第三章
七月下旬。今日は一学期最後の部活だ。最近はイベントというイベントもなく、本棚にある例の「ジャンル・出会い系」の小説たちを自由に読んだり、他の部員とおしゃべりするだけの時間。にもかかわらず、部室に向かう足取りは軽い。その一番の要因が彼女であるという事実について、今のところ鈍感なフリを貫けている。が、ふとした拍子に足を滑らしそうで、気が抜けない。
部室に着くと日下部だけが先に来ているという一番よくあるパターンで、僕は軽い挨拶をして長テーブルの斜め対面に座った。それ以上もそれ以下もない。息苦しいと思うことも特にない。今、日下部が読んでいる本は『夜は短し歩けよ乙女』。この前までは『図書館戦争』シリーズだった。どういう心境の変化があって古めの純文学から比較的最近の恋愛小説にシフトしたのかは、聞くつもりはない。聞いてしまうと、ここが少しだけ息苦しい空間に変わってしまうような予感があった。
「……おい、愛知」
不意に、正面から声がした。いつまでも続きの思いつかないリレー小説の執筆を一時中断して顔を上げると、いつのまにか日下部が僕の正面の椅子に移動していた。なにかを決心したような表情に、自分の喉から緊張の証と疑わしき音が鳴る。
「よっ、お疲れさん! 二人とも今日もお早いな。熱心で素晴らしい」
「部長、入室が早い。もう少し待てば、面白いものが、見れた」
ピりついた空気を打ち破りやってきたのは袴田先輩と橘。今度は口から明確に安堵の息が漏れる。
「チッ。見世物じゃねぇんだよ橘」
セリフほどには怒っていないテンションで日下部がたしなめる。同時に、最後の部員が到着する。
「遅くなりました! きゃっ」
「お前さぁ、その自分の声のデカさに驚く芸いつまで続けんだよ。もう一六年目だぞ?」
「別に芸じゃないし! それを言うならミッくんもツンデレ芸一七年目だら。いい加減素直になりんよ」
「誰がツンデレだコラ」
にわかにいつもの雰囲気が帰ってくる。やっぱり僕はこの酸素濃度が一番好きだ。ずっと今のままでいられたらと思う。たった二か月弱で、僕にとってここはそういう場所になっていた。
諸行無常。橘がホワイトボードに文字を書き始める。「毎年恒例 花火大会!」と、ギャルらしからぬ達筆を見て、僕はこの部室に初めて来た日の「ようこそ文藝部へ!」の文字を思い出す。
袴田先輩が仰々しく皆の前に立つ。
「橘と日下部は知ってのとおり、我が文藝部は毎年有志を募って乙川の花火大会に参加している」
「参加というか、見るだけ。有志というか、暇人」
橘が補足すると、阿良々木愛が「そうなんですね! 楽しそう!」とはしゃぎだす。
「今年は八月一日に開催だから、文藝部らしく風流な格好をしてくるように。意味は言わなくてもわかるよな?」
要するに浴衣か甚平でも着てこいということと思われる。困った。そんなの持ってるやつが、長らくぼっちなんてやってるはずないだろう。
「当日は十六時に東岡崎駅北口側に集合。そこから無料開放してる図書館の駐車場まで皆で歩こう。会場にはキッチンカーや出店もあるぞ」
なるほど、文藝部は基本暇人の集まりだからか参加者確認という工程は省くらしい。確か橘にはギャル友がいたはずだけど、こう見えて文藝部員としての自覚は強いようだ。あと阿良々木愛も初遭遇のとき友だちらしき人たちと一緒にいたけど、そのあたりは……
「友だち皆彼氏と見に行くって言ってたから、皆さんがいてよかったです!」
なるほどなるほど、皆お姫様になってそれぞれの王子様とお楽しみというわけか。それにしても無自覚でこの場の全員を刺しに行く阿良々木愛、恐るべし。
「あぁ、それに関連して一つ、」
おもむろに、袴田先輩がネクタイをきちっと締め直した。
「我が文藝部に伝わるジンクスを知っているか?」
「ジンクス、ですか?」
「花火大会の日、告白をした男女は必ず結ばれるというジンクスだ」
「それはもしかしなくても出会い系時代の名残ですか?」
「そうだ」
