■ 第8話:企業国家(コーポレート・ステート)の誕生
窓一つない地下の第4会議室は、人工的な快楽物質によって一億人の国民が「笑顔の家畜」に作り変えられるという絶望的な真実によって、もはや呼吸すらままならない極限の重圧に支配されていた。
無機質な空調のモーター音が、ジジッ……ジジッ……と、思考を停止した人間たちが工場で働き続ける不気味な機械音のように、単調なリズムを刻み続けている。
七海悠太は、自分の脳が薬物によって強制的に「幸福」を感じさせられていたという悍ましい事実に打ちのめされ、冷たいコンクリートの床に這いつくばったまま、ガタガタと小刻みに震えていた。
「……皆さん、三流のディストピア小説のような絶望に浸るのはやめていただきたい。社会システムというものは、そんな単純な洗脳だけでひっくり返るほど脆くはありません」
極限の閉塞感を切り裂くように、氷室司の冷徹な声が響いた。
氷室は、長机の上に置かれた冷え切ったブラックコーヒーの紙コップを手に取り、静かに一口啜る。
彼は懐からマイクロファイバーの布を取り出し、銀縁眼鏡のレンズを執拗なまでに磨き上げると、手元の最新型タブレットを厳かにスワイプした。
「御子柴さんや轟さんの言う通り、巨大企業がインフラを買い占め、国民を薬物で依存させた段階まではデータとして想定しましょう。……ですが、それがイコール【国家の乗っ取り】には絶対になり得ない。なぜなら、企業には国家としての『三つの絶対条件』が欠けているからです」
氷室の細い指先がタブレットのキーボードを激しく叩き、巨大モニターに「主権」「警察・軍隊(暴力の独占)」「徴税権」という三つの巨大な文字が青白く投射された。
「企業は法律を作れません。企業は国民を逮捕する警察権を持っていません。そして何より、企業は強制的に税金を徴収する権利を持たない。……いかに巨大な富を持とうとも、メガファーマが暴走すれば、最後は【日本政府】が動きます。薬機法違反、独占禁止法、あるいは国家反逆罪。……警察や自衛隊といった『物理的な国家権力』が介入すれば、ただの一企業など数日で解体されるんですよ!」
データと法学に基づく、氷室の強靭な論理の盾。
企業はあくまで企業に過ぎない。国家という巨大な暴力装置の前では、いかなる謀略も最後は法によって裁かれるという絶対的な反論。
しかし。
その言葉を聞いた轟大吾は、呆れたように低く、重い溜息を吐き出した。
轟は、分厚い両腕を組み、黒のタクティカルジャケットの背中をギュッと軋ませながら、氷室を鋭く睨みつけた。
「……氷室。お前は『六法全書』というただの紙切れしか見ていない。軍事や武力の根幹を支えている【生身の人間】の構造を知らないから、そんな暢気なことが言えるんだ」
「生身の人間……? 国家権力を行使する公務員のことですか」
氷室が怪訝な表情を浮かべる。
「そうだ。氷室、お前は政府や警察が、企業を取り締まってくれると信じているようだが……その【警察官や自衛隊員】は、毎日何を食って生きていると思う?」
轟は自らの暗号化端末を長机の上に滑らせ、太い指で画面を操作し、巨大モニターに霞が関の官公庁や、全国の警察署への「万能グミの納入記録」を割り込ませた。
「これを見てみろ。コスパとタイパを重視する官僚や、激務に追われる警察官たちこそが、最もこの万能グミに依存しているヘビーユーザーだ。……奴らの胃袋もすでにペラペラに萎縮し、脳みそは快楽物質にどっぷり浸かっているんだよ!」
「……っ!! 国家権力の中枢までが、すでにグミの依存症に……!?」
氷室の持つタブレットが、カタカタと震え始めた。
「ああ!!」
轟が、分厚い両手で長机をバンッ!と激しく叩きつけた。
ダンッ!!という音が、地下室の空気を激しく震わせる。
「法を執行する人間が、企業から配られる餌なしでは生きられない体になっているんだ! 警察がメガファーマの社長に手錠をかけようとした瞬間、『明日からお前らへのグミの出荷を停止する』と言われたらどうなる!? 暴動を起こす前に、国家権力そのものが【餓死と禁断症状】で全滅するんだよ!! 銃や法律なんて、胃袋を握られた兵士の前では何の役にも立たねえ!!」
「……っ!! 国家の暴力装置の、完全な無力化……!」
氷室の顔面から、スッと血の気が引いていく。
「ええ、主権という概念の【パラダイムシフト】ね」
密室の淀んだ空気を撫でるように、烏丸玲奈の艶やかな声が響いた。
