第一章
僕はAIになりたい。
だってAIならばどんなに鋭利な言葉を投げつけられても、もはや投げつけてすらもらえないような孤独の中でも、きっとなにも感じず、傷付かず、淡々と日々を乗り越えてゆけただろうに。
県立虹ヶ丘高校2年1組の空気は今日も薄い。たぶん、僕だけ皆より標高の高い場所にいるのだと思う。
「今日は6月1日だから、出席番号1番! ……は、愛知か。この問題を解いてみろ」
まだ眠気の覚めやらない一限目。窓の外は梅雨真っ盛り。しかも数Bという世間一般的に文系の天敵とみなされる科目の授業ときたせいか、教室全体がずっしりとした倦怠感に包まれる中、先生が出席番号1番・愛知賢太を指名する。
『初項3、公差2の等差数列の第20項から第30項までの和は?』
これは一昨日宿題で出された問題集の66ページ、問4(2)の応用だから間違えようがない。
「561です」
即答した瞬間、ギョッとしたような視線がいくつか僕を突き刺した。先生までも化物を見るような表情をしている。
あぁ、またやってしまった……
先生は怯え顔をサッと作り笑いの下に仕舞い込むと「正解」と端的に言って、何事もなかったかのように次の問題に移る。クラスメイトの視線もすでに黒板に戻っている。慣れたものだ。だけど僕は四年以上経った今でも、この腫れもののような扱いには慣れることができない。僕だけがいつも一人山頂に取り残される。
終業を告げるチャイムが鳴る。二限目は体育。唯一、僕が化物じゃなくなる時間。カバンから体操着を取り出し、僕はそそくさと下山の準備を始めた。
/
小学生までの僕は勉強が人よりできるだけの普通の子どもだった。友だちと呼べる存在も少ないながらいたし、それなりに楽しく過ごせていたと思う。
だけど中学生になった途端、周囲の僕を見る目が明らかに変わった。どうやら僕が当たり前にできることが皆の当たり前ではなかったらしい。小学校より授業のレベルが上がったことで、その差が顕著になり始めたのだ。元々幼少の頃より、医師から「『サヴァン症候群』に伴う極めて優れた記憶能力を有している」との説明を受けていた。俗に言う「完全記憶能力」に近いものだと、僕は認識している。
お昼休み、昼食を買いに購買へと向かう。2―1の教室がある第二校舎から購買までのルートの途中、渡り廊下を通って主に一年生の教室がある第一校舎を横断する必要があるのだが、そこで並んで歩く三人の女子生徒と遭遇した。赤いリボンなので一年生。タイミングと進行方向から考えて、彼女たちも購買に向かおうとしているのだろう。
「げっ、財布忘れた!」
向かって右端の少女が頭を抱える。
「取りに戻るから先行っててー」
「いいよ、私たちも一緒に戻る」
「焦らなくても購買は逃げんだら」
「いや! た、たぶん逃げちゃうと思う、よ?」
思わず声をかけてしまった。驚いたようにこっちを見ている後輩たちに、僕は慌てて言葉の意図を説明する。
「購買は一年の教室が一番近いから基本的には売り切れてることはないんだけど、今日は水曜日でしょ? 水曜の四限は3―2の日本史の鈴木先生と3―5の現国の豊永先生はチャイムと同時に授業を切り上げるからもうそろそろ購買組が一気にやって来るし、2―3は体育の授業中体操着のポケットに小銭だけ入れておいてグラウンドから購買に直行する人が結構いるせいで、他の曜日より売り切れるのが若干早いんだ。だから一回教室に戻ってる時間はない、と、思い……」
言いながら気付く。今の僕、結構キモくない? もしかしてまたやらかしてしまったのでは……心配を裏付けるように、三人は思いきり目を剝いている。またこれだ。正常な人間の中に混入した異物を見る目。この手の視線に晒されるたび、ひとりでに呼吸が浅くなる。酸欠みたいに、頭からスッと血の気が引いていく。「キモい」だの「やばっ」だの言われているうちはまだマシだったけれど、いつからだろう、皆僕の存在自体を煙たがり、遠ざけるようになっていった。