なるほどなるほどなるほど、我々には一切関係がなさそうだ。その後、袴田先輩が「なにかわからないことがあればグループLINEで聞いてくれ」と締めくくり、話は終わった。待っていたように阿良々木愛がスッと僕の右隣の席に座り、耳元でささやく。
「リレー小説の続き、まだですか?」
「う゛っ」
右側を向けない。彼女は今、どんな顔をしているのだろう。からかってるだけ? それとも照れてる? 見ないほうが余計にあらぬ想像を掻き立てられてよろしくないが、かと言って確認する勇気もない。
ついでに真正面からもまた無言の圧を感じ、顔を上げられない。二面楚歌。よって、僕の顔は左側に逃げる。
「……期待してますから。返事」
後頭部に投げかけられた声はとてもからかいとは思えない弱々しいもので。「続き」から「返事」への些細な変化に、鈍感を演じる僕の足元が小さく揺らいだ。
◇
赤、黄、青。カラフルな光が真っ黒な空を刹那の花畑へと変貌させる。
「綺麗ですね」
隣の阿良々木愛のつぶやきは、花火の破裂音と大歓声の中でもやたらはっきりと耳に届いた。
「君のほうが綺麗だよ」そう言えたら少しは格好もついただろうに、臆病者の僕からそんな言葉が出てくるはずもなくて。ボブカットを耳の後ろにかけた君の横顔に見惚れることしかできない。
今、文藝部の他の三人は出店に買い出しに行っている。こんな機会、きっともう二度と巡ってこないのに。早くなにかアクションしないと。でも……なんて躊躇していたら、チャンスの前髪のほうから掴んで欲しそうに、僕の目の前に垂れてくる。
いつのまにか君も僕のほうを見ていて、色素の薄い瞳の中心に真っ赤な顔の僕が映っていた。無言のまま見つめ合うこと数秒。世界が、止まる。
「ねぇ、愛知先輩。返事聞かせて」
ねだるような君の声に理性なんて容易く弾け飛ぶ。そして。
――皆と解散した後、「終電逃した」と悪びれず言う君と並んで歩く。なんで幼馴染の日下部と同じタイミングで帰らなかったのかなんて、さすがにそんな野暮なことは聞くまい。僕の家は駅から15分程度のところにある一軒家で、皆には内緒にしていたが、本当は図書館の駐車場より家のほうが花火はよく見える。だけど毎年一人、自室の窓から眺めていた花火よりも今日のほうがずっと鮮やかに映った。
家の前まで辿り着くが、いつもどおり屋内の電気が付いている様子はない。さすがの母ももう寝ている頃だろう。
と、油断していたから、ドアを開けた瞬間面食らった。
「遅いじゃない、賢太! 心配したのよ!」
母は寝ているどころか、今にも外に飛び出さん勢いで僕を待ち構えていた。
「ご、ごめんなさい母さん」
「謝って済む問題じゃ……あら? そちらのお嬢さんは?」
僕の後ろに隠れていた阿良々木愛はきゃっと小さく悲鳴を上げた後、おずおずと僕の横に並び立ち、母に向かって深々と頭を下げた。
「はじめまして! 賢太さんの、こ、恋人の、阿良々木愛と申します……」
後半は尻切れトンボで隣の僕の耳にさえよく聞こえなかった。しかし母は、生まれて初めて僕の前で満面の笑みを咲かせた。
「まぁ! いつもうちの賢太がお世話になっております」
「こっ、こちらこそっ!」
「さぁどうぞ、上がっていって! なにもない家ですけど」
阿良々木愛は恐縮しきったように靴を脱ぎ、丁寧に揃えて家に上がる。彼女というイレギュラーすぎる存在のおかげで、どうやら僕の門限破りは不問に終わったらしい。阿良々木愛に続いて家の奥に進もうとすると、すれ違いざま、母が穏やかに微笑みながら僕に耳打ちした。
「唾液オキシトシン64pg/mL」
◇
白い天井が見えて、そういえばここは病院だったと思い出す。どうやら僕はいつもの麻酔にかけられて、夢を見ていたらしい。
我ながら恥ずかしく、そして幸せな夢だった。でも夢は夢。今になって思えば現実ではありえないことだらけだった。阿良々木愛が僕の彼女になるとか、母があんな笑みを僕に見せるとか。だいたい、今までの人生で母から「賢太」と名前を呼んでもらえたことがあっただろうか。覚えてないということは、そういうことだ。
