は今日を思い出すのだろう。
そしてできることなら、そのときも隣で君に笑っていてほしい……よくもまぁ、二か月ちょっとでここまで夢中になれたものだ。今なら自信を持って言える。僕は愛が大好きだ。きっと日下部にだって負けないぐらい。
その後、僕らはショッピングモールからバスで駅へ帰った。改札に一歩近づくたび、足にかかる重力が増す。まだ別れたくないと、地球も言っているようだ。僕は母なる大地からの要請に応え、今世紀最大の勇気を絞り出す。
「まだ話し足りないんだけど。ちょっと、川辺でおしゃべりでも、しない?」
「……うん」
愛の返事は夏の終わりの空気を含んでしっとりとしていた。
駅の反対側、要するに花火のときと同じ北口側に出て、歩いて数分。河川敷はコンクリートの階段のようになっていて、僕らはそこに腰掛けた。自分からおしゃべりしようって言ったくせに、なんの話題も思いつかない。日下部のときと違ってちょっとだけ焦る。僕は全然気まずいわけじゃないけど、愛を退屈させてないか心配で。
「ほんとはね、」
痺れを切らしたように愛が先に口を開いた。
「映画の内容なんてほとんど覚えてないじゃんね。なんか、別のことばかりに意識がいっちゃって」
なんだ、愛も嘘つきだったのか。
「実は僕も。愛さんのことばかり考えてた」
出てきたのは自分でも驚くほど素直な言葉。「私は先輩のこと考えてたとは言ってないし」と愛は突っぱねるけれど、照れ隠しなのは明白だ。これだけ長く二人きりで過ごせば馬鹿でもわかる。隣の愛に目をやると、愛はボブカットの髪の先を手でくしゃっとやって顔を隠そうとしている。が、長さが全然足りなくて真っ赤な頬が丸見えだ。このままじゃ愛おしすぎて、狂う。理性が壊れる前にちゃんと伝えなければ。僕は背筋を伸ばし、愛の横顔を見つめる。
「愛子と賢人は結ばれたよね」
「えっ!? あっ、リレー小説の話? なによ急に」
「悩んでるんだ、続き。いかんせん、誰かと付き合った経験なんてないからさ」
「?」
「今日は小説の資料集めって言っただろ。だから、」
協力してほしい。できれば、これからもずっと。
ここ数日考えに考え続けた告白のセリフ。完璧に決まったと思ったのに、愛はなにも応えない。静寂の中、目の前の川で鯉の群れが口をパクパクして泳いでいる。待て待て、今は愛のセリフのシーンだ。お前らは黙ってろ!
「やり直し」
「へ?」
「キザすぎる。先輩っぽくない。やり直し」
そんなバカな……補欠のセリフなど当然用意していなかった僕がワタワタし始めると、愛はにへらと実に愉快そうに笑った。
「そっちのほうが先輩らしいよ。てか私、ちょっと眠くなってきたじゃんね」
「えぇ!? じゃ、じゃあそろそろお開きにして、家に……あ」
愛は目をつぶり、唇をこっちに突き出している。……そういうこと。僕は敵わないなと苦笑いをこぼし、お姫様に眠気覚ましの魔法をかけてやった。
本当に、甘ったるいことこの上ない。
/
「ただいま。遅くなってごめんなさ」
「どこに行ってたの?」
「……ぇ?」
まさに青天の霹靂だった。愛を駅まで送ってから家に帰ると、母が玄関で待っていた。いつか夢で見た風景と同じ。だけどこれは僕が望むような展開ではないと、母の醸し出す雰囲気で感じ取った。
「どこに行っていたのと聞いているの」
「えっと、こ……文藝部の友人の愛さ、阿良々木愛さんと、ショッピングに」
「阿良々木愛」
母は愛の名前を復唱すると、少し考えるようにアゴに手を当てた。母が僕の交友関係に興味を示すなんて初めてのことだ。次に続く言葉が怖くて、喉からひとりでにヒュッと音が漏れる。やがて母は静かに、淡々と告げた。
「その子と関わるのはもうやめなさい」
「は!? なんで」
「いいからやめなさい!」
いつもロボットのような母が声を荒げた。ビクッと肩を縮こまらせながらも、僕はなにか言い返さなければと思う。が、そもそもなんで僕が愛と関わることが母にとって問題なのか。理由すら教えてくれない相手に、なにをどう伝えれば納得してくれるのか。
結局、結論が出るより先に、母は「ご飯は温めて食べなさい」と言い残して自室にこもっていってしまった。追いかけてまで反論する合理性はない。言い訳では、ない。
釈然としない気持ちを抱えたまま冷蔵庫を漁っていて、ハッとする。今日はハンバーグだった。だけどたぶん、いつもみたいに冷凍食品じゃない。手作り、だよな? どういう風の吹き回しだ。商品開発部にでも異動になったのだろうか。
「まずっ……くはないけど」