僕はまるで空気だ。空気なのに、空気が不足している。無視されるのは、苦しい。
「お、教えてくれてありがとうございます! 愛知先輩!」
お礼の声が廊下に響いた。左端に立つ、長身ボブカットの少女の声だった。少女は自分の口から出た声の大きさに驚いたように「きゃっ」と可愛らしい悲鳴を上げた後、深々とお辞儀をした。遅れて、他の二人も小さくお辞儀をする。
「行こ、愛」と真ん中の少女がボブカットの少女の袖を軽く摘まむ。ボブカットの少女はもう一度律義にお辞儀をした後、おとなしく手を引かれて去って行った。
「……ってか、あの子愛知先輩って」
後輩たちがいなくなった後、僕の不名誉が一年生にまで広がっているという事実に、一人震え上がる。だけどなぜか、少しだけ息がしやすくなったような気がした。
/
「おい。お前、愛知賢太だな」
放課後帰りの準備をしていると突然、不機嫌そうな低い声に名前を呼ばれた。教室の前扉を全開にして、一人の男子生徒がまっすぐにこちらを見ている。ぱっちりとした瞳が印象的な童顔だが、やや太めな眉とキリッとした鼻、薄い唇が、平成初期的イケメンの香りを漂わせている。ほんの少しだけ茶味がかった黒髪はパーマをかけているかのようにオシャレだが、校則で禁止なのでおそらくは天然物だ。一番扉に近い席の女子が声にならない黄色い声を上げる。
男子生徒はずかずかと教室の中に侵入してきて、窓際最前列の僕の前で立ち止まった。
「俺はくさか」
「2―8の日下部ミツルくん、だよね?」
またしても言ってからしまったと思ったが、彼は有名人なので初対面の他人が知っていても別に変ではないだろう。というか、向こうも僕を知っている風だったし。
「知ってるなら話は早い。ちょっとついてこい」
話が早すぎてちょっとついていけないが、それを伝える勇気のない僕は言われるがまま踵を返した日下部の背中を追う。教室中の好奇の視線が集まっているのを感じ、とりあえずこの場から逃げ出したいというのもあった。
日下部は第二校舎の階段を躊躇なく上ってゆく。三階より上は三年生の教室ゾーンなので普段なかなか足を踏み入れることはないが、日下部は迷いない足取りで四階まで辿り着くと、突き当たり一つ手前の空き教室(というより用具室?のような小さめの部屋っぽい)のドアに手をかけた。
「新入部員連れてきましたー」
「おお、本当に噂どおり話が早いな」
「ミッション達成、さすが、日下部くん」
待て待て待て。さすがにこのスピード感は現代っ子でも厳しい。平成初期が令和を追い越すな。
「し、新入部員、ですか?」
おそるおそる尋ねるが、返答の前にホワイトボードに書かれた「ようこそ文藝部へ!」の文字が視界に入る。「ようこそ、文藝部へー」と覇気のない声でそれをそのまま読み上げたのは、ボードの前に立つ女子生徒。きめ細やかな茶髪は模範的ギャルのそれに見えるが、染髪も禁止なのでこちらもおそらく地毛。かと思いきや、明らかに校則違反の短いスカートを見るに少し怪しいか? 白い顔の上に黄金比のように配置されたパーツはどこか人間離れしており、動くお人形と言われても納得する。端的に言えば、ものっすごい美人だ。そしてこんなに目立つ存在の名を僕が聞いたことないはずもなく。
「2―7の、橘京華さん」
「うん、よろしく」
よろしくじゃないが。と思いながらもダウナー系の気の抜ける話し方に惑わされてつい「よろしく」と返してしまう。
そして。
「よろしくな、愛知くん!」
「はい、よろしくお願いします」
「……」
「……」
