表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
7/10

■ 第7話:快楽物質の罠と、従順なる「家畜」たち

 窓一つない地下の第4会議室は、巨大企業が仕掛けたインフラの意図的な暴落と、日本という国家を丸ごと買い叩くという絶望的なクーデターの全貌によって、まるで酸素を抜かれたような極限の息苦しさに沈んでいた。

 無機質な空調のモーター音が、ジジッ……ジジッ……と、国家が静かに解体されていくカウントダウンのように、不気味なリズムを刻み続けている。

 七海悠太は、自分たちが便利だと思って買っていたグミが、実は親の世代から土地と仕事を奪い取るための「罠の資金」になっていたという事実に打ちのめされ、パイプ椅子にうずくまったままピクリとも動けずにいた。

「……皆さん、少し冷静になりましょう。あまりにも【人間の本性】という変数を無視しすぎている」

 極限の恐怖を切り裂くように、氷室司の冷徹な声が響いた。

 氷室は、長机の上に置かれた冷え切ったブラックコーヒーの紙コップを手に取り、一気に飲み干した。

 彼は懐からマイクロファイバーの布を取り出し、銀縁眼鏡のレンズを執拗なまでに磨き上げると、手元の最新型タブレットを厳かにスワイプした。

「御子柴さんたちの仮説通り、もし巨大企業が意図的にインフラを破壊し、国民から財産と仕事を奪い取ったとしましょう。……ですが、歴史上のデータを見れば、経済的な剥奪が平和裏に終わった例など一つもありません」

 氷室の細い指先がタブレットのキーボードを激しく叩き、巨大モニターに、過去のフランス革命やアラブの春といった、民衆蜂起の暴動データが青白く投射された。

「人間は、明日食うための仕事を奪われれば必ず怒る。農地を奪われた農民はクワを持って立ち上がり、職を失った労働者は街を焼き払う! これが歴史が証明している社会学的な【絶対法則】です。……メガファーマがいかに強大だろうと、一億人の暴徒を鎮圧することなど不可能です。企業による完全支配など、国民の【怒り】の前に必ず崩壊するんですよ!」

 データと歴史の法則に基づく、氷室の強靭な論理の盾。

 どれだけ巧妙にシステムを乗っ取ろうと、人間から「怒り」という感情までは奪えない。だからこそ、完全なる奴隷化は成立しないという絶対的な反論。

 しかし。

 その言葉を聞いた轟大吾は、分厚い両腕を組み、タクティカルジャケットの背中をギュッと軋ませながら、地を這うような低い声で唸った。

「……氷室。お前は『過去の暴動のデータ』しか見ていない。今の外の現実を見てみろ。インフラが壊死し始めているのに、なぜこの国では【一つの暴動も起きていない】んだ?」

「それは……まだ完全な恐慌状態には至っていないからです」

 氷室が眉をひそめて答える。

「違う。暴動の火種である『怒り』そのものが、すでに国民から【物理的に消去】されているからだ」

 轟は長机の上に自らの暗号化端末を叩きつけるように置くと、太い指で画面を操作した。

「俺も最初は、満腹感による欲求不満の解消だけだと思っていた。だが、それだけにしては若者たちの反応が異常すぎる。……氷室、お前のそのタブレットで、万能グミの成分表にある『香料』や『pH調整剤』の項目を、ダークウェブのデータベースと照合して【分子レベルまで徹底的に分解解析】してみろ」

「……成分表の、裏解析ですか?」

 氷室は訝しげにタブレットを操作し、グミの成分データを軍事用の解析アルゴリズムに通した。

 数秒後。

 巨大モニターに映し出されていた暴動の歴史データが消え、代わりに、幾何学的な六角形が連なる複雑な【化学式の3Dモデル】が投射された。

「……っ!? な、何だこの分子構造は……!?」

 氷室の銀縁眼鏡の奥で、かつてないほどの戦慄が走った。

 彼はタブレットを握りしめたまま、信じられないものを見るように立ち上がった。

「これは……ただの香料じゃない。脳内のドーパミン受容体に直接結合し、強制的にセロトニンを分泌させる……【非合法スレスレの合成向精神薬ケミカル】の構造式と完全に一致している……!!」

「……っ!! 向精神薬が、お菓子の中に……!?」

 七海が、弾かれたように顔を上げた。

「ああ!!」

 轟が、分厚い両手で長机をバンッ!と激しく叩きつけた。

 ダンッ!!という音が、地下室の空気を震わせる。

「氷室! お前が言った通り、人間は仕事を奪われれば怒る生き物だ! だが、もしその人間が毎日、微量の【強烈な多幸感ユーフォリアをもたらす麻薬】を口にしていたらどうなる!?」

 轟の鋭い眼光が、巨大モニターの化学式を睨みつける。

「どんなに理不尽な目に遭っても、どんなに将来が絶望的でも! 一粒のグミを口に入れるだけで、脳が強制的に『俺は今、めちゃくちゃ幸せだ』と錯覚しちまうんだ!! 怒る気力も、悲しむ感情も、すべてが【人工的な快楽】によって塗り潰される!! これが、帝国メガファーマが仕掛けた最悪の洗脳ドラッグの正体なんだよ!!」