「なかなか興味深いデータが取れた。それじゃ、もう帰っていいよ」
まるで機械のように抑揚のない声で医者に言われ、駐車場で待つ母の元に戻る。
「お待たせ。遅くなってごめんなさい」
「待ってないわ」
「……あの、母さん」
「なに」
少し躊躇った後、勇気を出して尋ねる。
「僕の名前ってなんだっけ?」
「はい?」
「その、えっと、ド忘れ、しちゃって」
祈るような思いで絞り出した言葉に、しかし母は突き放すような声色で応えた。
「意味のない問いは好きじゃないわ」
あぁ。
「そうだよね。ごめんなさい」
母はなにも言わず車を発進させた。思えば物心ついた頃から、母は僕に対してバリアを張っていた気がする。あなたには興味がない、踏み込んでくるなと、言外に伝えられ続けてきた。
だったら物心つく前はどうだったのだろう。昔は僕の名前を呼んでくれていたの? どういう意味で「賢太」って名付けたの? 父さんがいないのはどうして? 気遣いなんて無用なものを覚えるより早く聞いておけばよかった。たった一人の肉親が、今は他人よりも遠く感じる。
しばらく気まずい沈黙のせいで忘れていたが、そういえば、もう一つ母にお願いごとがあったのだった。
「あの、母さん」
「なに」
「えっと……来週文藝部の皆と花火大会に行くんだ。それでね、部長が浴衣か甚平を着てくるようにって……その、迷惑だったら別に無理しなくていいんだけど」
「あなたが、お友だちと花火に?」
「う、うん。ダメかな?」
フロントミラー越しの母は目を見開いて固まっている。数秒ののち、急に意識を取り戻したようにハンドルを切った。
「いいわ。帰る前にこのまま寄っていきましょう」
ちょうど左側に見えていた地元で一番大きなショッピングモールの駐車場に潜り込むと、母は財布を取り出して中からカードを引き抜き、後部座席の僕に向かって手だけで受け取るよう促した。
「これで好きなの、買ってきなさい」
嬉しい、けど、やっぱり一緒に選んでまではくれないみたいだ。僕はもう一度だけ、なけなしの勇気を振り絞ってみる。
「母さん。僕、どんなのが似合うと思う?」
「……悪いけど、そういうのには疎いのよ」
「そっか。ごめんなさい」
「謝らないでいいわ」
「わかった、ありがとう」
母にお礼を伝えてモールへと歩き出す。母に負けず劣らずそういうのに疎かった僕は、結局、一番最初に目に入った店の店員さんに勧められるまま、紺の甚平を購入した。
/
きたる八月一日はまさに花火日和というような、雲一つない快晴だった。一六時集合と言われているが、一五時半に着くように余裕を持って家を出る。
二階から階段を下りて玄関に向かうとき、リビングのドアの前を横切る。ドアは空いていて、奥で仕事中の母と一瞬目が合った。すぐ目を逸らした母に向けて一方的に「行ってきます」と告げ、約束の東岡崎駅に向かう。駅までの道のりはすでに浴衣姿の人々でいっぱいで、こころなし、皆どこか浮足立っているようだ。毎年家の中から見ていた光景は、壁一枚分外側に出てみただけで全く別世界のように思えた。
駅の北口に着くと同時にポケットのケータイが震える。
日下部ミツル。僕を皆より一足早く呼び出した男の名前が、画面に表示されている。
『バス乗り場の近く』
端的に指示された方向に目をやると、やたら目立つイケメンが浴衣女子たちに遠巻きに見られながら、壁に背を預けている。
「お待たせ」
「おう、待ってた」
僕とほぼ同じような紺の甚平姿なのになぜこうも着こなしに差が生まれるのだろう。日本男児六千万人全て混ぜて平均を作ってみました、みたいな造形をしている自分の顔と体型が恨めしい。
「少し歩くか」
そう言って日下部は背を向けて歩き出す。わりと最近できた駅ビルの中を意味もなくブラブラしながら、意味のない会話をする。宿題はどうだとか、最近なにしてたとか。結局お互いなにもしてなくて、静かに笑い合ったり。