教室内にいたもう一人の男子生徒にも挨拶されたので応えたが、謎の間が生まれる。ネクタイが青色なので先輩なのは間違いないけれど……
先輩は「うぅん゛っ!」と咳ばらいを一つして、沈黙を破る。
「文藝部『部長』の袴田零士。3―4だ」
部長、という部分をやたら強調して袴田先輩は胸を張った。一言でいえばゴリラ。むっちりした体躯と文藝部という単語を頭の中で結びつけるのに、ほんの少し時間を要した。角が一つもない丸っこい顔つきと滲み出る良い人オーラは、僕が知る一般的な先輩という生き物と比べていくぶん親しみやすく感じる。そういえば、ゴリラは優しい動物だって本に書いてあったな。
「で、入部の手続きについてだけど」
「あ、えっと、そのことなんですが」
袴田先輩がおそらく今回の拉致の本題と思われる内容に入ったタイミングでようやく、僕は自分がするべきことを思い出す。
「僕、日下部くんから『ちょっとついてこい』って言われて来ただけなんですが」
遠慮気味に伝えると、袴田先輩は「はぁ!?」と驚きの声を上げた。
「日下部おまっ、事情も目的も伝えずに連れてきたのか!? 言葉足らずにも程があるだろ!」
「さすがに、引く」
「なんでっすか。さっさと連れてきたほうが話が早いでしょ」
「話してないのは話が早いとは言わないんだよ!」
「そんなにウホウホしないでくださいよ。そうだ、バナナ余ってますけど食べます?」
「バナナ余ってますけど!? どういう状況!? というか要らねぇよ、ゴリラ扱いすな!」
「えっ、でもエクアドル産っすよ?」
「産地の問題じゃねぇわ!」
「私は、フィリピン産のほうが、好き」
「お前はこっち側でいろよ橘!」
……僕はなにを見せられているのだろう。よくわからないが、仲が良さそうなことだけは伝わってくる。
「愛知くん、は?」
「へ?」
「愛知くんは、エクアドルと、フィリピン、どっち派?」
思い出したように僕に話を振ってきたのは橘。どうしよう、なにか気の利いた返しをしないと……
「あの、ゴリラの生息域はアフリカ大陸なんですが、アフリカにバナナは自生していないため、野生のゴリラがバナナを食べることはないらしい、ですよ」
「……そう」
なんだか、いつもと違うタイプの息苦しさを感じる。これが俗に言う「空気が凍った」というやつだろうか。凍っていては吸いづらい。
「いや、だからゴリラ扱いやめろや!」
ややあって、袴田先輩のツッコミが炸裂する。笑い声とともに温度を取り戻す教室。救われたという思い以上に、劣等感と自分の無力に苛まれる。ほんの5分程度話しただけで、この人の部長たる所以がよくわかった。対して僕は、なんでこういつも上手くやれないんだろう。せっかく久しぶりに誰かに話しかけてもらったのに。
もしも僕がAIだったら、こういうときも無難な返しができたんだろうか。
「さて。ゴリラは隅っこに置いといて、そろそろ本題に入らせてくれ」
そう言って袴田先輩は教室の隅の椅子に腰かける。また小さな笑いが起こる。僕は、上手く笑えていたかわからない。
「今年、文藝部は二人の先輩が卒業して三名になった。新入生が一人だけ入部してくれたから、今は四人なんだが」
「あぁ……五人以上いないと部として承認されないから、来年度の廃部が確定してしまうということですね?」
「やっぱり話が早いな。そう、それで君に文藝部に入ってくれないかと、日下部をスカウトに派遣したのに……」
袴田先輩が恨めしげに部屋の真ん中の会議用テーブルに目をやると、日下部はすでに役目は終えたと言わんばかりに読書に興じている。太宰治の『人間失格』だ。まるで僕に対する当てつけのように感じてしまうのは、さすがに被害妄想が過ぎるだろうか。
「ともかく、そういうわけで学業超優秀かつどこの部にも所属していない君に、白羽の矢が立ったわけだ!」
