第二章
半分まどろみの中でケータイが受信を告げた。眠気はあっというまに吹っ飛び、僕は震える手で阿良々木愛からの返信を確認する。
『ありがとうございます。めちゃくちゃ早いですね(笑)』
やはりリレー小説についての返信だ。めちゃくちゃ早いですね(笑)って……前のめりすぎと思われただろうか。
『すみません。それで、もう読まれましたか?』
『なんで謝るんですか(笑)はい、読みました。とても詩的で素敵だと思いましたけど……これは愛知先輩の体験談ですか?』
体験談、というと語弊があるけど。本心ではあるから。
『はい、概ねそうです』
『そうなんですね……しかと受け止めました』
あぁ。阿良々木愛の言葉がゆっくりと胸に染み込んでゆく。気を遣われているだけかもしれないけれど、ありのままの自分を受け止めてもらえるってこんなに嬉しいんだ。そして気付く。袴田先輩のアドバイスがどうだとか言い訳していたけど、本当は最初から、誰かに心の声を聞いてほしかっただけなのかもしれないと。
『ありがとうございます』
『いえいえ。というか、後輩なんで敬語はやめてくださいよ(笑)』
後輩命令で敬語を禁止された。追い詰められた僕は、少ない手札の中から相応しい返事を探す。
『おう』
『おうってwww愛知先輩、面白いですね』
『そんなことないぜ』
『ちょっwww先輩、ふざけてるだら?』
『ふざけてないぜ』
『もうw普段もそうやって話しんよ。絶対人気出るのに』
阿良々木愛は文面だと、対面よりおどおどした感じがない。サラッとタメ語に移行してるし。だけどどちらの彼女も温かくて、芯の強さを感じて。なので、総合するとやっぱり阿良々木愛だなという感想になる。どういうこっちゃ。
『とにかく、先輩がそうくるなら私もそういうつもりで書くんで、覚悟してくださいね』
『そういうつもり?』
『お疲れ様です! また明日の部活で!』
おやすみなさいのスタンプとともに唐突に終わったトーク。これはスタンプを返したほうがいいのだろうか?なんてことを小一時間考えているうちに、僕もいつのまにか眠りの中に落ちていた。
/
どうしよう困った。今日の2―1の帰りのホームルームは、いつも話が長い海老原先生には珍しく爆速で終了した。三歳の娘の誕生日なのだと惚気ていたから、そのためだろう。
で、なにが困ったかというと。
昨日は日下部がうちのクラスに勧誘に来ていた分、部室への到着が遅くなった。だから先に袴田先輩と橘が部室にいた。だけど通常の2―7、2―8、3―4、そして1―4のホームルーム終了時間と部室への移動距離から逆算すると、このまままっすぐ部室に向かうと約5分、日下部と二人きりの時間が発生する。
日下部は間違いなく僕のことが嫌いだ。上手くやることができるだろうか。そんな不安と戦いながら歩いているうちに――いつのまにか部室の前に立っていた。おかしいな、廊下くん、昨日より短くなってない? イメチェンした?
……冗談はさておき。こうなりゃもう腹をくくるしかない。それに今日の僕には一つ、大きな武器がある。
「お疲れ様です」
「……お疲れ」
案の定、日下部が一人で部室の端の椅子に座っていた。ドアを開けた瞬間慌ててケータイを『金閣寺』に持ち替えようとしたように見えたが、僕の顔を確認するとがっかりしたように再びケータイに視線を落とした。
さぁ。高校二年目にして初の友人ができるか、勝負どころだ。僕は懐からえいやっと武器を引き抜いた。
「『金閣寺』、読んだよ」
「へぇ……へ?」
