■ 第4話:消化器官の退化と、不可逆の「依存」
窓一つない地下の第4会議室は、たった一粒のグミが人間社会のコミュニティを破壊する分断兵器であるという事実によって、まるで真空地帯のような息苦しさに包まれていた。
無機質な空調のモーター音が、ジジッ……ジジッ……と、孤立していく人々の孤独な鼓動のように、冷たく、単調なリズムを刻み続けている。
自分がいつの間にか、誰とも食事を共にしない「孤独なバケモノ」に成り果てていたことに気づいた七海悠太。彼はパイプ椅子の上で膝を抱え込み、長机の上に転がる万能グミのカラフルなパッケージから、怯えたように目を逸らしていた。
「……皆さん、社会学的な感傷に浸るのは勝手ですが、生物学的な【事実】を見失わないでいただきたい」
極限の静寂を切り裂くように、氷室司の冷徹な声が響いた。
氷室は、長机の上に置かれた冷え切ったブラックコーヒーの紙コップを手に取り、静かに一口啜る。
彼は懐からマイクロファイバーの布を取り出し、銀縁眼鏡のレンズを執拗なまでに磨き上げると、手元の最新型タブレットをスワイプした。
「御子柴さんや烏丸さんは、食事の時間が失われることをディストピアのように語る。ですが、医学的・栄養学的なデータから見れば、この万能グミは人類の肉体を『次のステージ』へと進化させる、極めて合理的な【生命維持装置】です」
氷室の細い指先がタブレットを滑り、巨大モニターに人間の胃腸の透視図と、消化吸収におけるエネルギー消費量のグラフが青白く投射された。
「人間が固形物を食べ、それを胃酸でドロドロに溶かし、腸で栄養を吸収する。……この『消化』というプロセスに、人間の肉体がどれほどの莫大なエネルギーを浪費しているかご存知ですか? 食後に眠くなるのは、血液が胃腸に集中し、脳が酸欠状態に陥るからです。つまり、従来の食事とは、脳のパフォーマンスを著しく低下させる【非効率なバグ】に他ならない」
氷室は、勝ち誇ったようにレーザーポインターでグラフの数値を指し示した。
「しかし、万能グミは違う。すでに分子レベルで細かく分解・最適化された栄養素の塊であるため、胃腸にほとんど負担をかけずに、腸壁から瞬時に吸収される。胃酸を無駄に分泌する必要も、腸が激しく蠕動運動をする必要もない。……消化器官を休ませることで、余ったエネルギーのすべてを『脳』に回すことができる。これこそが、現代人が求めた究極のトランスヒューマニズム(超人間主義)です!」
データと人体生理学に基づく、氷室の強靭な論理の盾。
消化という無駄な労働から肉体を解放し、人間をより高度な知的生命体へと引き上げるための魔法のグミ。
しかし。
その言葉を聞いた轟大吾の顔つきは、岩のように険しく強張ったままだった。
轟は、分厚い両腕を組み、黒のタクティカルジャケットの背中をギュッと軋ませながら、地を這うような低い声で唸った。
「……氷室。お前は『正常に動いている機械』のデータしか見ていない。軍事医療の現場で、その『消化器官を休ませる』という行為が、どれほど致命的な【肉体の崩壊】を招くかを知らないから、そんな暢気なことが言えるんだ」
「肉体の、崩壊……? 何を言っているんですか、轟さん」
氷室が怪訝な表情を浮かべる。
「軍の特殊部隊で、長期間の潜入任務に就く兵士のために、過去に『完全流動食』だけを摂取させる実験が行われたことがある。消化の負担を減らし、排泄を最小限に抑えるためだ。……だが、そのプロジェクトはわずか半年で【完全凍結】された」
轟は長机の上に自らの暗号化端末を叩きつけるように置くと、太い指で画面を操作し、別の極秘医療カルテの束を巨大モニターに割り込ませた。