「あと一人でも一年生呼べてれば、声をかける必要なかったんだけどね」
日下部が本に目を落としたままつぶやく。とてもお願いしている側の態度とは思えないが、無視されるよりかはよっぽど気持ちがいい。「おい日下部!」とたしなめようとする袴田先輩を制して、僕は口を開く。
「いいですよ。入ります、文藝部」
「! ほんとに!? 勧誘しといてなんだけど、いいのか? そんな簡単に」
「はい、どうせ放課後は家に直帰するだけだったんで。それに、」
「?」
「いえ、なんでもないです」
どんな理由であれ、僕に目をかけてくれた人がいる。その事実が嬉しかった。僕が入部するだけで少しでもこの人たちの役に立てるのなら、断る選択肢なんてない。
「遅くなってすみません!」
真後ろで扉が開いて大きな声がした。その後すぐに、驚いたように「きゃっ」という悲鳴が続く。知っている悲鳴だと思った。
「阿良々木ちゃん、お疲れ様。一年生の教室は遠いんだから、遅れてもいいんだよ」
「でも、」
「そもそも、まだ、始まってない。部活」
振り返ると、成人男性平均身長とだいたい同じ171センチの僕とほぼ同じ高さに、ボブカットの顔がある。お昼休みよりも近くで見たら、前髪の間から覗く目はおどおどした態度とは対照的にくっきり横長で力を感じる。キュッと固く引き結ばれた唇は自信のなさにも、反対に強い意志の表れのようにも見えて、掴みどころがない。
阿良々木、と呼ばれた少女はお昼休みには愛と呼ばれていた。すなわち、阿良々木愛。阿良々木愛は僕と目が合うと、膝丈より長いスカートを腿のあたりでギュッと握り「お昼はありがとうございました!」と言った。
「あぁ、うん。ちゃんとお昼ご飯買えた?」
「は、はい。おかげさまで」
「あれ? 阿良々木ちゃんと愛知くん、知り合いだったの?」
ガタッと椅子が激しい音を立てた。見ると、日下部が本から目を上げてこちらを凝視している。なぜ。
「いえ、知り合いというか、偶然廊下ですれ違って」
「廊下ですれ違って、なんで知り合いになってるんだよ」
日下部が若干険のある声で食いついてくる。だから、なぜ。
「いやあの、だから知り合いじゃなくて」
「違うんだよミッくん。愛知先輩が初めてでなにもわからなかった私に、いろいろと教えてくれたじゃんね」
じゃんね……阿良々木愛は三河弁使いのようだ。このあたりでは珍しくもなんともないが。そしてミックン。日下部ミツルでミッくん。親しい仲なのだろうか。ミッくんこと日下部は、僕を呪い殺さんばかりの目でにらんでいる。ほんとに、なぜ。
「はいはい! 全員揃ったところで愛知くんの歓迎会、始めるぞ!」
「全員揃ったということは、阿良々木愛さんが例の一年生部員だったんですか」
「えっ、なんで私のフルネーム知ってるんですか……?」
一歩後ろに下がって、阿良々木愛。
「えっ、じゃあ知られてなかったの、俺だけ……?」
悲しそうな顔で、袴田先輩。
そうだけど、そうじゃない。けど、どう説明してもキモくなってしまいそうなので僕は弁明することを諦めた。人間関係って難しい。皆、なんで上手くできるんだろう。
/
テーブルの上に広げられたお菓子、お菓子、お菓子。全部しょっぱい系だ。チョイスしたのは橘らしい。友だちがいない僕にはよくわからないが、こういうパーティーみたいなときは塩味と甘味をバランスよく取り揃えるものではないのだろうか。
「よし、激辛は我慢したんだな。偉いぞ橘」
「くぅん」
袴田先輩の空中頭なでなでに、空中頭すりすりで返す橘。どうやら彼女はここでずいぶん甘やかされて育っているようだ。
「あの、愛知先輩」
いわゆるお誕生日席に座った僕の右の斜向かい席から、阿良々木愛がこそこそと話しかけてきた。立っているときはほぼ同じ高さだった顔が今はどう見ても下にあるのは、きっと座高うんぬんじゃなくて阿良々木愛が酷い猫背だからだ。うん。そうに違いない。そういうことにしとこう。