「美への執着とか金閣を焼くに至る動機とかは正直全く共感できなかったけど、僕も障害というか、まぁこんなだからさ、『吃りは,いうまでもなく,私と外界とのあいだに一つの障碍を置いた。最初の音がうまく出ない。その 最初の音が,私の内界と外界との間の扉の鍵のようなものであるのに,鍵がうまくあいたためしがない』って部分とか、ちょっと自分と重なるものがあったりして」
「……はぁ」
「く、日下部くんは『金閣寺』のどういうところが好きなの?」
「え、いや、その……恋人と金閣寺のてっぺんに登って愛を囁くシーン……とか?」
「?」
あれ、僕は違う『金閣寺』を読んでしまったのだろうか。なんだか全然知らないシーンが出てきたんだが……
「よっ! お疲れさん! 早いねぇ二人とも」
「お疲れ様……密室に、思春期の男が二人。なにも起こらない、わけもなく」
「橘お前BLもいけるんだっけ? ……というかその、二人ともここは皆が使う部室だから、ほどほどにな」
「見てのとおりなにも起こってないっすけど!?」
そうこうしているうちに袴田先輩と橘がやってきた。どう見ても安堵の息を吐く日下部の姿に、どうやら僕の作戦は失敗に終わったらしいと悟る。
「お疲れ様です! きゃっ」
そして最後に、挨拶の後の悲鳴が板についてきた女、阿良々木愛の登場だ。日下部が光の速度で『金閣寺』を手に取る。おそらく、恋人と金閣寺のてっぺんに登って愛を囁くシーンがある『金閣寺』だ。今度改めて著者が誰か教えてもらおう。
「あれ? ……愛、顔色悪いけど、大丈夫か?」
日下部の言葉に阿良々木愛を見ると、確かに、目の下に大きなクマがしがみついている。寝不足なのだろうか。
「ちょっとね。愛知先輩がすごく早くて、しかも上手かったもんで」
日下部が言葉じゃとても形容できない表情で僕をにらむ。なにがなんだかわからないけどたぶん誤解だ。そんな険悪な空気を知ってか知らでか、袴田先輩がパンパンと手を叩いて注目を集める。
「明日からテスト期間に入るため部活動は禁止になる。なので今日中にやっておきたいことがあれば済ませておいてくれ。特に新入部員二名と二年目の初心者一名は、いろいろと聞いておきたいことがあるんじゃないかな?」
「えっと……」
「……」
特段なにもない様子の日下部と阿良々木愛。ほんのわずかに笑顔を曇らせる袴田先輩。
「は、はいっ」
僕は反射的に手を挙げていた。なぜだろう、この人は僕と違って人気者のはずなのに、今の一瞬、僕にはこの人の気持ちが痛いほどに伝わってきた。誰にも相手にされない孤独。大袈裟かもしれないけれど、先輩がもし少しでもそれを感じているとしたら、僕がなんとかしたいと思った。
「お! なんでも聞いてくれ、愛知くん」
袴田先輩の顔がパァッと明るくなる。この人は人から頼られるのがすごく嬉しいみたいだ。それなら、思いっきり甘えてみよう。
「今すぐじゃなくていいんですが、昨日おっしゃっていた『負けヒロインが多すぎる!』シリーズを貸していただけないでしょうか? 少し興味が、」
「おお、もちろんいいぞ! ほれ」
言うやいなや、先輩が通学カバンから大量の本を取り出す。……は?
「既刊9巻+2冊、全部持ってけ!」
「え? え、なんで持ち歩いてるんですか?」
「いつでも布教できるように。オタクのたしなみだな。持ち帰りはそうだな、確かこのあたりに余りもののビニール袋が……」
負けヒロインシリーズが取り出され、もぬけの殻となった袴田先輩のカバンを眺めながら思う。いろいろ言いたいことはあるが……先輩、受験生だよな? 教科書の類が一つも入ってなかったけれど、いいんだろうかこれで。
「袴田×愛知、そっちも、あり?」
「なしだよ、橘さん」
白い肌を紅潮させた橘にツッコむ。え、ツッコんだ? 僕が?
