■ 第5話:インフラの枯渇と、見えざる「兵糧攻め」
窓一つない地下の第4会議室は、もはや紫煙の匂いすらも重苦しい毒気のように感じられるほどの、極限の閉塞感に支配されていた。
無機質な空調のモーター音が、ジジッ……ジジッ……と、日本中の胃袋が萎縮していく不気味なカウントダウンのように鳴り響いている。
万能グミへの依存が、自らの内臓を物理的に退化させ、二度と普通の食事を摂れない【ひ弱なプランクトン】へと肉体を改造する恐るべき罠であるという真実。
七海悠太は、パイプ椅子から床に転げ落ちたまま、自分の薄っぺらくなった腹部を両手で必死にさすり、ガタガタと小刻みに震え続けていた。
「……落ち着いてください、七海くん。あなたの胃腸の不調は、単に固形物を長期間避けたことによる一時的な機能低下に過ぎません。少しずつお粥などの流動食からリハビリを始めれば、必ず元の状態に戻ります」
極限の恐怖を切り裂くように、氷室司の冷徹な声が響いた。
氷室は、長机の上に置かれたマイボトルから冷え切ったブラックコーヒーを注ぎ足し、一口啜る。
彼は懐からマイクロファイバーの布を取り出し、銀縁眼鏡のレンズを執拗なまでに磨き上げると、手元の最新型タブレットをスワイプした。
「御子柴さん、轟さん。一部の若者が過度にグミに依存し、健康被害を出していることまではデータとして認めましょう。……ですが、それが日本という国家を揺るがすほどの【兵糧攻め】に発展するなど、経済学の基本を完全に無視した妄想です」
氷室の細い指先がタブレットを滑り、巨大モニターに日本地図と、巨大な円グラフからなる「国内食品産業の市場規模」が青白く投射された。
「日本の『食』に関わる産業……農業、漁業、食品加工、物流、そして外食産業を合わせた市場規模は、年間で約100兆円にも上ります。これは国家の基幹産業であり、政府も莫大な補助金を出して手厚く保護している。……たかが一企業の販売する五百円のグミが、この巨大な経済圏を破壊できるわけがない。若者がグミしか食べなくなっても、富裕層や高齢者は高級な食材を求め続け、市場は【二極化】して存続するだけです」
氷室は、勝ち誇ったようにレーザーポインターで円グラフの巨大なパイを指し示した。
「資本主義の回復力を舐めないでいただきたい。市場は常にバランスを取る。グミの流行は、食品産業全体から見れば、ごく一部の『ニッチな代替食』のパイを奪ったに過ぎないんですよ」
データとマクロ経済に基づく、氷室の強靭な論理の盾。
100兆円の巨大産業が、たかが一種類のお菓子の流行で崩壊することなどあり得ない。
しかし。
その言葉を聞いた轟大吾の巨体は、呆れたように低く、重い溜息を吐き出した。
轟は、分厚い両腕を組み、黒のタクティカルジャケットの背中をギュッと軋ませながら、氷室を鋭く睨みつけた。
「……氷室。お前は『円グラフの面積』しか見ていない。兵站……すなわち物流の現場が、どれほど脆く、繊細なバランスの上に成り立っているかを知らないから、そんな暢気なことが言えるんだ」
「物流のバランス……? どういうことです、轟さん」
氷室が怪訝な表情を浮かべる。
「軍の補給線でも同じだが、システム全体を崩壊させるのに、需要をゼロにする必要なんてないんだよ」
轟は自らの暗号化端末を長机の上に滑らせ、巨大モニターに「全国のコールドチェーン(低温物流網)」と「卸売市場の稼働率」を示す真っ赤な警告データを割り込ませた。
「氷室、生鮮食品を運ぶ保冷トラックの利益率を知っているか? 非常に薄利多売だ。トラックの荷台が常に『80パーセント以上』埋まっていなければ、赤字で走ることになる。……もし、若者たちが一斉にグミに移行し、スーパーでの食品需要がたった【30パーセント】落ち込んだらどうなると思う?」
「需要が3割減る……利益が下がるのは当然ですが、事業は継続できるはずです」
氷室がタブレットのキーボードを叩きながら答える。
「継続できないんだよ!!」
轟が、分厚い両手で長机をバンッ!と激しく叩きつけた。
ダンッ!!という音が、地下室の空気を震わせる。
「需要が3割減れば、トラックの積載率は採算ラインを割り込む! 運送会社は赤字路線から次々と撤退し、地方のスーパーには食材が届かなくなる! 食材が届かなければスーパーは潰れ、出荷先を失った農家や漁師も、連鎖的に首を括るしかなくなるんだ!!」
轟の鋭い眼光が、巨大モニターの赤い日本地図を睨みつける。
「巨大なインフラはな、一部でも歯車が欠ければ全体が【ドミノ倒し】のように崩壊するんだ! グミの流行によって減ったたった3割の需要が、日本の食を支える『血液』である物流を完全に止めてしまう! ……氷室、お前の言う100兆円の市場は、今まさに末端の毛細血管から壊死し始めているんだよ!!」
「……っ!! 物流の採算割れが引き起こす、インフラの連鎖崩壊……!」
氷室の顔面から、スッと血の気が引いていく。
「ええ、まさに大地の死ね」