そこには、万能グミを発売日から毎日欠かさず常食し続けている若者たちの、匿名化された「緊急搬送データ」が赤々と点滅していた。
「これを見てみろ。最近、都内の救急救命センターに、10代から20代の若者が連日のように運び込まれている。症状は激しい嘔吐、激痛を伴う腸閉塞、そして重度の胃痙攣だ。……彼らが一体『何』をして病院送りになったか分かるか?」
「何かのウイルス感染ですか? あるいは、グミに毒物が……」
氷室がタブレットを握り直す。
「違う!! 毒を食ったんじゃない!!」
轟が、分厚い両手で長机をドンッ!と激しく叩きつけた。
ダンッ!!という音が、地下室の空気を激しく震わせる。
「彼らはただ、久しぶりに【普通のハンバーグや白米を食べようとしただけ】なんだよ!!」
「……っ!! 普通の食事をして、病院送りに……!?」
氷室の顔面から、スッと血の気が引いていく。
「そうだ!! 氷室、人間の体は『使われない器官』を容赦なく切り捨てる! 半年もの間、グミという消化の必要がないものばかりを胃に流し込み続けた結果、彼らの胃壁はペラペラに萎縮し、強力な胃酸を分泌する機能を完全に失っていた!」
轟の鋭い眼光が、巨大モニターのカルテを睨みつける。
「その弱り切った胃袋に、焼いた肉や油、固い米粒が急に放り込まれたらどうなる!? 胃はそれを消化できず、異物としてパニックを起こし、腸は動力を失って完全に詰まっちまうんだ!! 氷室! お前が『消化器官を休ませる』と絶賛したそのプロセスは、若者たちの内臓を【物理的に退化】させているんだよ!!」
「……っ!! 内臓の、退化……!」
七海が、自分の腹部を両手で強く押さえ込み、パイプ椅子の上でガタガタと震え出した。
「ええ、まさに進化の逆行ね」
密室の淀んだ空気を撫でるように、烏丸玲奈の艶やかな声が響いた。
彼女は黒いヒールを鳴らしてゆっくりと立ち上がり、長い黒髪を指先でなぞりながら、モニターに映る萎縮した胃腸の画像をうっとりと見つめた。
「氷室さん。真っ暗な深海や、光の届かない洞窟に棲む魚たちを知っているかしら? ……彼らには最初から『眼球』がないわ。光のない世界では、目玉はただ傷つきやすく、エネルギーを消費するだけの【無駄な器官】だからよ」
烏丸は、透き通るような白い指先をそっと伸ばし、自分の柔らかな唇を撫でた。
「生命は、環境に適応するために自らの肉体を改造していく。……万能グミという『噛む必要も、消化する必要もない完璧な餌』を与えられ続けた人間は、洞窟の盲目の魚と同じ。硬い肉を引きちぎるための『牙』も、生命を溶かすための『胃袋』も、自ら捨て去っていくの」
烏丸はふふっ、と妖しく微笑み、会議室の全員を見回した。
「彼らは進化しているんじゃないわ。自ら地球という過酷な自然界からログアウトし、無菌室の中でしか生きられない【ひ弱なプランクトン】へと、その精神も肉体も退行させられているのよ」
「ククク……ハハハハハ!!!」
突如、長机の奥から地鳴りのような笑い声が爆発した。
特務考察機関サイファーのリーダー、御子柴健だ。
彼はよれよれのスーツのポケットから両手を引き抜くと、ジッポライターを取り出し、カチン、と火をつけた。
深く吸い込んだ紫煙を天井に吐き出しながら、彼はギラギラと血走った目でホワイトボードの前に飛び出した。
「繋がったぜ!! 氷室、轟、烏丸! 帝国メガファーマと大日本製菓が、なぜこれほど危険な代物を『安価なグミ』として若者にばら撒き続けているのか、その【悪魔のビジネスモデル】が完全に暴かれたぜ!!」
