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■ 第9話:究極の効率化が招く、人間の「昆虫化」

 窓一つない地下の第4会議室は、巨大企業が法律も警察も超越した【企業国家コーポレート・ステート】として君臨し、国民の生殺与奪を握るという究極のディストピア像によって、もはや酸素が存在しないかのような極限の息苦しさに沈んでいた。

 無機質な空調のモーター音が、ジジッ……ジジッ……と、冷酷な管理社会の足音のように、単調なリズムを刻み続けている。

 七海悠太は、自分たちが国に守られた市民ではなく、ただ企業の機嫌一つで餓死させられる【ケージの中のペット】に過ぎなかったという事実に絶望し、パイプ椅子の上で両膝を抱えてガタガタと震え続けていた。

「……皆さん、少し冷静になって社会の全体像を見渡すべきです。ディストピアだの奴隷だのと、感情的な言葉で事実を歪めるのはやめていただきたい」

 極限の閉塞感を切り裂くように、氷室司の冷徹な声が響いた。

 氷室は、長机の上に置かれた冷え切ったブラックコーヒーの紙コップを手に取り、静かに一口啜る。

 彼は懐からマイクロファイバーの布を取り出し、銀縁眼鏡のレンズを執拗なまでに磨き上げると、手元の最新型タブレットを厳かにスワイプした。

「御子柴さんや轟さんの言う通り、企業が主権を握ったとしましょう。……しかし、それが直ちに『最悪の世界』であるというデータはどこにもありません。むしろ、情報工学と経済学の観点から言えば、企業による統治は、不完全な民主主義よりも遥かに【平和で安定した社会】をもたらす可能性があります」

 氷室の細い指先がタブレットのキーボードを激しく叩き、巨大モニターに「世界規模の紛争コスト」と「犯罪発生率のシミュレーション」のグラフが青白く投射された。

「企業にとって、戦争や暴動というものは『最大のコスト(無駄)』です。だからこそ彼らは、国民全員に万能グミを与え、物理的な飢餓と不満を消去した。……考えてもみてください。誰も飢えることがなく、薬物による多幸感で誰も怒らない。犯罪も起きず、戦争も起こらない。これは人類が有史以来求め続けてきた【完全なる平和の実現】ではないですか!」

 氷室は、勝ち誇ったようにレーザーポインターでグラフの数値を指し示した。

「無駄な政治的対立もなくなり、人類はただ企業の用意したシステムの中で、自らの役割タスクだけを効率的にこなせばいい。……これは隷属ではありません。不要なストレスと自己決定の負担から人間を解放する、究極の【社会の最適化】なんですよ」

 データと合理主義に基づく、氷室の強靭な論理の盾。

 自由を失う代わりに、争いも飢えもない完璧な平和が手に入る。それこそが人類の進化であるという絶対的な反論。

 しかし。

 その言葉を聞いた轟大吾は、呆れたように低く、重い溜息を吐き出した。

 轟は、分厚い両腕を組み、黒のタクティカルジャケットの背中をギュッと軋ませながら、氷室を鋭く睨みつけた。

「……氷室。お前は『数字上の平和』しか見ていない。軍事兵器の開発において、お前の言う【完全な最適化】が行き着く最悪の果てを知らないから、そんな暢気なことが言えるんだ」

「最悪の果て……? 犯罪も戦争もない社会の、何が悪いと言うんですか」

 氷室が怪訝な表情を浮かべる。

「軍の無人機ドローン部隊を見てみろ。彼らは恐怖を感じず、文句も言わず、ただプログラミングされた目標に向かって完璧に動く。……なぜなら、彼らには【自我】がないからだ」

 轟は長机の上に自らの暗号化端末を叩きつけるように置くと、太い指で画面を操作し、巨大モニターに軍事用自律型ロボットの群れ(スウォーム)の映像を割り込ませた。

「氷室! 企業が国民に求めているのは、平和に暮らす市民じゃない! 文句一つ言わず、ただ労働力だけを無限に提供し続ける【生きたドローン(生体機械)】だ!! 腹を満たし、脳を麻痺させ、個人的な欲望をすべて削ぎ落とした人間が、最後にどうなるか分かるか!?」

 轟が、分厚い両手で長机をバンッ!と激しく叩きつけた。

 ダンッ!!という音が、地下室の空気を激しく震わせる。

「喜びも悲しみも、家族への愛すらも『非効率なバグ』として消去される! 人間から自我を奪い取り、ただ社会システムという巨大な機械の【歯車の一つ】として死ぬまで回し続ける……それが、お前の言う『究極の最適化』の正体なんだよ!!」

