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■ 第6話:仕組まれた恐慌と、インフラの買い叩き

 窓一つない地下の第4会議室は、たった五百円の万能グミが日本の全食品インフラを崩壊させる「兵糧攻め」の道具であるという絶望的な仮説により、深い泥の底のような重苦しい沈黙に支配されていた。

 無機質な空調のモーター音が、ジジッ……ジジッ……と、国家の血流が止まっていくカウントダウンのように、単調なリズムを刻み続けている。

 七海悠太は、実家の小さな八百屋が巨大企業に緩やかに殺されていくビジョンに打ちのめされ、パイプ椅子から床に崩れ落ちたまま、両手で自分の頭を抱え込んでいた。

「……感情に流されるのは三流の証拠ですよ、七海くん。起き上がって、しっかりとデータを見なさい」

 極限の閉塞感を切り裂くように、氷室司の冷徹な声が響いた。

 氷室は、長机の上に置かれた冷え切ったブラックコーヒーの紙コップを手に取り、静かに一口啜る。

 彼は懐からマイクロファイバーの布を取り出し、銀縁眼鏡のレンズを執拗なまでに磨き上げると、手元の最新型タブレットを厳かにスワイプした。

「御子柴さん、轟さん。あなた方の言う『兵糧攻め』によって、日本の農業や物流が連鎖倒産するというシミュレーションは、確かに一部の局地的なデータとしては起こり得るでしょう。……ですが、それを巨大製薬企業が【意図的に仕組んだ】とするのは、資本主義の根本的なルールを完全に無視した飛躍です」

 氷室の細い指先がタブレットを滑り、巨大モニターに「帝国メガファーマの売上高推移」と「日経平均株価の連動グラフ」が青白く投射された。

「企業は利益を追求する生き物です。もし彼らのグミが日本の巨大な食品インフラを破壊し、大量の失業者を生み出せば、どうなるか? 当然、日本経済は未曾有の大恐慌に陥り、円の価値は暴落します。……帝国メガファーマの売上の大半は国内市場です。日本という国家が経済的に死滅すれば、彼ら自身も【共倒れ】になってしまう」

 氷室は、勝ち誇ったようにレーザーポインターで暴落のシミュレーショングラフを指し示した。

「自分の乗っている船の底に、自ら穴を空けるような真似をする馬鹿な経営者はいません。彼らはただ、新しい商品を売って利益を出したいだけです。国家を崩壊させるなんて、彼らにとって何の経済的メリットもない【完全な自殺行為】なんですよ」

 データとマクロ経済に基づく、氷室の強靭な論理の盾。

 国が滅びれば、企業も滅びる。ゆえに、国家転覆を企む理由など存在しないという絶対的な反論。

 しかし。

 その言葉を聞いた轟大吾は、呆れたように低く、重い溜息を吐き出した。

 轟は、分厚い両腕を組み、黒のタクティカルジャケットの背中をギュッと軋ませながら、氷室を鋭く睨みつけた。

「……氷室。お前は『平時の経済学』しか学んでいない。軍事や諜報の世界で、資本主義が最も牙を剥く【最悪のフェーズ】を知らないから、そんな暢気なことが言えるんだ」

「最悪のフェーズ……? 何を言っているんですか、轟さん」

 氷室が怪訝な表情を浮かべる。

「軍事用語で【ショック・ドクトリン(惨事便乗型資本主義)】という言葉を知っているか?」

 轟は自らの暗号化端末を長机の上に滑らせ、太い指で画面を操作し、巨大モニターに複雑な資金洗浄マネーロンダリングの経路図と、海外のペーパーカンパニーのリストを割り込ませた。

「戦争、テロ、大災害。あるいは人為的に引き起こされた大恐慌。国家がパニックに陥り、経済がメチャクチャになったその瞬間こそが、巨大なハゲタカ資本にとっての【最大の狩場】になるんだ」

 轟が、分厚い両手で長机をバンッ!と激しく叩きつけた。

 ダンッ!!という音が、地下室の空気を激しく震わせる。

「これを見てみろ。帝国メガファーマと大日本製菓の役員たちは、この一年間で自社株の大半を極秘裏に売り抜け、莫大な資金を【外貨】や【ゴールド】に変えて、海外のダミー会社にプールしている。……奴らは最初から、日本円が暴落することを見越して、安全圏に資産を逃がしているんだよ!」

「……っ!! 自国の通貨を見捨てて、外貨を溜め込んでいる……!?」

 氷室の持つタブレットが、カタカタと震え始めた。

「ああ!! そして奴らは、外貨という絶対的な力を持ったまま、万能グミの流行によって焼け野原になった日本に戻ってくる! 何のためにか分かるか!?」

 轟の鋭い眼光が、巨大モニターのリストを睨みつける。

「連鎖倒産で価値がゼロになった全国の広大な農地! 倒産した運送会社のトラックや巨大倉庫! そして、誰もいなくなった港湾施設!……奴らは、国家のインフラというインフラを、底値でタダ同然に【買い叩く】ために、意図的にこの恐慌を仕掛けたんだよ!!」