彼女は黒いヒールを鳴らしてゆっくりと立ち上がり、長い黒髪を指先でなぞりながら、モニターに映る官公庁の納入記録をうっとりと見つめた。
「氷室さん。中世のヨーロッパにおいて、王様よりもはるかに強い権力を持っていたのは誰か分かるかしら? ……それは『教会(神)』よ。なぜなら、死後の魂の救済という、人間にとって最も恐ろしい【命のパスポート】を握っていたから」
烏丸は、透き通るような白い指先をそっと伸ばし、自分の柔らかな唇を撫でた。
「現代において、その神の座に成り代わったのが巨大企業よ。彼らは法律を作らなくてもいい。ただ『万能グミを配る権利』を独占するだけで、王様も、警察も、すべての国民も、彼らの前にひざまずくしかない。……実質的な国家の主権は、すでに議事堂から企業の役員室へと完全に移行しているのよ」
「ククク……ハハハハハ!!!」
突如、長机の奥から地鳴りのような笑い声が爆発した。
特務考察機関サイファーのリーダー、御子柴健だ。
彼はよれよれのスーツのポケットから両手を引き抜くと、ジッポライターを取り出し、カチン、と火をつけた。
深く吸い込んだ紫煙を天井に吐き出しながら、彼はギラギラと血走った目でホワイトボードの前に飛び出した。
「見事だ、轟! 烏丸! これで帝国メガファーマと大日本製菓が、日本政府を完全に形骸化させ、自らが新しい神となるための【最終形態】が完全に暴かれたぜ!!」
御子柴は黒のマーカーを掴み、ホワイトボードに書かれていた『日本政府』という文字を激しいバツ印で消し去った。
そして、その横に巨大な文字で『【企業国家】』と書き殴った。
ダンッ!!と叩きつける激しい音が、窓のない密室に鳴り響く。
「氷室! お前はさっき、企業には徴税権がないと言ったな! 違う!! 奴らはわざわざ面倒な税金なんて集めねえんだよ!!」
御子柴の血走った眼光が、密室の全員を射抜いた。
「考えてもみろ!! 誰も普通の飯を食えず、グミなしでは死んでしまう体になっているんだ! だったら、企業はどうやって国民から富を搾り取る!? ……簡単だ!! あの五百円の万能グミの値段を、少しずつ、少しずつ【値上げ】していけばいいんだよ!!!」
「……っ!! グミの価格操作そのものが、税金の代わりになる……!?」
氷室がタブレットを握りしめ、立ち上がる。
「そうだ!!」
御子柴が悪魔のような笑みを浮かべて、最悪の仮説を咆哮する。
「所得税も消費税もいらねえ!! 国民は生きていくために、企業が設定した言い値でグミを買い続けるしかない! 払えなければ物理的に餓死するだけだ!! 奴らは【命の値段】を操作することで、一億人の国民が稼いだ金を、合法的に、一円残らず吸い上げるシステムを完成させたんだよ!!!」
「ああっ……! ああああああっ……!!」
七海悠太が、両手で自分の頭を強く抱え込み、床の上でのたうち回った。
「えっ、それってつまり……! 俺たちはもう、日本っていう国に住んでるんじゃなくて……メガファーマっていう【巨大な会社が飼ってるペットのケージ】の中に閉じ込められてるのと同じってことですか……!?」
七海の脳裏に、悍ましい光景がフラッシュバックする。
国会は閉鎖され、総理大臣は消え去り、巨大企業のCEOがテレビ画面から国民に労働のノルマを言い渡す世界。
逆らう者は逮捕されるのではない。ただ、スマホの「グミ購入アカウント」を【凍結】されるだけだ。アカウントを凍結された者は、数日後、ペラペラの胃袋を抱えて暗い部屋の片隅で静かに餓死していく。
「ふざけんな……! 選挙で政治家を選ぶこともできない! 法律で守ってもらうこともできない! 会社に逆らったら、その瞬間に【飢え死にの死刑判決】が下る国になっちまうって言うのかよおおおっ!!」
徴税権も、警察権も、すべてが「生命の維持」という一つのボタンに集約された絶対的な支配。
政府という名の旧時代のシステムは消滅し、冷徹なアルゴリズムと株主の利益だけが国民の生殺与奪を握る【企業国家】の誕生。
「【な、何だって言うんだァァァーーーッ!?】」
七海悠太の魂を引き裂く悲鳴が、窓のない第4会議室のコンクリートの壁に虚しく反響する。
無機質な空調のモーター音は、まるで日本という民主主義国家が完全に息の根を止められ、冷徹な巨大企業のサーバーへとその権力が移行していく不気味な産声のように、一段と冷酷に地下室に響き渡っていた。