「……っ!! 自我の消去による、人間の機械化……!」

 氷室の持つタブレットが、カタカタと震え始めた。

「ええ、まさに哺乳類からの卒業ね」

 密室の淀んだ空気を撫でるように、烏丸玲奈の艶やかな声が響いた。

 彼女は黒いヒールを鳴らしてゆっくりと立ち上がり、長い黒髪を指先でなぞりながら、モニターに映るドローンの群れをうっとりと見つめた。

「氷室さん。自然界において、最も組織的で、個人の争いがなく、完璧な効率で回っている社会を築いている生物が何か、分かるかしら?」

「最も完璧な社会を築く生物……?」

 氷室が震える声で答える。

「そう。それは【アリ】や【ハチ】よ」

 烏丸は、透き通るような白い指先をそっと伸ばし、机の上に転がる万能グミのパッケージを撫でた。

「真社会性昆虫と呼ばれる彼らの世界には、『私』という概念が存在しないの。すべては『女王システム』のため。働き蜂は自らの子供を産むことも、美味しい蜜を独り占めして楽しむこともなく、ただひたすらに労働し、寿命が尽きればゴミとして捨てられる。……そこには怒りも、反逆も、孤独すらもないわ」

 烏丸はふふっ、と妖しく微笑み、会議室の全員を見回した。

「巨大企業が万能グミを通じて行っているのは、人間という非効率な哺乳類を、完璧な【昆虫社会】へと強制的に進化……いえ、ダウングレードさせること。……このグミは、一億人の人間を感情のない働き蜂へと作り変えるための、恐ろしい『ローヤルゼリー』なのよ」

「ククク……ハハハハハ!!!」

 突如、長机の奥から地鳴りのような笑い声が爆発した。

 特務考察機関サイファーのリーダー、御子柴健だ。

 彼はよれよれのスーツのポケットから両手を引き抜くと、ジッポライターを取り出し、カチン、と火をつけた。

 深く吸い込んだ紫煙を天井に吐き出しながら、彼はギラギラと血走った目でホワイトボードの前に飛び出した。

「見事だ、轟! 烏丸! これで帝国メガファーマどもが到達しようとしている、【人類という種の完全な終焉】の全貌が暴かれたぜ!!」

 御子柴は黒のマーカーを掴み、ホワイトボードの中央に人間の絵を描き、その頭の部分に激しいバツ印を書き殴った。

 そして、その下に赤のマーカーで大きく『【働きワーカー】』と書きなぐった。

 ダンッ!!と叩きつける激しい音が、窓のない密室に鳴り響く。

「氷室! お前はさっき、人類がストレスから解放されると言ったな! 違う!! 解放されるんじゃない! 【人間であることそのものを放棄させられている】んだよ!!」

 御子柴の血走った眼光が、密室の全員を射抜いた。

「考えてもみろ!! 食事の楽しみを奪われ! 誰かと食卓を囲んで語り合う時間を奪われ! 怒ることも、悲しむことも、新しい未来を夢見ることも薬で奪われた人間!! ……そんなもん、ただ呼吸して動いているだけの【肉のバイオマテリアル】じゃねえか!!」

 御子柴が悪魔のような笑みを浮かべて、最悪の仮説を咆哮する。

「企業は兵器なんか使わねえ!! 人間にこの万能グミを与え続け、個人の意志と尊厳を完全に削ぎ落とす!! そうして一億人の国民は、自分が人間だったことすら忘れ去り、ただ甘い汁を啜って死ぬまで働き続ける【巨大な蟻塚の虫ケラ】へと成り下がるんだよ!!!」

「ああっ……! ああああああっ……!!」

 七海悠太が、両手で自分の顔を強く覆い隠し、床の上でのたうち回った。

「俺……! 確かに最近、大学行って、バイトして、家に帰って寝るだけの毎日が……全然苦痛じゃなくなってたんだ……!!」

 七海の脳裏に、悍ましい光景がフラッシュバックする。

 感情を失い、焦点の定まらない目をした何百万もの若者たちが、列をなして工場やオフィスへと行進していく姿。

 彼らの口元には万能グミが咥えられ、誰一人として言葉を発さず、ただ黙々と、巨大な企業(女王蜂)のために自らの命を擦り減らしていく。

 そして自分もまた、その無数の黒い群れの中に混じり、疑問すら抱かずに歩き続けているのだ。

「俺の心は……! 平和になったんじゃない、ただの【虫の脳みそ】に作り変えられてたって言うのかよ!!」

 究極の効率化がもたらす、人間の昆虫化。

 それは、肉体は生きていながら「魂」だけが完全に消滅する、人類という種の最も静かで、最も残酷な絶滅の形だった。

「ふざけんな……! 俺たちは人間だ!! 腹も減るし、ムカつくし、美味いもん食ったら笑う人間なんだよ!! いつから俺たちは、こんな【感情を持たない働きアリ】にされちまったって言うんだよおおおっ!!」

 自由も、尊厳も、すべてを効率という名の下に刈り取られた絶望の世界。

 人間が人間でなくなるその境界線は、すでに一粒のグミによって、音もなく踏み越えられていた。

「【な、何だって言うんだァァァーーーッ!?】」

 七海悠太の魂を引き裂く悲鳴が、窓のない第4会議室のコンクリートの壁に虚しく反響する。

 無機質な空調のモーター音は、まるで個性を失った何億匹もの羽虫が、巨大な巣の中で一斉に羽ばたいている不気味な羽音のように、低く、重苦しく、彼らの頭上で鳴り響いていた。

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