橘的な誤解を恐れず言うと、僕は日下部が好きだ。別にそんなに話すほうじゃないけれど、無関心な無口ではない。たぶん好きな空気が似ているんだと、最近気が付いた。
だけど日下部は唐突に、残酷に、あえてその空気を壊しにきた。
「俺は今日の花火大会中に、愛に告白する」
雑踏が消え、静寂が訪れる。返事をするべき僕が言葉を見失ったからだ。しばらく悩んだ末、なんとか「そうなんだ。応援してるよ」と掠れる声で絞り出した。応援されたはずの日下部は、端正な顔を思いっきりゆがめて僕を見下ろした。
「それ、本気で言ってんの?」
「え?」
「本心で話せよ。人形じゃあるまいし」
本心。①本当の気持ち。②本来の正しい心。良心。
昔辞書で読んだ文字列が蘇る。今回の場合、前者の意味だろう。本心。僕の本心。そんなものわかれば苦労は……ふと、この前の検査の日を思い出す。阿良々木愛が僕の彼女になる。そして母に祝福される。夢に見てしまった幸せな今日。
そうだ、答えなんてとっくに出ているじゃないか。そして日下部がなぜわざわざ事前に僕に宣言してきたのかだって、わかっている。彼は「本気」だからこそ、抜け駆けという方法で後々の付け入る隙を残さなかった。
「忠告はしたからな。……ほら、そろそろ戻るぞ。皆来る頃だ」
再び日下部の背中を追いながら、ポケットの中にこっそり忍ばせた僕の「本心」に思いを巡らせる。今日のために宿題もなにもそっちのけで何度も何度も書き直した、僕なりの本気の証。日下部との関係を壊したくないからと、僕の気持ちはそれを破棄する方向に傾いていた。けど、本気に本気でぶつからないのは侮辱だったはずだろう? ……覚悟を決めるしかない、のかもしれない。心地よい空気を自ら脱し、肺が灰に塗れる覚悟を。
ポケットの底のケータイを握り締めると、手の中で小さく震えた。おそらく誰かの到着連絡だろう。
運命の花が開くまで、あと四時間。
/
「双子コーデ、よき」
合流した僕と日下部を見た橘の第一声はそれだった。なるほど、傍目にはそういうふうに映ってしまうのか。なるほど……。ちなみに橘は二次元でしか見たことがないようなミニスカートの浴衣という出で立ちで、その美貌も相まって異様に目立つ。しかしもっと目立つ存在がここに。
「皆ちゃんと風流をわきまえているな」
浴衣を着たゴリラがよしよしと頷く。なぜ黒にした? この場合、似合っていると言ったら悪口になるのだろうか? とりあえず「先輩も風流ですね」と無難に応える。
そして。
「どうですか? 愛知先輩」
水色に白い花びらが映える浴衣姿の阿良々木愛。いつものボブカットをハーフアップ?にして、後ろをバレッタで留めている。白いうなじがあらわになっていて、なんというかこう、「風流だね」。袴田先輩とは別の意味で風流。とても便利な言葉だ、風流。しかし阿良々木愛は若干不満そうに頬を膨らませる。
「めっちゃ似合ってるじゃん。可愛いよ、愛」
「そうだら? ありがとミッくん」
……どうやら第一ラウンドは完敗のようだ。あまりにスマートな褒め方に男としての格の違いを感じ、気後れしてしまう。
そのまま一行は移動を開始し、勝負も第二ラウンドへと移行する。自然と前を袴田先輩と橘が並んで歩き、後ろを阿良々木愛と日下部、僕が着いて行く流れになる。
「三列は邪魔になるな。愛、もっとこっちにくっつい「確かにそうだね。じゃあ私が後ろを歩くから二人でお話でもしりんよ。せっかくの双子コーデなんだし」
「「……」」
第二ラウンドは引き分け。というより、両者敗北といったところだろうか。後ろからカシャカシャと写真を撮る音がする。前からは橘のガンギマリの目が時折こちらを振り向く。せめて黒の甚平にしておけば……いや、それはそれで悪手か。
人の流れに身を任せて歩いていると、ちょうど自宅の前を通りがかった。「あっ」条件反射で声が漏れる。
「なんだよ」
「あ、いや、そこ僕ん家なんだ。黒い屋根の」
「ハァ!? じゃあわざわざ暑い外で見なくても、お前ん家から見れたじゃん! ちなみにお前の部屋は?」