……本当に変な人ばかりだ。ここでなら、僕も少しは楽に息ができるだろうか。
/
袴田先輩によると、部室の本棚には出会い系時代の負の遺産がたくさん詰まっているらしい。出会い系の本ってなんだと興味を持って片っ端から読んでいたところ、突然、ケータイが受信を告げる。僕のケータイが鳴ることなんて今までなかったため、ミュートにするのを忘れていた。
阿良々木愛。
メッセージの送り主の名を見て単純に疑問が浮かぶ。だって、今同じ空間にいるのになぜわざわざLINEで。
『続き書けました』
これはおそらくリレー小説のことだろう。僕が言うのもなんだけど早い。やっぱり僕が早かったせいで、彼女も昨夜遅くまで執筆するハメになったのだろうか。申し訳ないことをしてしまった。
了解、と送ろうとしたタイミングで続けてメッセージが届く。
『優しいんですね』
……こっちはなんのことだかわからない。つい阿良々木愛のほうを見ると、彼女もこっちを見ていて、目が合うと恥ずかしそうに俯いた。なんか、胸の奥がほわほわする。動揺を悟られないように、僕は二人だけの秘密の共有ファイルを開いた。
***
子どもの頃からずっとお姫様に憧れていた。どこぞの童話みたいに素敵な王子様に見初められて、恋に落ちて。女の子には皆そんな未来が当たり前に用意されているものだと思っていた。
だけど現状、私のところに王子様は迎えに来ていない。
私がお姫様じゃないから? 否。私の周りの女の子たちは次々と、素敵な王子様を見つけてお姫様になっていった。
恋する女の子は皆お姫様であり、そのお相手は王子様なのだ。
私がお姫様になれない理由はただ一つ。
「恋心」というものが私にはわからない。
エターナル庶民のまま高校生になったある日、私の前にもう一人、生粋の庶民が現れた。
彼――賢人くんは「AIになりたい」と言った。彼にとって、感情は邪魔なものらしいのだ。
不思議な気分だった。恋する感情を知りたい私と、感情を捨てたい彼。全く逆の存在なはずなのに、他人事とは思えなかった。
きっと私たちは、同じ匂いを放っている。
***
ははあ、なるほど。
僕はてっきり共通の主人公で進めるものかと思っていたけれど、まさか視点を変えてくるとは。しかも僕が動かす主人公には勝手に「賢人」と名前を付けられた。ほとんどそのままじゃあないか。
そして阿良々木愛が描いた主人公は、恋心がわからないと言っている。これは阿良々木愛の本心なのだろうか? つまり『そういうつもりで書く』とは、本心を吐露し合おう的な嬉し恥ずかしいお誘いなのかも。
ふと顔を上げてもう一度阿良々木愛のほうを見る。やはり、目が合う。彼女は日下部や橘と話しながら、緊張したような面持ちで僕を見ていた。一方でそんな彼女の気を、日下部が一生懸命に引こうとしている。
……今覚えてしまった汚い感情は、僕がとてもAIなんかにはなれない理由を証明しているようだった。
/
テスト期間に突入した土曜、僕は母に連れられて地元の大病院を訪れていた。一月に一度の定期通院。というのも、僕ほど記憶能力に特化したサヴァン症候群は珍しいらしく、医学の発展のためという名目で物心ついた時から様々な検査に協力させられているのだ。具体的になにを研究しているのかは定かでないが、唾液を採取されたり、脳波を測定されたり、麻酔で眠らされたり。……少し物騒なのも混じっているけれど、今のところ害はない。
「唾液コルチゾール6.4ng/mL。唾液オキシトシン27pg/mL。
コルチゾールは採取時刻を考慮して想定範囲内。オキシトシンの値は……これまでのデータと比較して大幅な上昇傾向あり、と」
害はないとは言っても、僕はこの検査の時間が大嫌いだ。医者は僕をまるで物のように扱う。目も見てくれなければ、ろくに会話もない。母はもちろん付き添ってくれず、初めて来た日は恐怖のあまり大泣きしながら医者から逃げ惑ったことを、今でもはっきりと覚えている。今日は検査中ずっと阿良々木愛や文藝部の皆のことを考えていたから、少しは気が紛れたけど。
「心拍数72bpm。血圧118/84mmHg前後。脳波、特記すべき異常なし。皮膚電気反応、前回より上昇……ふぅん。なるほどね。
はい、今日の検査は終了。もう帰っていいよ」