「よかったらこれ、どうぞ。お昼に購買で買っておいたんです」
彼女の手に握られていたのはあんパンが二つ。一つを自身の腿の上に置き、もう一つを僕に差し出してくる。なるほど。彼女の入部時にも歓迎会が行われたのなら、きっとすでにこの塩味パーティーを経験済みなのだろう。
「ありがとう。お金は後で……」
「いいんです。これはお礼のつもりで」
「お、良いもん持ってんじゃん。もーらい」
左斜向かいからヌッと伸びた手が、僕の手からあんパンを奪っていく。
「ちょっと、ミッくん!」
阿良々木愛が怒りの声を上げる。が、声も顔も愛嬌があるせいか全く怖くない。
「いいじゃん別に。俺があんパン好きなの知ってるだろ」
「初耳だし、だとしても我慢しりんよ! 今日は愛知先輩の歓迎会なんだから」
「じゃあお前のやつをあげればいいじゃん」
「あ、そっか! じゃあこっちをどうぞ、愛知先ぱ」
「っしゃ、もう一個ゲット」
「もうー、ミッくん!!」
二つ目のあんパンを僕の手から取り上げた日下部からは、こいつには食べ物一つ渡さないという鉄の意志を感じる。我ながら、普通に生きてきただけのつもりでよくここまで嫌われたものだ。対して阿良々木愛はなぜこんなにも親切なのか、そして彼女の怒声はなぜこんなにも可愛らしいのか、疑問は尽きない。
「じゃあとりあえず、改めて自己紹介をしようか」
長テーブルの対面に座った文藝部部長袴田零士先輩(3―4)が言う。
「俺は文藝部部長の袴田零士。3―4だ」
「はい」
既出情報だ。
「8月27日生まれ。B型。いいか、B型だ。好きな本は『負けヒロインが多すぎる!』シリーズ。いわゆるラノベだな。得意ジャンルはコメディ」
「? はぁ」
なぜこの人はいきなり好きな本を言ったのだろう。自己紹介で名前等の基礎情報の次に出てくる話題にしては、ニッチすぎないだろうか。あと、得意ジャンルってなんだ。
「副部長、橘京華。2―7。3月18日生まれ。好きな本は、『アヒルと鴨のコインロッカー』。得意ジャンルは、ミステリ」
「あ、あの、少しいいですか?」
「なに」
橘がこてんと頭を斜めに傾ける。あぁ、僕なんかが話を遮ってごめんなさい。
「なんでさっきから皆さん、好きな本と、得意ジャンル?なるものを言っているんですか?」
「?」
「?」
「愛知くん。文藝部が、なにするところか、知ってる?」
「いえ。なにをする部活なんですか?」
「まじ」
「ウッソだろお前」
「なにをする部活かも知らずにあんな即決で入部を決めたの? なんていうか愛知くん、お人好しがすぎないかい」
呆れ顔の上級生三人。と、話についていけてない様子の阿良々木愛。僕、またなにかやってしまったのだろうか。
「おほんっ。文藝部というのはだな、」
袴田先輩が説明を開始する。要約すると、文藝部とは各々自作の小説を書くことを目的とした部活らしい。また、ただ書くだけではなく作品の品評会や読書会、文章力を鍛えるための様々なイベントなども行っているという。非常にわかりやすく整理された内容で、それだけで確かに、日々真剣に言葉を扱っているのだろうなということがうかがえる。
「ま、わからないことがあれば俺になんでも聞いてくれ」
そう言って、先輩は右手でドンと胸を叩いた。あ、ドラミングだ。
「続きやっていいっすか?」
「ああ、どうぞ」
「2―8、日下部ミツル。11月4日生まれ。好きな本は三島由紀夫の『金閣寺』。得意ジャンルは純文……」
「待って」
日下部の自己紹介に待ったをかけたのは橘。
「日下部くん、三島が好きなの? 聞いたこと、ない」