「悪魔の……ビジネスモデル!?」
氷室がタブレットを握りしめ、立ち上がる。
「そうだ!! 氷室! お前はさっき、個人の選択の自由だと言ったな! いつでも普通の食事に戻れると!!」
御子柴は黒のマーカーを掴み、ホワイトボードの中央に巨大な『胃袋』の絵を描き、それに何重もの鎖を巻きつけるように『万能グミ』という文字を書き殴った。
ダンッ!!と叩きつける激しい音が、窓のない密室に鳴り響く。
「違う!! これは選択の自由なんかじゃねえ!! 一度でもこのグミに依存し、消化器官を退化させてしまった人間は、二度と【自然界の食べ物】を口にすることができなくなるんだ!!」
御子柴の血走った眼光が、密室の全員を射抜いた。
「考えてもみろ!! 肉も食えない! 魚も食えない! 米も野菜も、体が受け付けず吐き出してしまう!! そんな『改造された肉体』になってしまった奴らは、明日からどうやって生きていく!?」
「……っ!! そ、それは……」
氷室の銀縁眼鏡の奥で、かつてないほどの戦慄が走る。
「そうだ!! 奴らは一生!! 帝国メガファーマが製造する、あのカラフルな【万能グミ】を買い続けるしか、生命を維持する方法がなくなるんだよ!!!」
御子柴が悪魔のような笑みを浮かべて、最悪の仮説を咆哮する。
「麻薬の依存症なんて目じゃねえ!! これは、人間の肉体の構造そのものをハッキングし、自社の製品しか吸収できない体に作り変える【絶対的な肉体的隷属】だ!!」
御子柴は、ホワイトボードの鎖の絵をマーカーで激しく叩きつけた。
「奴らは若者たちの胃袋を人質に取ったんだ! もし明日、製薬会社が『グミの値段を十倍にする』と言い出したらどうする!? 誰も暴動なんて起こせねえ! 買わなければ、物理的に餓死するしかないからな!!!」
「ああっ……! ああああああっ……!!」
七海悠太が、両手で自分の腹を強く掻きむしりながら、パイプ椅子から床の上へと転げ落ちた。
「俺……! そういえば三日前、友達の付き合いでラーメン屋に行った時……一口食べただけで、胃がギュウッて雑巾みたいに絞られて、全部トイレで吐いちまったんだ……!!」
七海の脳裏に、便器に吐き出した油塗れの麺と、自分の胃袋がキリキリと悲鳴を上げていたあの時の痛みがフラッシュバックする。
ただの胃もたれだと思っていた。体調が悪いだけだと思っていた。
だが違った。自分の肉体は、すでに普通の食事を「毒」として認識するほどに、不可逆の退化を引き起こしていたのだ。
「俺の体は……! もう、人間のご飯を食べられない【バケモノの胃袋】に改造されちまってるって言うのかよ……!!」
たった五百円の、甘くて美味しい一粒。
それは、若者たちを一生涯、巨大製薬企業の「飼い葉桶」から離れられなくするための、恐るべき首輪だった。
「俺は……俺の命はもう、あのパッケージの中のグミを舐め続けないと死んじゃう【製薬会社のペット】になっちまったって言うのかよおおおっ!!」
人間の肉体を内側から作り変え、自社製品への絶対的な隷属を強いる。
企業が国家を凌駕し、国民の生殺与奪の権を握るための、恐るべきディストピアの足音が、そこまで迫っていた。
「【な、何だって言うんだァァァーーーッ!?】」
七海悠太の魂を引き裂く悲鳴が、窓のない第4会議室のコンクリートの壁に虚しく反響する。
無機質な空調のモーター音は、まるで日本中の若者たちの胃袋が、静かに、そして確実に萎縮し、スクラップされていく不気味な動作音のように、一段と冷酷に地下室に響き渡っていた。