「……っ!! 怒りを去勢するための、強制的な多幸感……!」

 氷室の顔面から、完全に血の気が引いていく。

「ええ、まさに神話の再現ね」

 密室の淀んだ空気を撫でるように、烏丸玲奈の艶やかな声が響いた。

 彼女は黒いヒールを鳴らしてゆっくりと立ち上がり、長い黒髪を指先でなぞりながら、モニターに映る化学式をうっとりと見つめた。

「氷室さん。ギリシャ神話に登場する『ロトファゴス(蓮を食う人々)』の島を知っているかしら? ……その島に咲く甘い花を食べた者は、故郷に帰るという目的も、過去の怒りもすべて忘れ去り、ただヘラヘラと笑いながら、永遠にその島で花を貪り食うだけの存在になってしまうの」

 烏丸は、透き通るような白い指先をそっと伸ばし、机の上に転がる万能グミのパッケージを撫でた。

「人間にとって、適度な『不幸』や『飢え』は、現状を打破するための【魂の起爆剤】よ。でも、このグミは違う。たった五百円で、どんな人間にも完璧な天国ヘヴンを与えてしまう。……一度この安っぽい天国の味を知ってしまった人間は、二度と辛い現実に立ち向かって、泥まみれで戦おうなんて思わなくなるわ」

 烏丸はふふっ、と妖しく微笑み、会議室の全員を見回した。

「彼らは国を奪われているんじゃない。自分から喜んで、この甘くてカラフルな【精神の牢獄】の中に閉じこもりにいっているのよ」

「ククク……ハハハハハ!!!」

 突如、長机の奥から地鳴りのような笑い声が爆発した。

 特務考察機関サイファーのリーダー、御子柴健だ。

 彼はよれよれのスーツのポケットから両手を引き抜くと、ジッポライターを取り出し、カチン、と火をつけた。

 深く吸い込んだ紫煙を天井に吐き出しながら、彼はギラギラと血走った目でホワイトボードの前に飛び出した。

「見事だ、氷室! 轟! 烏丸! これで奴らが、暴動を一切起こさずに一億人の国民を奴隷にする、【究極の愚民化政策】の全貌が完全に暴かれたぜ!!」

 御子柴は黒のマーカーを掴み、ホワイトボードの中央に『怒り』『反逆』『思考』と書き、それらを赤のマーカーで激しく塗り潰した。

 そして、その上に大きく『【幸福な家畜】』と書き殴った。

 ダンッ!!と叩きつける激しい音が、窓のない密室に鳴り響く。

「氷室! お前はさっき、暴動が起きると言ったな! 違う!! 誰も怒りなんてしねえんだよ!!」

 御子柴の血走った眼光が、密室の全員を射抜いた。

「考えてもみろ!! 自分の家が奪われても! 企業から虫ケラのようにこき使われても! 休憩時間に支給されるグミを噛んだ瞬間、脳内麻薬がドバドバ出て『あー、今日も最高の一日だ』ってヘラヘラ笑うんだ!!」

 御子柴が悪魔のような笑みを浮かべて、最悪の仮説を咆哮する。

「ムチで叩いて働かせる時代はもう終わった!! これからの支配者は、奴隷に【快楽】を与えてコントロールするんだ! 国民は自分が搾取されていることすら気づかず、国が乗っ取られていく惨状を見ながら、幸福感に満ちた笑顔で拍手を送るんだよ!!!」

「ああっ……! ああああああっ……!!」

 七海悠太が、両手で自分の頭を強く抱え込み、床の上でのたうち回った。

「えっ、それってつまり……! 俺が最近、嫌なことがあっても『まあいいか』ってヘラヘラ笑ってられたのは、俺の性格が丸くなったんじゃなくて……!」

 七海の脳裏に、悍ましい光景がフラッシュバックする。

 焼け野原になった日本。すべてを巨大企業に奪われ、ボロボロの服を着て強制労働させられている若者たち。

 だが、彼らの顔には絶望はない。誰もが口元をモチャモチャと動かしながら、焦点の合わない目で、狂ったような【満面の笑み】を浮かべているのだ。

「俺の脳みそは……! このグミに入ってるヤバい薬のせいで、国がめちゃくちゃにされてるのに、無理やり【ハッピーな気分】にさせられてたって言うのかよ!!」

 ただ便利なお菓子だと思っていた。

 しかしそれは、人間の「怒り」を強制的に去勢し、永遠に逆らえない笑顔の奴隷を作り出すための、最悪のケミカル兵器だったのだ。

「ふざけんな……! 悲しい時に泣くことも、ムカつく時に怒ることも許されない……! ただ企業の都合のいいように、死ぬまで笑い続けるだけの【家畜】に改造されてたって言うのかよおおおっ!!」

 人工的な快楽による、完全なる精神の支配。

 それは、暴力による弾圧よりも遥かに残酷な、人間の魂そのものを根絶やしにするディストピアの完成だった。

「【な、何だって言うんだァァァーーーッ!?】」

 七海悠太の魂を引き裂くような絶叫が、窓のない第4会議室のコンクリートの壁に虚しく反響する。

 長机の上に転がる、ポップで色鮮やかな万能グミのパッケージ。

 無機質な空調のモーター音は、まるで一億人の国民が自らの意志を失い、ただヘラヘラと笑いながら工場で働き続ける不気味な足音のように、低く、重苦しく、彼らの頭上で鳴り響いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