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■ 第3話:孤食の究極形と、「共食」の破壊

 窓一つない地下の第4会議室は、御子柴が吐き出す紫煙と、たった一粒の甘い菓子が国民から「欲求」を奪い取る去勢装置であるという真実によって、肺が押し潰されるような極限の重圧に支配されていた。

 無機質な空調のモーター音が、ジジッ……ジジッ……と、逃げ場のない密室の空気をかき回し続けている。

 自分の心から「何かを欲する熱」が静かに消え去っていたことに気づいた七海悠太は、机の上の万能グミから距離を取るようにパイプ椅子の背もたれに張り付き、ガタガタと小刻みに震えていた。

「……落ち着いてください。先ほどから皆さん、感情論と陰謀論がないまぜになっています」

 氷室司が、長机の上に置かれた冷めきったブラックコーヒーの紙コップを手に取り、静かに一口啜った。

 彼は懐からマイクロファイバーの布を取り出し、銀縁眼鏡のレンズを執拗なまでに磨き上げると、手元の最新型タブレットを起動する。

「御子柴さんが危惧する『意志なき家畜化』。それは文学的な表現としては面白いですが、現実の社会構造を見誤っています。この万能グミが社会に受け入れられた最大の理由は、洗脳などではなく、現代社会が抱える【タイパ(タイムパフォーマンス)の極限追求】というデータに裏打ちされた合理性です」

 氷室の細い指先がタブレットを滑り、巨大モニターに「2029年の単身世帯率」と「一日の平均労働・娯楽時間」を示す青白いグラフが投射された。

「現代の若者は、食事の準備、食べる時間、そして片付けに費やす時間を『無駄』だと感じています。一食に一時間をかけるなら、その時間を仕事のスキルアップや、SNS、ゲームといったコンテンツ消費に回したい。……万能グミは、そんな彼らのニーズに応えた【究極の効率化ツール】に過ぎません」

 氷室は、勝ち誇ったようにレーザーポインターでグラフを指し示した。

「孤食化が進んだ現代において、食事はもはや『面倒なタスク』に成り下がっています。グミはそのタスクを数秒で終わらせ、人々に自由な時間を与えている。これは個人の選択の自由であり、社会全体の【生産性の向上】を意味しているんですよ」

 データと合理主義に基づく、氷室の鋭いカウンター。

 食事に時間をかける時代は終わった。グミは、現代人が自ら望んだ「進化」の形であるという強靭な論理。

 しかし。

 紫煙のベールを透かして、烏丸玲奈の鈴を転がすような、ひんやりとした笑い声が響いた。

「ふふっ……。氷室さん、あなたは本当に『ストップウォッチで計れる時間』のことしか信じないのね」

「何ですって?」

 氷室が不快そうに眉をひそめる。

 烏丸は黒いヒールを鳴らしてゆっくりと立ち上がった。

 彼女はペットボトルの水をグラスに注ぎ、透き通るような指先でその縁をなぞりながら、妖しい視線を会議室の全員へと向けた。

「氷室さん。人間にとって『食事』とは、カロリーや栄養素をタンクに給油するだけの作業ではないわ。……歴史を遥か古代まで巻き戻してみて。すべての文明において、食事とは神への供物であり、他者と時間と空間を共有する【神聖な儀式】だったのよ」

「儀式、ですか。また非科学的な……」

 氷室が呆れたように息を吐く。

「非科学的じゃないわ、これは社会学であり、人類の精神構造の根本よ」

 烏丸は、グラスの水を一口含み、うっとりとした表情で巨大モニターに映る万能グミのパッケージを見つめた。

「英語で『仲間』や『会社』を意味する【Companyカンパニー】という言葉。その語源を知っているかしら? ラテン語で『共に(com)』『パンを食べる(panis)』ことよ。……同じ火を囲み、同じ釜の飯を食う。その【共食】という行為があったからこそ、人間は家族を作り、部族を作り、社会という強固な繋がりを築いてきたの」

 烏丸は、透き通るような白い指先を天に向け、冷たい声で宣告した。

「食事の時間を数秒に短縮するということは、人間が数万年かけて築き上げてきた『他者と繋がり合うためのプラットフォーム』を、物理的に消滅させるということ。……万能グミがもたらすのは、孤食の究極形による【精神の完全な隔離】なのよ」

「軍事的な観点から見ても、烏丸の言う通りだ」

 轟大吾が、分厚い両腕を組みながら、地を這うような低い声で唸った。

 彼の巨体を包む黒のタクティカルジャケットが、呼吸のたびにギュッと軋む音を立てる。

「氷室。軍隊において、最新鋭の兵器を揃えることと同じくらい、上層部が気を遣う施設がどこか分かるか?」

「……兵器庫や、通信司令室ですか?」

 氷室が怪訝な顔で答える。

「違う。【基地の食堂メスホール】だ」

 轟が、長机を両手でバンッ!と叩きつけた。

「戦場の極限状態において、兵士たちの士気と連帯感を維持する唯一の場所が食堂なんだ。同じ不味い飯を食いながら、上官の愚痴を言い合い、故郷の家族の話をする。その『無駄な時間』があるからこそ、兵士は隣の奴のために命を懸けられる【戦友】になる!!」