「二階」
「絶対見れたじゃん」
「いやぁ、どうだろ。はは」
適当に笑ってやり過ごす。やっぱり伏せておけばよかった。だいたい僕はよくても、母が友だちの連れ込みを許してくれるイメージが湧かない。
/
時折ピリピリした沈黙を挟みつつ駄弁っているうちに、いつのまにやら目的地である図書館の駐車場にいた。交通規制が始まる一七時より前に着き、おまけにちょうど五人座れるぐらいの空き場所を発見してシートを敷くことにも成功し、ホッと一息つく。
「出店で適当に飲み物と食べ物買ってこよう。二人がここで荷物番、三人が買い出し係で」
落ち着いたのも束の間、袴田先輩の発言が第三ラウンド突入を告げる。担当はグーとパーのやつ(名称不明)で決めることになった。阿良々木愛と二人で荷物番なら最高、三人で買い出しでも上等だ。とにかく、阿良々木愛と日下部が二人きりになる状況だけは絶対阻止したい。
またそれは日下部も同じ考えのようで、手を交差して組んでからクルッて捻って中を覗くやつ(名称不明)をしている。
そしていよいよ勝負のときがやってきた。
「じゃあいくぞー。グッとっパー」
/
「なぁ、愛知」
「なに?」
「なんで俺ら、二人で荷物番してんだろうな」
「それは日下部くんがグーを出すから」
「はいブーーーメラン」
キャッキャと楽しそうに買い出しに行く三人を見送り、僕と日下部は今、シートに並んで腰を下ろしている。「見て見て! 双子コーデ! 可愛い!」後ろから知らない女の人の声が聞こえ、どちらともなくそっと距離を取った。
「知ってるか」日下部が口を開いた。「愛ってああ見えて結構モテるんだぜ」。
どこか誇らしげな響きに、なんで君が自慢してるんだよと言いたくなるが、一旦こらえて話の続きを待つ。
「俺が把握してるだけでも毎年一人は告られてるし、愛はそういうの自分から言うタイプじゃないから本当はもっと多いはずだ。一日に三人告られたときは、さすがに相談されたけどな」
「そ、そんなに?」
「天然人たらしなんだよ、あいつ。幼稚園のとき俺ん家に泊まりに来たことあんだけどさ、朝、俺が布団にお漏らしして母さんに叱られてるところに割って入ってきて『それ、漏らしたの私です!』って庇いやがったんだぜ。信じられねぇだろ? いっつもオドオドしてるくせに、人のためなら迷わずそういうことしちまうんだよ。さすがの母さんも呆れて笑ってたし、俺もその瞬間あいつに惚れたんだ」
「今まで聞いた恋のキッカケの中で、一番特殊かもしれない」
「るっせぇ。とにかく、あいつはお前が思ってるよりずっといい女なんだよ」
こんなに饒舌に話す日下部は珍しくて、少し驚く。彼の言葉には僕が知らない十数年分の重さが乗っている。出会ってわずか二か月で少しでも彼女を知った気になっていた僕なんかに到底太刀打ちできる気持ちの大きさじゃないと、否応なく突きつけられた心地がした。
「でもさ、あいつ、『恋心って感情がわからない』って言うんだ」
ようやく僕の知ってる阿良々木愛の話が始まった。
「今までの告白もそうやって全部断ってきたんだ。それにあいつ、俺の気持ちにも気付かないぐらい鈍感だし。自分で言うのもなんだけど、俺って結構露骨だろ?」
「まぁ、うん」
苦笑いで応えるが、日下部は大して気にした様子もなくどこか遠くの景色を眺めている。なにを見てるのかと思ったけど、たぶん、なにも見ていない。
「だから油断してた。当分の間は、あいつに彼氏なんてできっこないって。なのに……っ! さっき合流した瞬間あいつ、俺じゃなくて真っ先にお前に浴衣の感想聞いただろ? それがどんなに異常なことか、お前にわかるか?」
わからない。わからないことが、悔しい。だけど同時に優越感に似たものも覚える。自分の中にこんなにも醜い感情が眠っていたことを初めて知る。僕は阿良々木愛のことと同じぐらい、自分自身についても不感症だ。
日下部は最後に大きく息を吸って、小さくつぶやいた。まるで自分にも言い聞かせるように、はっきりと。