焦げついた裏側を眺めながら母を思う。あの人はなにを考えているのか。わからない。昔から、ずっと。
あの人は僕をどうしたいのだろう。
どうして僕を生んだのだろう。
あの人にとって、僕はいったいなんなのだろう。
焦げを覆うようにケチャップを多めにかける。隣の部屋から途切れ途切れに聞こえてくるキーボードを叩くカタカタという音が、今日はいつも以上にわずらわしく感じた。
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休み明け最初の活動、今日は今年度第二回目の品評会。テーマは「花火」。すでに皆の作品は共同フォルダのほうに入っていたので拝読済みである。
袴田先輩の「花火師になるため田舎の家を継ぐ主人公とシンガーを目指して上京する彼女が、それぞれの夢のために別れを決断するヒューマンドラマ」は普通にエモかったし、橘の「たこ焼き屋台の店主が大量のたこ焼きのうち一個だけに毒を忍ばせ、狙った人物をピンポイントで殺す本格ミステリ」も得意ジャンルだけあってさすがの出来だった。日下部の、「線香花火をお尻に挟みながら火をつけて、落とした人から順に殺されるデスゲーム」もどうしたお前って感じだが、まぁ面白かった。
問題は愛の小説だ。もう、思い出すだけで顔から火を噴いて爆発しそうである。僕自身が花火になってしまう。
いつもの倍ほどもゆっくりした足取りで部室のドアの前に辿り着くと、すでに中ではどんちゃん騒ぎが始まっている気配がした。
「お疲れ様で「おっ! 王子様が来たぞー!」すって、袴田先輩!?」
「愛知くん、意外と、やり手」
「な、なんの話ですか?」
「ほう。しらを切るっていうのかい。よし! 橘、音読攻撃だ!」
「協力してほしい。できれば、これからもずっと……ちょっと、読んでるこっちが、照れる」
騒ぎの最中、愛は机に突っ伏していた。二の腕と顔の隙間から、ピンク味を帯びた耳だけがぴょこんと飛び出している。可愛い……とか言ってる場合じゃない。
そうなのである。愛が書いてきた花火小説はまさかの「ノンフィクション」。花火大会の日から後日のデートに至るまで、それはもう克明に記されていた。
顔を上げた愛と目が合う。それこそ花火のように真っ赤に炎色反応を起こし、狼狽える愛。はは、玉屋ー。
「違うんです先輩! まさかバレるなんて……」
いやバレるだろ。愛沙と賢哉なんて名前にしたら。賢人しかり、彼女には名付けのセンスはないようだ。
「敬語はダメだよ阿良々木ちゃん…………愛知くん、寂しくなっちゃうから」
「っ! もう、意地悪しないでください!」
ジタバタと悶える愛。可愛い。もういいや、今はこの癒し空間に思いっきり浸ろう。
と、そのとき彼がいないことに気付く。
「日下部くんは?」
「彼はトイレ、行ってる」
「じゃ、じゃあ僕もちょっとトイレに、」
「待て、愛知くん」
袴田先輩の制止の言葉が響く。別に怒っているふうではないけれど、今までにない圧があって、自然と姿勢が正される。
「君は俺らと一緒に先に品評会だ」
「でも、」
「いいから」
その語気の強さに、鈍い僕もようやく先輩の意図を悟る。ここで僕が迎えに行くことほど、日下部にとって屈辱的なことはないだろう。僕は席に着いておとなしく品評会の輪に加わる。といっても、ほとんど愛のノンフィクション小説の話題で冷やかされただけだったが。
「そういえば、愛知先輩は今回作品書かなかったんですか?」
愛の質問に横の二人が食いつく。
「そうだよー。賢哉くんの花火SF小説読みたかったのに」
「愛沙ちゃんも、楽しみに、してた」
「もう勘弁してください……後生ですから……」
一言一言の合間にダメージを受け続ける愛を横目に、僕はちょっと真面目になって答える。
「その、書こうと思ったんですけど。どうしても気分が乗らなくて」
「? なにかあったんですか?」
愛の真っ直ぐな問いと、あの日の母の声がオーバーラップする。
『その子と関わるのはもうやめなさい』
もちろんそんな命令に従うつもりはない。たった一人の肉親であっても、全く心の内を見せてくれない人より、愛や文藝部の皆との関係のほうがずっと大事だ。
けどたまに、母の言葉の裏に隠されたものを読み解こうとしてしまう。少なくともああ言ったときの母の表情は、僕にまるっきり興味ない人間のそれには見えなかった。だからこそ心が晴れず、また気も散ってしまい、とても執筆どころではなかったのだ。
「なんでもないよ。愛さん」僕が心配をかけまいと答えると、