こうして帰宅のために無機質な塩ビシートの廊下を一人で歩いていると、自分がいかに孤独で無価値な人間かを思い出す。水曜と木曜のたった二日、部活で人と話す機会ができただけで、なにかが変わったような気がしていた。
でもテスト期間に入れば結局僕はまた空気。文藝部の皆が優しい人たちなだけで、僕自身がまるで成長していない。
駐車場の車の運転席。母はいつもどおり、出先でもノートパソコンとにらめっこしていた。
「ただいま、母さん。お待たせ」
「待ってないわ」
「……あの、母さん」
「どうしたの?」
「いや、なんでもない。ごめん」
待ってたわって言ってよ。そんな聞き分けのない子どもみたいな言葉が頭に浮かび、呆れて打ち消す。母もそれ以上深掘りすることなく、パソコンを閉じると淡々と車を出す。静かなエンジン音。母との無言の時間にはとっくに慣れたつもりでいたのに、今日はやけに物悲しい。中途半端に人と話す楽しさを知ってしまったせいだろうか。
僕はケータイを取り出してリレー小説のファイルを開いた。テスト期間に更新なんて絶対鬱陶しいと思われる。わかっているのに、今の気持ちを吐き出さずにいられない。僕はきっと母からもらえない分の温もりを、あの歳下の少女に求めてしまっている。
***
サヴァン症候群って知っているかい? いや、知らなくてもいいよ。僕にはそのサヴァン症候群に伴う圧倒的な記憶能力があるとだけ、今は知っておいてくれれば。
愛子さんも知ってるだろ? 僕はどんなことでも、一度見聞きしたら忘れることはない。気持ち悪いぐらいに。でも自分ではそれが「気持ち悪いこと」だという実感が全然なかったんだ。
僕はテストでほとんど100点しか取ったことがない。自慢に聞こえるかい? でも、それで得したことなんて一度もないんだよ。
友だちだった人たちからは化物を見るような目を向けられた。先生からも。親も当然でしょって感じで、一度もそのことを褒めてもらえた記憶はないな。僕の記憶にないんだから、一度もないってことさ。
だけどね、僕が傷付いている原因はたぶんこの記憶力のせいじゃないんだ。僕の苦しみは全部、他人の心を慮れない僕自身のせい。
中学一年生のとき。勉強で悩んでいるクラスメイトに解き方を教えようとして「その問題は簡単だよ」と言ってしまった。
中学二年生のとき。画家を目指している女の子が葛藤の果てにAIに手を出しているのを知って「そんなもの安易に使っちゃダメだよ」と言ってしまった。
高校一年生のとき。友だちがなかなかできない子を捕まえて「僕と同じだね」と言ってしまった。
気付いてないだけできっと、他にもたくさん。人を傷つけた分が自分に返ってきているだけなんだ。
……ほら、今もこうやって愛子さんを困らせてる。
自分でもわかってる。ごめんね。でも、止められないんだ。僕は人の温もりを知りたい。
愛子さんは僕のことを自分と「同じ匂い」だと言ってくれた。そんなことないよ。君は自分自身の「恋心」という感情に鈍いだけ。僕は逆。いつも自分のことばかりで、人の感情を蔑ろにしてる。
気を遣ってくれてありがとう。そしてそんな君の優しさを利用する卑怯な僕で、ごめん。
***
感情のままに書き殴った文章はグチャグチャで、とても小説と言える代物ではない。ただの愛知賢太の独白だ。第三走者が盛大にずっこけてしまった。
共有のWordファイルに上書き保存はしたけれど、阿良々木愛への報告はやめておいた。テストが終わればまた部室に行ける。それまでの辛抱。……全く、いつから僕はこんなに辛抱弱くなってしまったのだろう。
/
今、僕の目の前には三つの死体がある。
「……」
死体その一。橘京華。先日行われた実テで大爆死してしまったらしい。曰く、部活動休止期間にこれ幸いと、ギャル仲間たちと遊び歩いていたのが原因だとか。
「……」
死体その二。日下部ミツル。先日行われた実テで大爆死以下略。曰く、七月頭に予定されている品評会のための恋愛小説の執筆に夢中になって、勉強を全くしなかったせいだとか。
「……」
死体その三。袴田零士先輩。先日行われた実テ以下略。曰く、普通にダメだったとか。
「あの、皆さん大丈夫ですか? お茶でも淹れましょうか」
「「「………………」」」