「確かに初耳だな。それに得意ジャンルも純文学って言いかけたか? お前、去年一回も品評会参加してないから、まだ完全未知数なのに?」
「そうだったんですか?」
阿良々木愛が意外そうに口にすると、日下部は早口でまくし立てる。
「言ってなかっただけだよ。品評会もなんか気が乗らなくて参加しなかっただけで別に邪な目的で文藝部に所属してるわけじゃねぇし。なに、なんか文句あるんすか?」
「い、いや、全然いいんすけど」
あまりの勢いに押されなぜか敬語になる袴田先輩。日下部は若干赤らんだ顔であんパンにかじりつく。
「じゃ、じゃあ次は私ですね……1―4、阿良々木愛です。誕生日は4月19日。好きな本はいろいろありますけど、一番は『君の膵臓をたべたい』で、得意ジャンルとかはまだわからないですけど、その、恋愛小説を、いつか書いてみたい、なぁって……」
恋愛と自分で言った後、恥ずかしそうに目を泳がせる阿良々木愛。その様があまりに初々しかったせいか、袴田先輩と橘が「おぉ」と詠嘆に似た声を上げる。するとそれがまた恥ずかしかったのか、阿良々木愛は話の矛先を逸らすように続ける。
「ミッくんとは幼稚園のときからの幼馴染で、今でも家族ぐるみでお世話になってます。中学三年生のとき……つまり去年ですが、私が『小説家になりたい』って言ったら『実は俺もなんだ』って。さっき話題に出てた『金閣寺』とか安部公房の『砂の女』とか夏目漱石の『こころ』とか、いつも読んでいたイメージです。この学校に入学したいって思ったのも、ミッくんがここの文藝部に入ったって聞いたからで、」
「ほぉ」
なにやら訳知り顔で、橘がつぶやいた。
「確かに日下部くん、今年からよく、本を読んでる。愛ちゃんが来るときは、特に」
「そうだな。去年までは部室に来てもケータイばかりいじってたのに、不思議だな」
悪い顔の袴田先輩が加勢すると、日下部の顔がみるみるうちに真っ赤に染まっていく。さすがの僕でも今ので状況はなんとなく理解した。なんと邪な部員だろう。ただ、渦中の人物だけは相も変わらず話についていけてない様子で、まっすぐな瞳で言った。
「ミッくんの書いた小説、早く読んでみたいな」
そしていよいよ僕のターン。自己紹介はコミュ障の戦場。ゆっくりと深呼吸をし、事前に言葉を選び抜き、意を決して口を開く。
「2―1。愛知賢太です。1月1日生まれ。好きな本は、すみません。あまり小説を読んだことがなくて。なのでジャンルとかも特に」
……終了。袴田先輩の全力拍手と、阿良々木愛の「お正月生まれの人とか初めて見ました!」という謎フォローが逆に痛い。すみません。
「ま、愛知くんの得意ジャンルはおいおい見つけてもらうとして。とりあえずは阿良々木ちゃんに合わせてテーマは『恋愛』でいこうか」
「? なんの話ですか?」
「今年度第一回目の品評会! を、一か月後に開催します!」
品評会。さっき聞いた話によると、一つのテーマに沿ってそれぞれが作品を執筆して持ち寄り、部内で読み合うというイベント。
え。たった一ヶ月で処女作を? しかも恋愛がテーマ!?
「参加は強制じゃありません。それに今月は実力テストもあると思うから、もちろんそちらを優先で。短くても全然いいし特に順位をつけたりもしないから、気軽に書いておいでよ」
それならまぁと納得した僕の右の視界に、顔面蒼白の阿良々木愛の姿が映る。なにか声をかけるべきか、というかかけていいのか、逮捕されたりしないかなどと逡巡する間に、彼女の隣の橘が先に「愛ちゃん、どうかした」と尋ねる。
「いえ、その、急だったので。いきなり書けるのかなぁと」
「大丈夫。初めては、皆下手。それに今回は、仲間が二人」
「二人?」
橘は僕を指差して「一人」と言った後、そのまま指を日下部に向ける。「二人」。
「はぁ!? お、俺は参加しねぇぞ! 恋愛なんてチャラついた……」