 轟は、自らの暗号化端末を長机に滑らせ、氷室の前に突きつけた。

「もし軍隊から食堂を無くし、全員に個室でグミだけを齧らせたらどうなる? 兵士は互いの顔も見ず、言葉も交わさなくなる。……それはもう軍隊じゃない! ただ同じ制服を着ただけの【孤独な機械の寄せ集め】だ! 捕虜収容所で真っ先にやられる『分断工作』と全く同じなんだよ!!」

「……っ!! 食事を奪うことは、コミュニティを破壊する分断工作……!」

 氷室の持つタブレットが、カタカタと震え始めた。

「ククク……ハハハハハ!!!」

 突如、密室に地鳴りのような笑い声が響き渡った。

 御子柴健だ。

 彼はスーツの内ポケットからジッポライターを取り出し、カチン、と火をつける。

 深く吸い込んだ紫煙を天井に吐き出しながら、彼はギラギラと血走った目で立ち上がった。

「見事だ、烏丸! 轟! これで巨大製薬企業どもが、なぜ栄養満点のグミを社会にばら撒いたのか、その【悪魔的な真の目的】が完全に暴かれたぜ!!」

 御子柴はホワイトボードの前に飛び出し、黒のマーカーで『食卓』という大きなテーブルの絵を描き、その周りに『家族』『友人』『同僚』という人の形を書き込んだ。

 そして、赤のマーカーでその食卓に激しく【巨大なバツ印】を書き殴った。

 ダンッ!!と叩きつける乾いた音が、地下室の空気を震わせる。

「氷室! お前はさっき、グミが自由な時間を与えると言ったな! 違う!! 奴らは俺たちに時間を与えているんじゃない! 俺たちが集まって『会話する口実』を、根こそぎ奪い取っているんだよ!!」

「会話の……口実……!?」

 氷室が弾かれたように身を乗り出す。

「そうだ!!」

 御子柴が、黒のマーカーでホワイトボードを激しく叩く。

「人間が最も本音を語り、不満を共有し、権力への【反逆の種】を育てる場所はどこだ!? 会議室か? ネットの掲示板か? 違う! 『居酒屋』であり、『家族の食卓』であり、『会社の休憩室』なんだよ!!」

 御子柴の血走った眼光が、密室の全員を射抜く。

「一緒に飯を食う時間がなくなれば、人間は誰とも深い話をしない! 社会への不満も、政治への怒りも、すべて自分一人の中で抱え込んで腐らせるしかない! 巨大企業どもは、国民が団結してテメエらに牙を剥かないように、食卓という名の【人間の連帯ユニオンの基盤】を物理的に消滅させているんだよ!!!」

「……っ!! コミュニケーションの場を奪うための、究極の【分断統治】……!」

 轟が、顔面を蒼白にしながら呻いた。

「そうだ!! これこそが支配者にとって最も都合のいい社会だ!!」

 御子柴が悪魔のような笑みを浮かべて咆哮する。

「タイパだのコスパだのと持て囃されて、喜んでグミを噛んでいる若者たちは! 気づかないうちに隣の人間との繋がりを断ち切られ、互いに無関心な【完全なる孤立状態(アトム化)】へと追い込まれている! 奴らは国を乗っ取る前に、一億人の国民を、絶対に団結できない『バラバラの砂粒』に解体しているんだよ!!!」

「ああっ……! ああああああっ……!!」

 七海悠太が、両手で自分の頭を強く抱え込み、床の上でのたうち回った。

「俺……! そういえば最近、大学の昼休みがめちゃくちゃ静かだって思ってたんだ……!!」

 七海の脳裏に、悍ましい光景がフラッシュバックする。

 大学の大教室やラウンジ。数百人の学生たちが誰一人として言葉を交わさず、下を向いてスマホの画面を見つめながら、ただ口元だけでモチャモチャとカラフルなグミを噛み砕いている、あの不気味な静寂。

 誰も笑っていない。誰も怒っていない。誰も、隣の人間が生きていようが死んでいようが、全く興味を持っていない。

「俺たちは……! 時間を節約してるつもりで、いつの間にか『友達』も『仲間』も、全部この甘いグミと引き換えに捨てちまってたって言うのかよ!!」

 効率化という名の、甘い罠。

 食卓の消滅は、人間社会の崩壊を意味していた。

「俺は……俺はもう、誰とも一緒に笑いながらご飯を食べられない【一人ぼっちのバケモノ】に改造されてたって言うのかよおおおっ!!」

 食事という儀式を奪われ、完全に分断された個人の群れ。

 それは、巨大な権力にとって最も御しやすい、究極のディストピアの完成図だった。

「【な、何だって言うんだァァァーーーッ!?】」

 七海悠太の魂を引き裂くような絶叫が、窓のない地下室の壁に叩きつけられた。

 無機質な空調のモーター音が、まるで人々の会話が永遠に失われた世界を象徴するかのように、ただ冷たく、重苦しい静寂だけを部屋の隅々に運び続けていた。

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