机に突っ伏した三人に声をかけるが、返事がない。ただの屍のようだ。
「お疲れ様で……きゃっ! どうしたんですか皆さん!」
遅れてやってきた阿良々木愛の生気ある表情を見るに、死体が四つに増える心配はなさそうだ。阿良々木愛の声に反応して、死体その二がガバッと顔を上げた。
「恋愛小説、書けたぞ」
「え」
「別に俺はどうでもよかったんだけど、お前が早く読みたいって言うもんだからしかたなくな」
「えっと、二日前までテス」
「んなこたぁどうでもいいんだよ。ほら、全体の共有フォルダに入れてあるから、さっさと読め。んで感想よろしく。ついでにお前らも読め」
昨年の活動実績を聞く限りこれがほぼ処女作だというのに、大した自信だ。袴田先輩もこれを受けてゆっくりと起き上がり、宣言する。
「全員分をまとめて読むのも大変だし、完成した人のものから順次読んでいこう。というわけで、ただいまより今年度第一回目の品評会を開始します!」
と、皆でフォルダを開いて日下部の作品を読もうとしていたところ、
「あの、作品が二つあるんだけど。どっちが日下部の? というか、もう一人書き終えてるの誰?」
「あ、僕です」
「愛知くんまで!? だけど、この前までテス……」
袴田先輩が言いかけて、言葉を切る。
「こっちの作品、10万字、超えてる」
橘が続けて言うと、ほんの一瞬だけ、人外を見るような視線がいくつか刺さった。いつもの教室でのよりもっとずっと、何倍も痛い。
「日下部の作品は、こっちの5千字ちょっとのやつだな?」
「っす」
「じゃあ、今日はこっちを読もう。愛知くんの作品は読むのにそれなりに時間がかかるだろうから、それぞれ手が空いたタイミングで読み進めてくれ」
そうか、10万字を読むのは数分の作業じゃないんだ。当たり前のことが当たり前じゃないことをすっかり忘れていた。ここにいると、自分が普通になれたんじゃないかとつい錯覚してしまう。この前確認したはずなのに。僕自身はなにも変わってないって。
「うわぁ、どっちも読むの楽しみです! 愛知先輩のは家でゆっくり堪能させてもらいますね!」
阿良々木愛の笑顔がいくぶん部室の空気を軽くする。少しも無理を感じさせない声。彼女はなぜ僕のことが気味悪くないのだろうか。逆に、僕のほうが人外を見るような目を向けてしまった。すごく救われたのに。ごめんなさい。
とにかく、切り替えて日下部の作品だ。タイトルは『君と見る金閣寺の夕景』。……あれ? これってもしや。
共有フォルダから作品ファイルを開いてザッと目を通す。あらすじをざっくり言うと、幼馴染の男女が金閣寺に登り、そこで主人公である男性が劇的な告白をして晴れて恋人同士となる。ここまで三行。そこからはずっと出来立てカップルが夕景を見ながらイチャイチャする様を見せられるだけ。
そう、これぞ「恋人と金閣寺のてっぺんに登って愛を囁くシーンがある『金閣寺』」だ。
数分沈黙が続いた後、読者たちは同時にそれぞれのケータイから顔を上げる。皆誰かが動くのを待っていたかのような、美しいシンクロだった。
「ど、どうなんだよ。感想は」
期待と不安がないまぜになった表情の日下部に、一同、称賛にひと捻り加えた匠の言葉をかけてゆく。
強い個性とこだわりを感じる。
軟弱な読み手を、振るい落とす、豪胆な文章。
なんか金閣寺!って印象でした。
「フッ。ま、俺がその気になればこんなもんさ」
鼻高々な日下部の様子に、僕の胸にはモヤモヤが立ち込める。初めてで上手く書ける人なんてそうそういない。だからわざわざ粗を指摘してやる気を削ぐような真似は、無粋なのかもしれない。
だけど日下部は本気でこれを書いたのだ。テスト勉強を放棄してまで。おそらく、誰かに届けたい大切な想いがあったから。本気に本気を返さないのは、日下部に対する侮辱ではないのか。
「ちょっと文章が気取りすぎてて読みにくい、かも」
「……あ?」
部室に緊張が走ったのがわかった。僕は意を決し、硬い空気を一気に吸い込む。
「ストレートに愛を伝えるセリフが多い分、こねくり回された地の文とのギャップがすごいことになっている、気がする。初心者のうちは格好つけた文章を書くより、まず読みやすさを意識しろって指南本には書いてあったよ」
「……」