密室の淀んだ空気を撫でるように、烏丸玲奈の艶やかな声が響いた。
彼女は黒いヒールを鳴らしてゆっくりと立ち上がり、長い黒髪を指先でなぞりながら、モニターに映る真っ赤な日本地図をうっとりと見つめた。
「氷室さん。古来より、日本の国は『豊葦原瑞穂国』と呼ばれてきたわ。人々が田を耕し、豊かな稲穂を実らせ、神々に感謝を捧げることで、この国は霊的な結界を維持してきたの」
烏丸は、透き通るような白い指先をそっと伸ばし、モニターの日本地図を撫でた。
「でも、人々が土から生まれた命を食べることをやめ、工場で作られた【化学物質の粒】だけを口にするようになったらどうなる?……農地は荒れ果て、秋祭りの太鼓の音も消え、神々は干上がったこの国から去っていくわ」
烏丸はふふっ、と妖しく微笑み、会議室の全員を見回した。
「大地との対話を捨てた国は、もはや国家としての『魂』を失うのよ。万能グミがもたらすのは、単なる経済の崩壊じゃない。日本という国を、ただの無機質なコンクリートの塊へと変えてしまう【国土の完全なミイラ化】なのよ」
「ククク……ハハハハハ!!!」
突如、長机の奥から地鳴りのような笑い声が爆発した。
特務考察機関サイファーのリーダー、御子柴健だ。
彼はよれよれのスーツのポケットから両手を引き抜くと、ジッポライターを取り出し、カチン、と火をつけた。
深く吸い込んだ紫煙を天井に吐き出しながら、彼はギラギラと血走った目でホワイトボードの前に飛び出した。
「見事だ、轟! 烏丸! これで帝国メガファーマと大日本製菓が手を組んで仕掛けた、【史上最悪のクーデター】の全貌が完全に暴かれたぜ!!」
「クーデター……!?」
氷室がタブレットを握りしめ、立ち上がる。
「そうだ!! 氷室、お前はさっき、政府が補助金を出して保護すると言ったな! 違う!! 奴らの狙いはそこなんだよ!!」
御子柴は黒のマーカーを掴み、ホワイトボードの中央に『農業』『漁業』『物流』『外食』と書き、それらを一つの巨大な円で囲んで『国家インフラ』と名付けた。
そして、その円の外側から『万能グミ』という巨大な矢印を突き立て、赤のマーカーで『連鎖倒産』と激しく書き殴った。
ダンッ!!と叩きつける乾いた音が、窓のない密室に鳴り響く。
「奴らの狙いは、ただのシェア争いじゃねえ! 日本の巨大な食品インフラを、意図的に【兵糧攻め】にして完全に干上がらせることなんだ!!」
御子柴の血走った眼光が、密室の全員を射抜いた。
「考えてもみろ!! トラックが止まり、農家が潰れ、スーパーの棚が空っぽになった時! 国民はどうやって生き延びる!?……そう! どこのコンビニにも大量に積まれている、あの【万能グミ】を食って飢えを凌ぐしかなくなるんだよ!!!」
「……っ!! 既存のインフラを破壊し、自社の製品を『唯一の生命線』にする……!」
轟が、顔面を蒼白にしながら呻いた。
「そうだ!! これこそが軍事における最強の侵略だ!! ミサイルなんて一発も撃たねえ! 銃弾の一発も使わねえ!!」
御子柴が悪魔のような笑みを浮かべて、最悪の仮説を咆哮する。
「たった五百円の甘いお菓子を社会にばら撒くだけで、国民は自ら進んで既存のインフラを切り捨てていく! 政府がどれだけ補助金を出そうが、需要そのものが消滅した産業は絶対に助からねえ!! 奴らは、国民自身の【効率化という欲望】を利用して、日本という国家を内側から食い破らせているんだよ!!!」
「ああっ……! ああああああっ……!!」
七海悠太が、両手で自分の頭を強く抱え込み、床の上でのたうち回った。
「俺……! 俺の実家、田舎でちっちゃな八百屋やってるんだ……!!」
七海の脳裏に、悍ましい光景がフラッシュバックする。
誰も野菜を買いに来なくなったシャッター通り。野菜を運ぶトラックが途絶え、廃棄されていく泥だらけの大根。そして、借金まみれで店を畳み、絶望の表情を浮かべる両親の姿。
「俺が! タイパがいいとか言って、安くて美味いグミをモチャモチャ食ってたその裏で……! 俺の親や、日本の食べ物を作ってくれてる人たちが、どんどん首を絞められて殺されてたって言うのかよ……!!」
一粒のグミは、ただの菓子ではない。
それは、日本の農地を枯らし、物流のトラックを止め、あらゆる食の産業を焼き尽くすための、不可視の焼夷弾だった。
「俺たちは……自分たちの国を! 自分たちの手で、ただの【死んだコンクリートの砂漠】に作り変える手伝いをさせられてたって言うのかよおおおっ!!」
便利さの裏で進行する、究極の焦土作戦。
巨大企業による無血の兵糧攻めが、日本という国家の心臓を、確実に握り潰そうとしていた。
「【な、何だって言うんだァァァーーーッ!?】」
七海悠太の魂を引き裂く悲鳴が、窓のない第4会議室の壁に叩きつけられた。
無機質な空調のモーター音は、まるで日本中の食卓から火が消え、生命の営みが完全に停止していく冷酷な通知音のように、低く、重苦しく、地下室に響き渡っていた。