「はい、『阿良々木』どっか行きましたー」
「カフェに、お出かけしてるんじゃ、ない?」
「もしくは河川敷かな?」
「しつこいですよ二人とも」
そして最後まで他の作品には一切触れることなく品評会が終わったのだが、こんなんでいいのか文藝部。正直、日下部のデスゲームについては皆でいろいろ考察したかったのだけれど。尻から火種が落ちたら爆発四散する理屈とか。
/
その後、ついに日下部が戻ってくることのないまま、袴田先輩は解散を伝えた。
「あとは俺に任せて。君は阿良々木ちゃんをしっかり駅まで送り届けてあげたまえ」
でも、と言いかけて口をつぐむ。今まで愛は部活の後、日下部と一緒に帰宅していた。なら日下部はただ落ち込んでいるのではなく、愛と帰宅する役目を自然に僕に譲るため姿を見せなかったのかもしれない。全く、彼には頭が上がらない。
「わかりました。お任せください」
我ながら大袈裟に任務を請け負うと、愛と連れ立って部室を出、玄関に向かう。一年も二年も、ついでに三年も玄関の位置は近い。合流していつものように正門に向かおうとすると、後ろから制服の袖をつままれる。
「西門側から、帰らん?」
振り返るとモジモジしながら、愛。その仕草と西門というワードで全てを理解する。
わが校は最寄りの東岡崎駅に続く道が大きく二つある。正門からの道と、西門からの道だ。後者は伝統的に「恋人ロード」と呼ばれている。由来は説明するまでもない。
「ごくり……」
「口で言う人、初めて見たわ」
西門側から校舎を出ると、目の前には駅付近までほとんどまっすぐに伸びる道がある。そして、前の通行人はほとんど二人組で、手を繋いでいた。
……日本には、「郷に入っては郷に従え」ということわざがある。日本人たるもの、そして紳士たるもの、ルールは守るべきだ。他意はない。僕らはどちらからともなく指を絡め合い、駅へと続く10分程度の道を、わざとらしく時間稼ぎをしながら歩き始めた。
九月といってもまだ暑い。僕は自分の手汗が気になってしかたなかった。気持ち悪いと思われてないだろうか? だけどそんな心配は、愛の笑顔一つで吹き飛ぶ。
「先輩と恋人ロードを歩いてるなんて、夢みたい」
心の中でそっくりそのままお返しする。はじめのうちはお互い黙りこくっていたが、途中からはそれがとてももったいないことだと気付き、黙っていた時間分も取り返すようにしゃべり続けた。
「それにしても、例のノンフィクション小説には驚かされたよ。愛さんの目には、僕ってあんなにカッコよく映ってるの?」
「へ? べ、別に私は、普通に見たままの描写を、」
「僕の顔の周りってキラキラが飛び交ってるの? 今も?」
「……もう、先輩まで意地悪して」
「ごめんごめん。嬉しくって、つい」
「私も先輩のSF小説読みたかったんだけどなぁ」
「まぁ、それはおいおい。ところで愛さんって、執筆のときAIは使ったりするの?」
「ああ、うん。使うっていうか、お手伝い?はしてもらってる、かな?」
歯切れの悪い言い方に小さな疑問が生じた。が、まぁセンシティブな話題だしと納得する。
「なんでそんなこと聞くの?」
「いや、ちょうどSFの話題が出たからさ。あの後少し考えたんだけど、AI絡みの設定にするなら、岡崎の花火は実はAIが取り仕切っていて光の明滅で人間とコミュニケーションを取ろうとしていた、なんてのはどう?」
「それ、私の宇宙人設定のパクリだら」
「うん。だから書くのやめた」
「ふぅん。共同作業みたいで悪くないけどな」
雑談以上イチャつき未満の会話をしていたらあっというまに駅だ。どうせならもっとロマンティックな話をすればよかったかなという思いと、少なくともまだ一年半はこの道を一緒に歩けるのだから焦らなくていいかという思いがある。相反する二つの感情。やっぱり恋というのは矛盾でできているらしい。どんな本にも載っていなかった世界の真理を愛のおかげで発見し、僕は無性に嬉しくなった。
「じゃあ、気を付けて」
「うん。また明日」
愛が改札を通り抜けホームへと登っていく。感情を捨てたかった男と恋心を知りたかった少女はこの日、お互いの姿が見えなくなるまで手を振り合っていた。
/
その週の末、また母に連れられて病院を訪れていた。いつもの定期受診より若干周期が早まっている。緊急というわけではなさそうだけれど、僕はそれに小さな違和感を覚えた。
ベッドに寝かされると、すぐに麻酔にかけられる。遠のく意識の中、視界の端にとある人物の影を見た気がした。
母さん……?