「お願いミッくん、一緒に書いて? ミッくんほど上手くは書けないだろうけど、ミッくんもいてくれたら心強いから」
「……チッ。わかったよ」
即陥落。しかし阿良々木愛はなぜ、日下部の気持ちに気付かないのだろう。僕ですらわかるのだから、もはや「あんパンは甘い」並に自明の理だと思うのだけど。
「あぁそれと、」
袴田先輩が思い出したように付け加える。
「今日から阿良々木ちゃんと愛知くん、二人でリレー小説書いてもらえる?」
「「リレー小説?」」
僕と阿良々木愛の声が重なる。聞くに、リレー小説とは複数人が順番に文章を書いて一つの物語を完成させる手法のことらしい。今回の場合、僕→阿良々木愛→僕→阿良々木愛と二人でリレーのように繋いで書いていくこととなる。事前にストーリーを打ち合わせせずに書くので、メンバーのアドリブ性で物語が好き勝手に流動していくのが難しい点であり、また醍醐味でもあるのだとか。
なるほど、やはり文藝部部長らしく簡潔でわかりやすい説明だ。じゃなくて。
「なんで僕と阿良々木愛さんが、その、リレー小説を?」
「伝統なんだよ。新入部員の男女が二人一組でリレー小説を書く。去年も橘と日下部でやったよな?」
「うん。日下部くんが、ワンラリーで、完結させちゃったけど。超短編」
「なんですかその変な伝統は」
「うちの部は発足当時出会い系の部活でな。そのときの名残らしい。今は至って真面目に小説書いてるけど」
「出会い系? 文藝部が? テニス部とかギター部じゃなくて?」
「すげぇなこいつ、一言で文藝部とテニス部とギター部を敵に回したぞ」
なにはともあれリレー小説も書くことになった。伝統ならしかたない。日下部が般若の形相だったけれど、しかたない。
「よろしくお願いします、愛知先輩」
阿良々木愛は品評会の話のときとは打って変わって和やかな表情だ。リレー小説は他の部員に公開する必要はないらしく、要するに、共同作者二人だけの秘密にできるから大きなプレッシャーがないのだろう。僕自身もそれは気楽ではあるが、阿良々木愛的には本音はもっとまともな男と秘密を共有したかったんじゃないかと勘繰ってしまう。それこそ日下部とか。
だから、なにを期待しているのかほんの少しだけ高鳴っている自分の胸が、浅ましくて気持ち悪い。
/
古本屋に寄って小説を数冊買ってから家に帰ると、電気が付いていない。でもそれだけでは家主が不在かどうかはわからない。ドアノブを回すと、鍵を使わずともドアが開く。どうやらもう仕事から帰っているようだ。
リビングには案の定、暗闇の中でノートパソコンと向き合う母の姿があった。
「ただいま、母さん」
声をかけるがいつもどおり返事はなかった。まだ仕事中なのだろう。よく知らないが、エンジニア系の仕事をしていると幼い頃に一度聞いた覚えがある。カタカタという音を背に僕は二階の自室へと向かう。買ってきた小説にパラパラっと目を通した後、そういえば、今日は宿題の他にリレー小説を書かなければいけないのだったと思い出す。これも夕飯の前に済ませてしまおう。
勉強机に座ってケータイを開く。僕も阿良々木愛もお互い自前のパソコンを持っていないので、ケータイ版のWordアプリで編集権限を共有し、順番に文章を綴ってゆくことになった。第一走者は僕だ。
とりあえず主人公は僕が感情移入しやすいように男性にしようか。あぁでも、そうすると阿良々木愛が書くときに難しくなってしまうな。でも僕は初心者で……あっ、阿良々木愛も同じか。いったいどうしたら…………さんざん悩んだ末、第一ターン、主人公の人称は出さずに乗り切ることにした。早い話が性別は阿良々木愛に丸投げするということだ。優柔不断でごめんなさい。
さて、それじゃなにを書くかだけど………………あれ?