「日下部くんがこの物語で描きたかったことって、たぶんセリフのほうだよね? 金閣寺の外観描写でも、てっぺんからの風景描写でもなく。だったらセリフに合わせてもっと文章を素直にしたほうがいいんじゃないかと、僕は思った。そのほうがあらら……読者にももっと日下部くんの想いがまっすぐに伝わるんじゃないか、って」
途中から日下部の後ろで袴田先輩がしきりに腕をバッテンにして「もうやめろ」と伝えてきていた。なのに、僕は結局最後まで言い切ってしまった。今さらになって、もし僕の言葉が日下部を傷つけていたらと怖くなる。取り返しがつかないことをしてしまったんじゃないかと。人を傷つけた分、自分に返ってくるのだ。
「愛知」
普段より低く掠れた声で日下部がつぶやく。僕は思わず背筋を伸ばして「はい!」と返事をする。
「正直に言ってくれて、ありがと」
「は、はいっ! ……え?」
「二度は言わねぇよ。お前なら、一回聞けば十分なんだろ」
少し耳を赤らめた日下部を眺めながら、さっきの言葉を反芻する。「ありがと」だって。僕が日下部に、お礼を言われた。嬉しくて飛び跳ねたくなる。どうしよう、日下部が、ありがとって! 「二人を侮ってたな」と袴田先輩。なんか急に鼻から赤いお水を出している橘。そしてニコニコと僕より嬉しそうな、阿良々木愛。とうとう恥ずかしさに耐えられなくなったみたいに、日下部が叫ぶ。
「けど! 人の作品にケチつけたんだから、自分も言われる覚悟しとけよ! ケッチョンケチョンにしてやるからな!」
「! うん! 率直な感想を聞かせてよ!」
「なに喜んでんだよ! ドMか!」
「愛知くん、ドM?」
「ちょっ、た、橘先輩! 鼻血鼻血!」
阿鼻叫喚の部室の片隅で、僕は思った。もらってばかりだった僕が初めて、文藝部員としてなにかを還元できた。ようやく仲間になれた。かもしれない。そうだったら嬉しい。
/
そしてきたる七月初週の金曜日。
「……」
今、僕は部室で死体になっている。日下部を除く部員の恋愛小説品評会。ワクワクで臨んだその場で、僕の長編は宣言どおりケッチョンケチョンにされた。
「俺は上手いと思ったぜ?」
品評会前、一番僕の作品を批評したがっていた日下部が今や唯一の味方だ。
「いや、上手いは上手いんだよ。けど……」
歯切れ悪く、袴田先輩。
「日下部くんのほうが、まだマシ」
もののついでに日下部も狙撃しつつ、橘。
「アレはないだら、愛知先輩」
ゾクッとするほど冷たい視線で、阿良々木愛。ドMなら大歓喜しているところだろうが、あいにく僕は違ったらしい。ひたすらに傷付き、自らの愚行を恥じていた。
本作のあらすじはこうである。
平凡な男子高校生である主人公は、失恋して傷心中のいわゆる「負けヒロイン」たちを絆して統率し、学内ハーレムを築いていた。そんなある日、負けヒロインのうち一人が膵臓の病気で倒れ、余命を宣告されてしまう。流れで彼女の死ぬ前にやりたいこと(※犯罪)に付き合わされる形で、本屋を襲撃して広辞苑を盗んだり(※強盗)、金閣寺を焼いてしまったり(※放火)……
そう。皆と仲良くなりたいがために調子に乗って、どっかの某小説たちの内容をツギハギしたパク……もとい、オマージュ作品を書いてしまったのである。
「皆の好きな小説を覚えて読んでくれたのは嬉しいけど、これはさすがに……」
「ていうか、俺と同じタイミングで完成してたってことは、テスト期間に全部読んだうえで10万字書き上げたんだよな。愛知、お前テスト何点だっけ?」
「498点」
「ほぼ満点じゃん。ダルッ」
「でも、小説は0点。パクリは、ダメ」
「そもそもこれは恋愛小説じゃないだら。規約違反で審査対象外じゃんね」
死体蹴りが激しい文藝部面々。いよいよ泣きそうになったとき、袴田先輩が僕の肩を叩いた。
「ま、皆と打ち解けたいっていうメッセージは伝わったよ。でもこれは愛知くんの小説じゃない。愛知くん、君自身が書きたい物語はなんだ? 俺たちは本当はそれが知りたかったんだ」
「僕自身が書きたい物語、ですか?」
「あぁ。次はそれを読ませてくれ。以上だ」
袴田先輩が皆の意見をまとめて締めくくる。愛知賢太の小説。どうやらそれが僕に課せられた宿題のようだ。
「じゃあ、次は私の小説の、感想」
橘が名乗り出ると、袴田先輩は沈痛な面持ちで首を横に振った。