「俺はお前に愛を渡したくない」
/
両の手一杯に食べ物やら飲み物やらを持った三人が帰って来る。見たところ、チョコバナナ一本以外は全てしょっぱい系だ。橘のチョイスなのだろう。そして言うまでもなく、チョコバナナは袴田先輩用だろう。
「なんの話してたの?」
阿良々木愛が僕と日下部の間に座る。なぜか柑橘系っぽい匂いが鼻腔を満たすが、特にそれらしい飲食物は見当たらない。
「別に。愛が昔からニブチンだって話」
「なにそれ! ひっど!」
匂いの発信源を探ると、おそらく阿良々木愛本人であることに気付く。制汗剤? それとも整髪剤? わからないが、ただでさえいつもと雰囲気の違う彼女が発してよい匂いではない。非常に凶悪だ。けしからん。もう少しだけ嗅いでみよう。
「愛知先輩、なんか臭います? ……あ、これだら」
そういって阿良々木愛は焼き鳥を一本パックから取り出し、先っぽを無断で僕の口に押し込んできた。
「美味しい?」
「うん……美味しい、です……」
美味しいが、非常に凶悪だ。もし僕が総理大臣になったら真っ先に廃止にしよう。阿良々木愛は「あーん」及び「柑橘系の匂いの保持」、ついでに「不意のタメ口」、廃止。これでは日下部の言うとおり告白者が多く出るのも納得である。
あと日下部も。そんな怖い目は廃止で頼みます。
「ところで、花火開始までまだだいぶ時間があるな。皆、抜け出すなら始まる前にしとけよ」
後ろから袴田先輩が、前方の僕ら三人に向けて意味ありげに言う。いや、むしろ意味しか感じない。阿良々木愛を挟んで、男二人の間にフライングの火花が散る。くそっ。先輩も、橘もニヤニヤしやがって。日下部がさすがに苛立ったように言い返す。
「そういう袴田さんこそ、抜け出さなくていいんすか……チョコバナナと二人で」
「しねぇよ! バナナに告白なんて!」
袴田先輩のツッコミに全員一斉にブッと吹き出し、束の間、いつもの文藝部の空気が戻って来る。あぁ、やっぱりここは僕が思う存分息を吸える場所だ。失いたくない。
「そういうことなら、遠慮なくお先に行かせてもらうっす」
日下部が軽い調子で言って立ち上がった。まさかこれほど直球でくるとは思わず、阿良々木愛以外の三人が言葉を失う。この場でまだ日下部の気持ちに気付いていないのは彼女だけだ。
「どうしたの、ミッくん?」
不思議そうな阿良々木愛をまっすぐに見つめる日下部。……なんて男らしくてカッコいいんだろう。彼と結ばれれば、阿良々木愛はきっと幸せになれる。短い付き合いの僕ですらそう確信できるほど、日下部はイイ男だ。だから、僕なんかが出る幕は最初からなかったってことで……
『本心で話せよ。人形じゃあるまいし』
違う。そうじゃないだろ愛知賢太。AIのように、求められた無難な返事を出力する。そんなのクソ食らえだ。欲しいものがあるのなら手を伸ばすしかない。たとえ、失いたくないものを捨ててでも。
僕は考えるより先に立ち上がり、叫んだ。
「大事な話があるんだ! 一緒に来てくれ! ……く、日下部くん!」
声が大きすぎて、周りの客が一斉に僕らのほうを振り向いた。僕は構わず「は?」と呆けている日下部の手を掴む。
「へ? うそうそうそ、はっ!? ほんとに!? 尊っ!!」
後ろから橘の大歓喜する声が聞こえてきたけど、無視して会場の隅へと足を早めた。
「おい、どういうつもりだよ。俺はもうお前と話すことなんて、」
「僕はある。日下部くんに話すこと」
トイレの隣という愛の告白をするにはいささか香ばしすぎる場所で、僕は日下部と向かい合った。もちろんそんなものじゃないと日下部もわかっているから、早くしろ、邪魔をするなとイライラしているのが見て取れる。
今から言うことは全て、僕の僕による僕のための身勝手な言葉だ。身勝手ついでにゆっくりと時間をかけ、最後の美味しい空気を堪能する。
「本心で話すよ。僕はたぶん、日下部くんほど阿良々木愛さんのことを知らないし、大きな感情も、まだ持ってないと思う」