「……っ!! インフラの、意図的な暴落と買い占め……!」

 氷室の顔面から、スッと血の気が引いていく。

「ええ、まさに現代の『エンクロージャー(囲い込み)』ね」

 密室の淀んだ空気を撫でるように、烏丸玲奈の艶やかな声が響いた。

 彼女は黒いヒールを鳴らしてゆっくりと立ち上がり、長い黒髪を指先でなぞりながら、モニターに映るダミー会社のリストをうっとりと見つめた。

「氷室さん。18世紀のイギリスで起きた、第一次産業革命の裏側の歴史を知っているかしら? ……時の権力者や資本家たちは、農民たちが共有していた土地を暴力的に『囲い込み』、彼らから耕す場所を完全に奪い取ったわ」

 烏丸は、透き通るような白い指先をそっと伸ばし、自分の柔らかな唇を撫でた。

「土地を奪われた農民たちはどうなったか? 食べるために、資本家が建てた劣悪な工場で、文句一つ言わずに働く【賃金奴隷】になるしかなかった。……資本家にとって一番邪魔なのは、自分で自分の食い扶持を稼げる『自立した人間』なのよ」

 烏丸はふふっ、と妖しく微笑み、会議室の全員を見回した。

「巨大企業が本当に欲しいのは、一時の売上なんかじゃない。大地そのものを独占し、国民から『生きるための手段』をすべて剥奪すること。……彼らは、日本という国を丸ごと自分の所有地にして、一億人の国民を中世の【農奴】に引きずり下ろそうとしているのよ」

「ククク……ハハハハハ!!!」

 突如、長机の奥から地鳴りのような笑い声が爆発した。

 特務考察機関サイファーのリーダー、御子柴健だ。

 彼はよれよれのスーツのポケットから両手を引き抜くと、ジッポライターを取り出し、カチン、と火をつけた。

 深く吸い込んだ紫煙を天井に吐き出しながら、彼はギラギラと血走った目でホワイトボードの前に飛び出した。

「繋がったぜ!! 氷室、轟、烏丸! 帝国メガファーマと大日本製菓が手を組んだ、【国家転覆のマスタープラン】の全貌が完全に暴かれたぜ!!」

「マスタープラン……!?」

 氷室がタブレットを握りしめ、立ち上がる。

「そうだ!! 氷室、お前はさっき、自分の船に穴を空ける馬鹿はいないと言ったな! 違う!! 奴らは船を沈めようとしているんじゃない!!」

 御子柴は黒のマーカーを掴み、ホワイトボードの中央に巨大な『日本政府』という文字を書き、その上にさらに巨大な『企業』という文字を覆い被せるように書き殴った。

 ダンッ!!と叩きつける激しい音が、窓のない密室に鳴り響く。

「奴らは、今の『日本』という古い船の乗組員を全員海に突き落とし、船そのものを【自社の所有物プライベート・シップ】として完全に乗っ取ろうとしているんだよ!!」

 御子柴の血走った眼光が、密室の全員を射抜いた。

「考えてもみろ!! 倒産した全国の農地を買い占め、物流のトラックを買い占め、港や倉庫の権利をすべて巨大製薬企業が握ったらどうなる!? 政治家が法律を作ろうが、警察が動こうが関係ねえ!!」

 御子柴が悪魔のような笑みを浮かべて、最悪の仮説を咆哮する。

「道を歩く権利も、食べ物を口にする権利も、すべて【企業の許可】がなければ何もできない国になるんだ! 政府なんてものはただの飾りになり下がり、物理的な国土をすべて買い占めたメガファーマこそが、この国の【絶対的な独裁者】として君臨するんだよ!!!」

「ああっ……! ああああああっ……!!」

 七海悠太が、両手で自分の頭を強く抱え込み、床の上でのたうち回った。

「えっ、それってつまり……! 万能グミの流行は、ただのきっかけに過ぎなくて……本当の目的は、俺たちの親が持ってる土地とか、仕事の道具とかを、全部タダ同然で企業に【奪い取らせるための罠】だったってことですか……!?」

 七海の脳裏に、悍ましい光景がフラッシュバックする。

 借金で首が回らなくなった実家の八百屋が、見知らぬスーツを着たメガファーマの社員に二束三文で買い叩かれる。

 そして、その日から両親は自分たちの店を奪われ、企業から支給される「万能グミ」を齧りながら、企業の指示通りに働くただの奴隷へと身を落とすのだ。

「ふざけんな……! 俺たちは、便利だと思ってグミにお金を払ってたのに……そのお金で、自分たちの国を【乗っ取られるためのロープ】を編まされてたって言うのかよおおおっ!!」

 仕組まれた恐慌。意図的なインフラの破壊。

 それは、暴力や武力を一切使わずに、国民自身の経済活動を利用して国家を内部から食い破る、完璧な【ステルス・クーデター】だった。

「【な、何だって言うんだァァァーーーッ!?】」

 七海悠太の魂を引き裂く悲鳴が、窓のない第4会議室のコンクリートの壁に虚しく反響する。

 無機質な空調のモーター音は、まるで日本という国家の心臓が巨大企業の手によって静かに、そして完全に買い叩かれていく不気味な動作音のように、一段と冷酷に地下室に響き渡っていた。

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