「部員同士のナマモノ小説は、規約違反以前に道徳違反だ。次行くぞ次」
「なんで。日下部×愛知、尊いのに」
この人、確か得意ジャンルミステリじゃなかったっけ? なんでBL書いてきたんだろ。ミステリ的な謎が見当たらないどころか、むしろ隠すべき部分まで全部モロ出しだったけど……
「えーでは、阿良々木ちゃんの小説の感想だけど、」
シームレスに阿良々木愛の小説品評に移る袴田先輩。阿良々木愛はまだ心の準備ができていなかったのか、肩をビクッと不安そうに震わせた。
阿良々木愛の小説は初めてとは思えぬほど、極めて出来がよかった。主人公はファンタジー世界の町娘で、ある日、町の外で道に迷っているところを木こりの青年に助けられ、あんパンを分け与えられる。その後娘は町で何度か青年と再会するのだが、そのたび寂しそうな人を気にかけていたり、誰も言う勇気がないことをはっきりと口にしていたり、そんな青年の清い行いを目にするうちにいつしか恋心を募らせていく。
しかし青年はその町では低所得層とされる木こりで、身なりもボロボロであったため、他の町民たちはこぞって彼を馬鹿にしており、娘の両親からも交際を反対される。それでも一途に想い続けていたところ、なんとその青年は木こりに扮して町に潜入していた王子様であったことが発覚、娘は彼と結婚してお姫様となる……
「王道展開、よき」
「うちの部の未来のエースだな」
「……」
皆手放しで褒めちぎる中、一人不服そうな顔が。
「ミッくん、なにか言いたげじゃんね。悪かったところがあれば、教えて?」
「いや、作品に文句はねぇけど……なんか気に食わねぇ。特にこの木こり! なんだよこいつ、急にしゃしゃり出てきて」
「急にって……結構序盤からいるけど」
「俺が言いたいのはだな、この町娘はポッと出の男じゃなくてもっとその、たとえば幼馴染とか、そういう身近な存在を大切にするべきじゃないかという……」
橘と袴田先輩がくつくつと笑いをこらえている。僕は話についていけない。今のなにが面白いのか、そもそも日下部はなにに対してそんなにご立腹なのか。
「まぁいいや。それで……愛知先輩は、どう思います? この町娘のこと」
「町娘のこと?」
作品の感想じゃなくて?
「えっと、一途で素敵だなぁとは思うけど。人を見る目もあるよね」
「そうですか。そっか……ふぅん」
表情を見るに、阿良々木愛は今の回答でご満悦のようだ。良かった。なにより僕の一言で誤魔化しきれないぐらい口角が上がっている彼女を見ていると、心臓直接を指で撫でられているみたいにくすぐったい。なんだろう、これは。
「……おい、調子に乗ってんじゃねぇぞ愛知」
「はい?」
「袴田さん! やっぱ今からでもこいつ解雇にしましょうよ! 代わりの部員なら俺が捕まえて、」
「ブッ! あっははははは!」
「なに笑ってんすか! おい、橘も!」
「ごめっ、でも……ふふっ」
混沌とし始めた部室で完全に置いてけぼりの僕。だけどふと阿良々木愛と目が合って微笑み合った途端に、とりあえずはどうでもいいやと思った。ついでに、袴田先輩が書いてきた「バナナと濃密なラブシーンを演じるコメディ小説」の品評も置いてけぼりになって終わった。
/
「ごめんね母さん、お待たせ」
「待ってないわ」
部活で珍しく遅くなった僕に対し、母は叱ることも心配することもしない。ダイニングで淡々と冷凍の鶏の照り焼きを口に運ぶ姿があった。僕も手を洗った後、二階の自室で着替えたら急いでテーブルにつく。
「いただきます」
とっくに冷えているだろうなと思いつつ一口食べると、なぜか出来立てのように温かくて驚く。もしかして、今の時間に温め直してくれてた? 母はチラリともこちらを見ないので、確認するすべはない。
コチコチと時計の音だけが支配する部屋。
「学校はどう?」
いつもの問い。そこにはなんの意味も興味もない。ただ、いつもどおりであるかの動作確認だ。
「とても楽しいよ。友だちも皆優し……」
いつもどおりに答えかけて、ふと口の動きが止まる。なぜなら今日は、いつもどおりではなかったからだ。
「いや、やっぱり優しくないかもしれない。日下部はなぜかやたらと僕に突っかかってくるし。橘なんて勝手に僕と日下部のび、BL小説を書いてくるし。阿良々木愛と袴田先輩はまぁ優しいほうだと思うけど……あ」