「……」
「きっと日下部くんのほうが阿良々木愛さんのことを想ってるし、僕より彼女を幸せにすることができると思う。そのうえで言うよ。僕は、阿良々木愛さんを君に渡したくない。君にはまだ敵わないとしても……僕も阿良々木愛さんが好きだから」
日下部は一瞬目を見開いた後、どこか満足そうにフッと笑みをこぼした。
「それでやることが告白の阻止か。なかなかいい性格してるな、お前」
「ごめんよ、ずるくて。後でいくらでも罵ってくれ」
「フン、別にいいさ。お前も結局告白できたわけじゃ、」
「言ったでしょ。僕はずるいんだ」
いぶかしげな日下部の前で、ポケットからケータイ取り出し、操作する。送信ボタンを押した後、僕は震える声で第四ラウンド勝利を宣言した。
「告白なら、今、したよ」
/
日下部との話を終えて皆のところに戻ると、阿良々木愛の姿がない。僕たちの目配せから意図をくみ取り、袴田先輩が教えてくれる。
「阿良々木ちゃんならトイレに行くって」
「は? 見てないっすけど」
「? なんで日下部くんが、愛ちゃんがトイレ行ってないこと、知ってるの? ……うわぁ」
「違う。引くな橘。俺たち今までトイレの横で話してたんだよ。で、愛が来るところなんて見なかったから」
「!? 大事な話があると、言って、二人でトイレに? うわぁ、うわぁっ!」
「興奮もすんな。お前が期待してるようなことはなにもねぇ」
このタイミングで離席したということはおそらく、阿良々木愛は僕からのメッセージを受け取ったのだろう。さっき、日下部と話している途中に僕は阿良々木愛にLINEでこう送った。
『リレー小説更新したよ。できれば、今すぐ読んでほしい』と。
僕は頭の中で一字一句違わず思い浮べる。僕が卑怯にも直接伝えずリレー小説に託した、阿良々木愛への恋文を。
***
赤、黄、青。カラフルな光が真っ黒な空を刹那の花畑へと変貌させる。
「綺麗ですね」
隣の君のつぶやきは、花火の破裂音と大歓声の中でもやたらはっきりと耳に届いた。
「君のほうが綺麗だよ」そう言えたら少しは格好もついただろうに、臆病者の僕からそんな言葉が出てくるはずもなくて。ボブカットを耳の後ろにかけた君の横顔に見惚れることしかできない。
この夏、僕は君を花火大会に誘った。その日に告白すると二人は必ず結ばれるという、ありがたいジンクス付きの大会だ。でも、誘った時点で僕の勇気は底をついてしまったらしく、用意していた言葉はいつまで経っても口から出てくる気配がない。
鮮やかな火の種に顔の半分を焼かれながら、僕はひたすら君の表情の中に「それ」を探す。
君の中に芽生え始めたという感情。僕はそれがなにか確かめたい。だったら聞き出せばいいだけの話なのに、聞くのが怖いと思っている。知りたいのに知りたくない。矛盾。自分でも説明不能な、相反する二つの感情。
もしかしてこれがそうなのか? 君が知りたがっていた感情を一緒に探すうちに、僕も魔法にかかってしまったのだろうか。だとしたら厄介だ。辛くて、苦しくて、切なくて。だけど優しくて、ドキドキして、温かくて。もっともっと浸っていたいと思ってしまう。
僕は感情を持たないAIになりたかったはずなのに。こんなの知っちゃったら、もう前の自分には戻れない。
不意打ち気味にそのときは訪れた。フィナーレに向けて輝きを増す夜空をよそに、僕の心臓はドクンと大きく跳ねる。
いつのまにか君も僕のほうを見ていて、色素の薄い瞳の中心に真っ赤な顔の僕が映っていた。無言のまま見つめ合うこと数秒。世界が、止まる。
「ねぇ、賢人くん。返事聞かせて」
ねだるような君の声に理性なんて容易く弾け飛ぶ。そして。
「愛子さん。僕のお姫様になってください」
今夜最後の大きな花火と同時に、僕は君の王子様に立候補した。
少し躊躇ったような間の後、君は――
***
夢というのは時折、その人の深層心理の欲望を見せることがあるという。あの日病院で見た夢は僕の欲望。こうあってほしいと願う本心。