『夜分遅くにすみません。小説ってなにを書けばいいんですか?』
僕は今日登録された四つの連絡先の中から、袴田先輩のアイコンを選んで開き、質問を打ち込む。だって、「ま、わからないことがあれば俺になんでも聞いてくれ」って言ってたし。それにしてもこんなに初歩的な質問は迷惑だっただろうか。送信ボタンを押してしまった後から怖くなってきて、冷汗が止まらない。
僕の不安を拭うように、返信はすぐやってきた。
『小説は自己表現だ! 初心者のうちは難しいことを考えず、心のままに書け!』
『心のまま、ですか』
『愛知くんは現状プロを目指しているわけでもないだろう? だったら、心の声に耳を澄ませ、感情の赴くままに書き殴ってしまえばいい』
『でも、それではちゃんとしたものにならないんじゃ』
『最初はそれでいいんだよ。喜びだったり、悲しみだったり、なんでもいい。自分の感情を言葉という形で出力することが、小説の第一歩だ。それとも、君には感情がないのかい?』
『わかりました。ありがとうございます』
『いえいえ! またどんな些細なことでも聞いてくれたまえ!』
ドンと胸を叩く袴田先輩の姿が思い浮かぶ。フッと息が漏れて、肩の力が抜けてゆく。心のままに書け、か。そうして僕は自分の心の奥底に眠る感情らしきものに耳を傾け、ケータイ画面上で指を滑らせ始めた。
***
AIになりたいといつも思っていた。
人から会話を入力される。求められた無難な返事を出力する。ただそれだけのやり取りができればいいのに、どうして感情とかいうバグが介入してしまうのだろう。
感情は人生を苦しくする。生き方が下手な人間の場合は、特に。
だから感情なんて要らない。そんなもの食って喜ぶのは変態だけだ。凡人にはただ苦しくて、辛くて……虚しい。
もし総理大臣になったら。真っ先に感情を廃止するだろう。きっと支持率はうなぎのぼりだ。
もし小説家になったら。感情のない世界を描こう。疲弊した現代人の、束の間の現実逃避の場所として。
もし神様になったら。世界中の人から感情を奪ってあげよう。そうすりゃ瞬く間に戦争なんてなくなるだろう。
ハロー、ハロー。誰かこの声が聞こえているのなら、どうかこの不要なバグを消し去ってください。それが叶わないならせめて、素敵な感情を教えてください。
虚しさなんて覚える暇もないような、とびっきり素敵な感情を。
***
袴田先輩に言われたとおり感情と向き合った結果、感情全否定のポエムが出来上がってしまった。
こんなジメジメした文章を阿良々木愛に読ませるのか? いやでも、これが僕の偽らざる本音なのだ。新入部員の僕は先輩に言われたとおりに小説の第一歩を踏み出しただけ。なんて、誰にともなく言い訳しつつ文章を保存し、阿良々木愛のLINEに『リレー小説の第一話完成しました』と簡潔に打ち込む。
思い切って送信ボタンを押すと同時に、部屋に設置されたワイヤレスの呼び出しチャイムが鳴る。夕飯ができた合図だ。急いで一階のダイニングに降りると、すでに二人分の食事がテーブルに向かい合わせに並んでおり、その一方に母が座っていた。
「ごめん、お待たせ」
「待ってないわ」
言葉のまま、母は先にご飯を食べ始めていた。今日は冷凍のサバの味噌煮とインスタント味噌汁、パックのご飯。それからビタミン補給用のゼリー飲料だ。非常に標準的な我が家の献立。まだ友だちと呼べる存在がいた小学生のとき、何気なく食卓の話題になってありのままに話したら「賢太くん家おかしいよ」「虐待だ」と少し騒ぎになってしまったのだけれど、僕はそうは思わない。だって母は忙しいし、なにより母も同じものを食べているのだし。
サバの身を箸でほぐしながら、母が問う。
「学校はどう?」
「とても楽しいよ。友だちも皆優しいし」
「そう」
まるで温度を感じない返事でピシャリと締められる。約10年間、寸分違わず繰り返されているやり取り。
小学生の頃は心からそう答えていたけど、中学からは母に心配をかけないための嘘になった。何回か本当のことを言おうと思ったこともあるけど、やめた。もし「実は友だちがいないんだ」とか「いじめられてるんだ」なんて言ったら、困らせてしまうだろうから。そうしたらもう学校はどう?なんて質問すらしてくれなくなるかもしれない。
だけどね母さん……今日だけは違うんだ。友だち、ではないかもしれないけれど、部活仲間が四人もできたんだよ。友だちってなんていう子?と一度も聞かれなかったことは今までは助かっていたけど、今日は聞いてもらえないことが少し寂しい。嘘じゃないから、ちゃんと名前も言えるんだよ。
袴田零士先輩。
橘京華。
日下部ミツル。
阿良々木愛。
少し変わった人たちだけど、皆いい人たちなんだ。僕、文藝部に入って小説を書き始めたんだ。ねぇ、母さん。
「お風呂沸いてるから、先に入っちゃいなさい」
母はそう言って自分の分の食器を片付け始めた。急いでいるように見えるのはまだ仕事が残っているからで、それは僕から逃げる口実ではない。たぶん、きっと。
母が去った後、僕はできるだけゆっくり食べていたご飯の残りを一気に口の中に押し込んで、食器を食洗機の中に並べた。