途中で我に返るが時すでに遅し。母はあんぐりと口を開け、信じられないものを見たような顔をしている。そりゃそうだろう。いきなり一度も話したことのない友人の名前なんか挙げられたって、わかるはずがないのに。それにせっかく母に迷惑をかけないよう、毎日嘘をついてまで順調な学校生活を演じてきたというのに、これではいじめと勘違いされる危険性がある。
「あ、えっと、僕実は先月から文藝部に入っていて! 今言った人たちはその文藝部の人たちなんだけど! あの、普段はわりと優しいというか、癖は強いけど皆いい人たちだから、別に母さんに心配をかけるようなことはなにもなくて、」
必死に弁明を口にするが、なんだか空回りしているような気がする。それが証拠に、僕がいじめではないことを説明しても母の顔は強張ったまま。
「そう、なのね」
やっとのことで母が一言だけ絞り出した。僕はその言葉をどう受け取ればいいかわからない。困らせた? それとも怒らせた? ただでさえ仕事で疲れているのに、くだらない話で嫌な気持ちにさせてしまった? 母はすでに驚愕をいつもの能面と分厚い眼鏡で覆い、食事を再開している。
「ごめんなさい」とつぶやいた声が、母に届いたかはわからない。
/
意気消沈して自室に戻ると、ベッドの上に放り投げていたケータイが淡い光を放っている。画面に踊る「阿良々木愛」の文字に、なぜだかわからないけど心臓がトクンと跳ねた。
『遅くなってすみません! リレー小説更新しました!』
そんなことかと思うと同時に、それ以外なにがあるんだとも思う。矛盾した感情。僕はいったいなにを期待していたのだろう。とりあえず『了解』と返した後、前回の自分の醜態まみれの文章を思い返す。
下手したら「キモい死ね fin」とでも書かれているかもしれない。そうだったらしかたない。後日部室で土下座しよう。覚悟を固め、おそるおそる共有ファイルを指でタップし、開く。……しかしどれだけ探してもキモいも死ねもfinも見当たらなかった。
気付けば僕は呼吸をすることさえ忘れ、阿良々木愛が綴った言葉の海に沈んでゆく。
***
こちらこそ、本音をぶつけてくれてありがとう。私は少しも困ってないよ。むしろ、頼ってくれて嬉しい。
でもね、自分で書いていて気付かないの?
人の心を慮れないとあなたは言うけれど、あなたの言葉は全部、あなた以外の誰かのほうを向いている。今までの失敗全部。あなたは誰よりも自分を省みて、人に寄り添う努力をし続けてきた。
温もりを求めることは、決してひとりよがりなんかじゃない。
賢人くんの不器用だけど優しいところ、私はちゃんと知ってるよ。初めて会ったあのときからずっと。
テストみたいに100点満点は取れないけれど、たまに落第ギリギリなこともあるけれど、不意に120点にも200点にもなって私の心を苦しくさせるの。
その証拠にほら。私の中に芽生え始めた知らない感情。これが「そう」なのかな? どうしよう、鈍感なフリができなくなってきちゃった。
ねぇ賢人くん? どうせならAIなんかじゃなくて、私の王子様になってよ。
なんてね!
***
一度読んだ時点で全部頭の中に入っているのに、意味もなく、繰り返し更新された文章をなぞっていく。何度も、何度も、何度も。やがて、僕の目はたった一文にくぎづけになる。
私の王子様になってよ。
……いやいやいや。なにを勘違いしてるんだ僕は。
これはあくまで小説だ。登場人物に自分を重ねて書いているのは僕の勝手であり、阿良々木愛もそうとは限らない。むしろそう受け取るほうがおかしい。だいたい、「なんてね」って言ってるんだから冗談なわけだし。二重トラップだ。どんくさい僕が潜り抜けるにはデンジャラスがすぎる。ふう、危ない危ない。危うく引っかかるところだったぜ……
と、どれだけ現実を直視しようとしても、どこかに都合よく解釈しようとしている自分がいる。阿良々木愛が僕を? そう思うだけで、ひとりでに胸の鼓動が早くなってゆく。
この感情はなんだ? 知らない、こんなの。切なくて、苦しくて、泣きたくなるような感覚。素敵な感情だと手放しに喜べるものではない。だけど不思議なことに、虚しさを感じる暇はなさそうだと思った。