以前、袴田先輩は「僕自身が書きたい物語」を書くように言った。だから僕は自分の気持ちに正直に筆を走らせた。日下部を出し抜いてでも。ずるくても卑怯でも。僕は阿良々木愛を手に入れたい。いっそ悍ましいほど醜い感情。だけど、だからこそ。僕は人間なんだ。
「すみませーん戻りまし……きゃっ」
トイレとは完全に逆方向から戻ってきた阿良々木愛は、僕と目が合った瞬間に小さな悲鳴を上げ、そして、すぐに逸らした。
「も、もう戻って来てたんだね。ミッくん」
しかも日下部だけに話しかける。その不自然さに、日下部だけじゃなく袴田先輩や橘の頭の上にもハテナが見える。
あぁ、これはアレだ。完全にやらかした。僕は叫びたいのを必死でこらえ、とっくに冷えたたこ焼きを口の中に押し込んだ。
綺麗に空となったパック類を前に、袴田先輩が頭を掻く。
「あのー、あれだな。五人で食べるにはちょっと足りなかったな」
潔く自首しよう。大半を食い散らかした犯人は、口数の激減した僕だ。
「つーかしょっぱいものばかりじゃないっすか。甘いもんも食いたいっすよ」
「文句言うなら、日下部くん、買ってきて」
「……じゃあ今度は、僕と日下部くんで買い出し行ってきます」
「そうか? 悪いな。じゃあ俺はベビーカステラ一つ」
「私、唐揚げ。できるだけ、辛いやつ」
「知らねぇよ。愛は? なにか食いたいもんある?」
「……」
「あ、阿良々木愛さん?」
「へっ!? な、なんですか?」
「いや、その、阿良々木愛さんもなにか食べる、かな? チョコバナナとか」
「!? ば、バナナはちょっとまだ早いと思いますっ……!!」
「? そ、そう」
それから追加で買ってきたご飯を五人で食べながらぎこちない会話をしているうちに、ようやく花火大会開催の時間がやってきた。これからは花火を見ているだけでいい。変な気疲れから解放される。僕はすっかり後悔していた。浮かれて勘違いして調子に乗って、痛々しいポエムを送り付けた末路がこれだ。
こんな気持ちになるぐらいなら最初から恋なんてしなければ……って、それは違うよな。短い間だったけれど、恋はとても素敵な夢を僕に見せてくれた。
感情なんてなければ確かに楽かもしれない。でも、苦しさと引き換えにそれ以上のなにかを手に入れられることもある。もちろん、ただ失うだけということも。そしてその繰り返しが「生きる」ということなんだと、僕は今回学んだ気がする。
無駄なんかじゃなかったはずだ。たぶん、きっと。そういうことにしておこう。
「わー! ハート型の花火!」
どっかの誰かの声につられて上を見ると、確かにピンクのハートがたくさん浮かんでいる。煽ってんのか? こんちくしょう。だけどよく見れば、他にもいろんな色形の花火が上がり、暗い夜空を彩っている。
失恋の痛みはあるけれど、人生で初めて人と見る花火。一人で部屋から見るそれよりずっと綺麗なのは夢のときと同じだ。そう、僕はまだ夢の中にいる。この二ヶ月で、僕は四人も大切な友人を手に入れた。春までの僕だったら考えられない成長だ。
それでいいじゃないか。今、頬を伝うこの涙だって、嬉し涙だ。少しも悲しくなんて……
ポケットでケータイが震えた。誰だろう。僕に連絡をしてくる人なんて限られている。それこそ、ここにいる誰かぐらいしか。
『更新しました』
心臓が止まりそうになった。チラと横を見ると、阿良々木愛が体育座りの体勢で、せっかくの花火を見ずに顔を膝にうずめている。こころなしか耳が赤い気がするが、花火の色のせいかもしれないしよくわからない。
あぁ、これから僕は正式にフラれるのか。ため息を吐き、おぼつかない指先でファイルを開く。
そこにはたった一文だけ、このように追加されていた。
***
私は目の前の王子様にキスをした。
***
阿良々木愛がゆっくりと顔を上げ、僕を見る。その目は寝起きのようにウルウルと潤んでいて。
そういえば、お姫様は王子様のキスで目覚めるのが定石だったなと、くだらないことを思った。