再び意識を取り戻したときには夜の八時を回っていた。今まで、こんなに長く拘束されていたことはない。上半身だけ起き上がり周りを見渡す。「どうした」という医師の言葉に「母がここに来ていませんでしたか?」と尋ねる。
「君のお母さんがここに? いるわけないだろう、なにを寝惚けているんだ」
憐れむような物言いに心の奥がしんと冷える。そうだ、そういえば僕は、ここでは研究対象の化物だったんだ。早く皆のところに帰りたい。愛に会って、普通の男子高校生になりたい。
車に戻ると、母は確かにいつもどおり運転席にいた。帰ってきた僕に目をくれることもなく、パソコンのキーボードを叩いている。カタカタ、カタッ、カタタタン、カタカタカタカタカタ……
「お待たせ、母さん」
「……」
今日はいつもの返事すらない。よほど切羽詰まっているのだろうか、薄っすら不機嫌そうなオーラが滲んでいる。やがて乱暴に画面を折りたたむと、ガンッと両拳で強くハンドルを殴った。思わずヒッと声が漏れる。信じられないが、その後、母は何事もなかったように車を発進させ、前を向いたまま僕に尋ねた。
「今日は遅いから、外で食べていきましょう。なにがいいかしら」
「へっ? えっと、ファミレス、とか?」
「そんなのでいいの?」
「え? う、うん、全然」
むしろいつもよりよっぽど健康的だと思う。ファミレスを目指し、母の車はいつもの帰宅ルートから外れる。そこまできてようやく気付いた。ファミレスどころか母との外食なんて、たぶん人生で初めてだということに。
***
ハローハロー、愛子さん。
実はさっきまで、病院でたくさんの管に繋がれていたんだ。昔からずっとそう。サヴァン症候群の研究という名目で、僕は医者たちに実験動物のように扱われている。
耐え難いほどに冷たくて、機械的。まるで空っぽの箱みたいな時間だ。
この管の一本一本が僕を普通じゃない存在足らしめているのだとしたら、今すぐ引きちぎって君の元に行きたい。
僕は君にお姫様になってほしいと言った。けど、本当はそうじゃない。特別な二人じゃなくていいから、君ととびっきりの普通を謳歌したかったんだ。
どこにでもいる高校生みたいにデートして。一つの時間を半分こして。いちいち覚えていられないほどの思い出を積み重ねて。
いつかは母にも君のことを紹介したい。これが僕の自慢の彼女だよって。「やるじゃない」なんて言われながらひけらかしたい。
叶わない未来じゃないはずだ。空箱から飛び出せば、僕らは普通の恋人同士なのだから。
なのにどうしてだろう。先のことを考えるとなぜか、黒いモヤモヤが視界を覆う。自分自身原因がわからないモヤモヤだ。
いつかそれが君にも牙を剥くんじゃないかと思うと、どうしようもなく不安になる。
……僕はいったいなにを言ってるんだろう。君と結ばれて、こんなにも幸せだというのに。
過ぎたる幸福はそれを失う恐怖をも生むのだろうか。
手に入れることは失うこと。
傷付くことは傷付けること。
夢を見ることは諦めること。
愛することは恐ろしいこと。
君と出会ってからずっと、僕の感情は真っ二つに引き裂かれている。恋って優しいけれど、冷たい。だから今はただ、安心できる温もりが欲しい。
今日は君の唇の感触を抱いて寝よう。
君に会える明日が待ち遠しい。
***
後部座席で揺られながらとんでもなく赤裸々な感傷を綴った後、平静を装って愛に『更新しました』と連絡を送る。すぐに既読が付いて『了解です!』と返信が届く。
この瞬間がいつもむず痒くてたまらない。初心な少女に丸裸の写真を送り付けているみたいな、背徳的な気分になる。これを読んで、君はいったいなにを思うのだろうか。
怖いけれど、全部知ってほしい。
それから、君にも忘れてほしくないんだと思う。今の僕を。
「着いたわよ」
母の声で意識が二人の愛の巣からファミレスの駐車場に戻って来る。少しお高い分、なかなかのクオリティを誇ると噂のチェーン店だ。わりと夜遅くなのにほぼ満席で、唯一空いていた窓際のテーブルに通されて向かい合わせに座る。
「私はこれでいいわ」
投げやりみたいに母が選んだのは和風ハンバーグとライスのセット。僕も同じのにしようかと思ったが、以前食べた母のハンバーグの味を上書きするのがなんとなく嫌で、結局、明太子パスタとポテトフライを頼んだ。
「母さんもポテトフライ、食べる?」
「……一本だけいただこうかしら」
会話らしい会話はそれだけで、あとはお互い黙々と目の前の食事に向き合った。




